37:好きだ
ぱくぱくと、酸素に飢えた魚のように、マリカは口を開閉させる。
「うぃ、る、さま……」
喘ぎ喘ぎ名を呼べば、いつものこくん、とした返事が返ってくる。
「どう、して」
数々の疑問を内包した言葉だった。
どうしてここにいるの?
どうして一人きりなの?
どうしてハンカチを差し出してくれたの?
どうして来てくれたの?
「マリカに会うため」
その疑問たちに、ウィルフレッドはたった一言答えた。
それは、マリカが聞きたくて聞きたくてたまらなかった言葉だった。
だが、首を縦に振るわけにはいかない。
マリカは立ち上がり、距離を取る。
「お帰り、下さい……」
「何故」
ウィルフレッドが再び歩を詰める。
「私は、あなたの婚約者にふさわしくありません」
うつむき、声を振り絞る。
「……私の家系は、魔法を使えるために代々短命です。子を成せば、その忌まわしい魔力をあなたの一族に引きこんでしまいます」
なお足を動かしていたウィルフレッドの歩みが、止まる。
そして目を見開いた。どうやら、ベアトリスから何も聞かされていないらしい。
マリカとウィルフレッドは、じっと見つめ合ったまま固まった。
やはり綺麗な瞳だ、とマリカはぼんやり思う。
再びぽろり、とマリカの頬に涙が流れ落ちた。
「何故」
ウィルフレッドの、薄い唇が動いた。
「え?」
「ならば、何故泣く。納得ずくではないのか」
「……」
答えられなかった。
口元に手を添え、マリカは沈黙する。
その彼女の腕を、ウィルフレッドが強引に取った。引っ張った。
そしてぎゅう、と彼女の華奢な身体を抱きしめる。
陽光の香りがする温かさに包まれ、マリカはなお涙がこみ上げた。
しかし、彼の小柄な身体を押し返そうともがく。
「離して下さい」
「嫌だ」
なおも、マリカはもがいた。
「お願いします、離してくだ──」
「好きだ」
耳元で、ぽつりとささやかれる。マリカはびっくりして、動きを止めた。
「好きだ。愛している。誰よりも愛している」
淡々と、しかし熱病に浮かされたような調子で、ウィルフレッドはささやき続けた。
「私を捨てないでくれ」
「違います。捨てられるのは、私……」
もがくのをやめたものの、マリカの身体は強張ったままだった。そして、傷ついた笑みを浮かべた。
「きっとウィル様も、こんな弱い女を嫌になるはずです。だからお願いします、私を捨てて下さい」
「ならば、止めてくれ」
穴が開くほど彼女を見つめ、ウィルフレッドがマリカの頬に触れた。
絶え間なく流れ落ちる涙をそっと、拭い取る。
「……ごめんなさい、私にも止められなくて」
「何故」
彼女の頬に手を添えて、じぃっとその顔をのぞきこむ。
嘘を許してくれる瞳ではない。相変わらず、強い眼光をたたえていた。
「……だって、ウィル様の目がとてもきれいだから」
こくん、とウィルフレッドはうなずいた。
「……それにウィル様のことを、どうしても忘れられなくて」
再びこくり、とうなずきが返ってくる。
「……だから、辛いの……辛くて……嬉しくて、会えて」
ほろり、とまた涙がこぼれる。それを丁寧に、ウィルフレッドが拭った。
「好き、です」
涙と一緒に、本当の気持ちも転げ落ちた。
「ウィル様が大好きです……きっと、ずっと前から」
「初めて聞けた」
「え?」
「貴女の気持ちを」
思わずまじまじと、マリカは彼の顔を見つめる。
淡白な口調だが、頬は真っ赤に染まっていた。
そして、とろけそうなぐらいに微笑んでいる。
幼いその笑顔に、マリカはつい吹き出した。
「何故笑う」
途端に、いつもの無表情が戻って来た。
「ごめんなさい。だって、可愛らしくて」
涙も引っ込んで、マリカはくすくすと笑う。
「それは、褒め言葉ではない」
鼻息荒く、不機嫌にウィルフレッドがぼやく。
「では、なんと申せばよろしいでしょうか?」
しばし、ウィルフレッドは黙りこくった。怒っているようにしか見えない思案顔で、うんうんとうなる。
その顔も、すっかり見慣れていた。愛しさすら感じる。
ややあって、ウィルフレッドが言った。
「マリカになら」
「はい」
「マリカになら、なんと言われても、良い」
今度はマリカが赤面する番だった。
その赤くなった顔を両手で包み込み、ウィルフレッドが額を摺り寄せる。
マリカも目を閉じた。
「好きだ」
もう一度、ウィルフレッドがささやく。
そして二人の唇が触れ合った。




