34:尻尾切り
気分が優れなかった。
魔法で無理矢理、髪を再生させたためだろう。簡単なように見えて、失った部位の回復にはかなりの魔力を必要とする。
マリカは再びの眩暈に襲われていた。
青ざめた顔を、ルアナが丁寧に施してくれた化粧がごまかす。
幸い、隣のウィルフレッドにも気付かれていないようだった。
彼はむしろ、舞踏会という場そのものに気が向いている様子だ。
使用人やベアトリスによると、彼は社交界が苦手であるらしい。
怖い顔故に敬遠されたり、もしくは酔客に絡まれることが多々あるそうだ。
そして今も。
「あんた、トカゲなんだって、なあ? 尻尾切りしてみてくれよ、なあ?」
赤ら顔で酒の匂いを漂わせた男に、ねちねちと迫られていた。不幸にも、フローレンスは控室に待機している。
にらんでも退散しない彼に、ウィルフレッドも戸惑うように薄い眉を寄せた。
マリカも、つられるようにすくみ上がる。
にやけ面のその男の、品性のなさや、言葉から漂う粗暴さに、怯えてしまっていた。
それを察知し、ウィルフレッドは彼女を庇うように立ち位置を変える。
そして息を吸い、唇を動かしかけたところで。
「お客様、これ以上の行いは看過いたしかねます」
舞踏会会場の使用人が現れ、男の腕を掴む。
「あ、なんだよ? 俺は何もしてねえぞ」
息巻く男へ、使用人は鉄の顔を崩さない。
「旦那様のお客様に、ご迷惑をおかけしております。どうか御退出下さいませ」
「おい、こら、やめろよっ」
慌てる男にお構いなく、使用人は彼を出口まで引きずって行った。
ほ、とマリカとウィルフレッドは息を吐く。
「怖かったです……ね」
震える声音に、再びウィルフレッドは眉を寄せた。この恐ろしい困惑顔にも、ずいぶんと見慣れたものである。
「すまない」
思いがけない謝罪の言葉に、マリカは小首をかしげる。
「どうしてウィル様が謝られるのですか?」
「怖い思いを」
「ウィル様は悪くありません。あの酔っ払いさんがいけないんです」
きらめく会場の空気に、マリカも上気したのかもしれない。はきはきと、ウィルフレッドをなだめることができた。
「それよりも、初めての舞踏会ですから、エスコートをお願いいたしますね?」
そして少しばかりの茶目っ気を含み、彼の顔をのぞきこむ。
ほんのり赤くなった顔で、こくこくとウィルフレッドはうなずく。
彼は、男女がペアになって踊る大広間を見た。
つながったままのマリカの腕を、更に強くからめ取る。
「行こう」
「はい!」
マリカも大きくうなずいた。
その時だった。
どん、と振動があった。
それはウィルフレッドの背中に、男がぶつかる振動であった。
男は、先ほどの酔客だった。彼を追うように、使用人が大慌てでこちらへ向かっているのが見えた。
ウィルフレッドに突進した男は、身体を離して顔をしかめる。
「あれえ? 尻尾ねえなあ? 切ってやろうと思ったのに」
男の手には、肉切用のナイフの柄が握られていた。
刃は、ウィルフレッドの腰に刺さっている。
ウィルフレッドの身体が傾き、その場に崩れ落ちる。
「ウィル様ッ!」
マリカも悲鳴を上げ、彼の隣にしゃがみ込んだ。
先ほどまで紅潮していたウィルフレッドの顔は、紙のように白く染まっていた。
またナイフの刺さっている腰部から、不規則に血が流れ出ている。
二人の異変に勘付き、続いて彼らの足元に血が広がっていることに気付き、先刻の使用人が絶叫する。
「メルヴィル様! 誰か、医師を早く!」
ウィルフレッドを刺した男を取り押さえながら、使用人が叫ぶ。その叫びに呼応して、周囲の招待客や使用人らも異変を知った。
彼らもざわめき、また悲鳴を上げる。
「早くソファまで!」
「駄目だ、出来るだけ動かさないように!」
口々に大音声で言い合う。
その声たちで、マリカの真っ白だった自我が己を取り戻す。
ハッとして、続いて周囲を見渡した。
「お医者様はご不要です! 私は魔女です!」
医師を呼ぶべく、屋敷の外へ飛び出そうとしていた招待客を制し、マリカは手袋から腕を引き抜く。
そして光る両手で、ウィルフレッドの傷口にそっと触れた。
ウィルフレッドが低くうめく。
「大丈夫です、ウィル様。私が治してみせます」
脂汗を浮かび上がらせているウィルフレッドの顔に、強張りながらも笑いかけた。
「それでは、ナイフを引き抜きますから……我慢して下さいね」
かすかに、ウィルフレッドがうなずく。
そして歯を食いしばる。
マリカも口を引き締め、震える手で、ナイフの柄を握った。
血で濡れているため何度か滑ったが、なんとかそれを抜き取る。
途端にごぷり、と血があふれ出た。
周囲から悲鳴が再び上がる。
中には倒れる貴婦人もいた。
マリカはそれに動じず、両手で傷を塞いだ。
魔力を注ぐ。
弱っていくウィルフレッドの身体に、自身の力を全て注ぎ込んだ。
ぽっかり空いた傷口が、その魔力をぐんぐん飲み込んでいく。
マリカという器を満たしていたものが、急速に失われる。
と同時に、少しずつウィルフレッドの傷口は小さくなっていった。
悲鳴を上げていた招待客たちから、今度は歓声が上がった。
ウィルフレッドの顔色も、徐々に良くなっていく。
そうして、傷は癒えた。
大きく息を吐き、ウィルフレッドが顔を持ち上げた。
額に未だ汗が浮いているものの、血の気が戻っていた。
「マリカ」
「……ウィル様……」
囁き声に、マリカもにこりと笑って応じる。
だがその笑みは、どこか空虚だった。
何故ならば、マリカの内側は空っぽだった。文字通り全てを、ウィルフレッドに明け渡してしまったのだから。
故にもう、限界であった。
ホッとしたのも原因であろうが、意識はそこでぷつり、と途絶えた。
ウィルフレッドにもたれるように、マリカは倒れ込んだ。




