4:指先から魔法
傷だらけのウィルフレッドと、濡れ鼠のマリカが邸宅内に入って最初に出くわしたのは、艶やかな黒髪をした美しい中年女性だった。
深い色合いの緑の瞳がウィルフレッドに似ているな、などと考えていると、女性は驚きもせずただ、腰に手を添えた。
そして頭を振り振り、深い息を吐き出す。
「ウィル……あなた、またやらかしたのね?」
愛称で呼ばれたウィルフレッドは、小さく、少しためらいがちにうなずいた。
女性は肩も落とす。
「縁談なのだから、抜かりのないよう頑張りなさい、と母は言いましたよね? それなのにまた、紳士にあるまじき行為をして……もう、誰に似たのかしら」
どうやら彼女は、ウィルフレッドの母親であるらしい。段々冷えて来た体をさすりながら、マリカは事の成り行きを見守る。
ウィルフレッドの母は、彼の背後に控えるフローレンスを見上げた。
「それでフローレンス。この愚息は、マリカさんに一体何をやらかしたの?」
「は。肩の埃を払おうとなさったのですが、加減を誤り、思いきり掴みかかられた次第です」
堅苦しい口調で、フローレンスはつまびらかに話した。ウィルフレッドよりも、彼の母親の方が畏怖の対象なのだろう。
「そして旦那様は突き飛ばされ、バラの木に激突。マリカ様もその反動で、噴水に落ちてしまわれました」
「まあ、思っていた以上の馬鹿息子ぶりに、泣けて来ちゃうわ」
涙とは無縁の冷え冷えした声で、彼女はウィルフレッドを見た。びくり、と彼の肩が跳ね上がる。
しかし彼女はそれ以上何も言わず、代わってマリカへ向き直った。
「ごめんなさいね、マリカさん。そしてはじめまして。私はこの馬鹿息子の母、ベアトリスです」
優美にお辞儀をする彼女に倣い、マリカも水を滴らせながら身を低くする。
「マリカと申します。このような姿で、申し訳ありません……」
マリカの濡れて、冷たくなった手を取って、ベアトリスは艶っぽく微笑んだ。同性でもくらりと来てしまう笑みだ。
「いいんですよ、全ては機微に疎いウィルの仕業なんですから。今、お風呂を用意させますね。あと、私のもので構わなければ、着替えも用意させますわ」
至れり尽くせりの、これ以上ない申し出だ。
冷えた身体が温まって行くような気がして、マリカはつい瞳をうるませる。
「何から何まで、ありがとうございます」
ぺこり、と再び頭を下げた彼女の腕を右手で包み込みつつ、ベアトリスは左手で一人の女中を呼んだ。
「ルアナ。マリカさんのお世話をして頂戴」
ブルネットの、知的な顔立ちの女性がベアトリスへ歩み寄る。
「はい、かしこまりましたベアトリス様。それではマリカ様、こちらへ」
ルアナと呼ばれた女性に背を押され、マリカは屋敷の奥へと案内される。
だが。
「ごめんなさい、ちょっと待って下さい」
ルアナに謝り、きびすを返す。こんな美しい邸宅の、磨かれた木床を再び濡らしてしまうのは気が引けたが、仕方ない。
重くなったドレスをひきずり、彼女はウィルフレッドの前へ立った。
間近で改めて見れば、やはり自分よりいくぶんか小柄だ。
それでも十二分に怖い顔をしているが。
なるべくその顔を凝視しないよう、マリカはレースの手袋を外す。
「不作法を、お許しください」
そして、やや目を見開いているウィルフレッドの頬に、そっと触れた。
途端に、マリカの細い指先が光った。
その光はふわりふわりと広がり、ウィルフレッドの顔を包み込む。
すると、彼の顔中に出来た擦り傷が消えていく。
「癒しの魔法……」
誰かが、その小さな奇跡に嘆息をもらした。
はい、とマリカも応じる。
「傷を治す程度しか出来ないのですが、お役に立てたのであれば、幸いです」
ちろりとウィルフレッドを見ると、じっとこちらを凝視していた。目が合うと、少し慌てた様子でうんうんうなずいた。
気味悪がられたり、迷惑に思われたりはしていないようだ。
ほっとして、マリカも及び腰のままぎこちなく笑い返す。
「……先ほどは、あの、本当にごめんなさい。それでは、その……失礼します」
そして一礼し、ルアナが待つ屋敷の奥へと戻る。
その華奢な背中を、ウィルフレッドはじぃっと眺めていた。