3:バラと噴水
トカゲ紳士。
爬虫類を思わせる容姿故、安直に付けられた異名であった。
だが安直である分、社交界に広がるのも早かった。
ただ幸か不幸か、社交界と縁のなかったマリカにとっては、与り知らぬ話であったが。
今のマリカには、そんなことなどどうでもいい。
物見遊山のような、軽い気持ちで縁談に臨んだというのに、待っていたのは悪魔のような顔つきの少年、いや青年。
どうすればいいのだ、とマリカは固まっていた。
しかし自分の方が年上なのだ、と慌てて思い出す。
日傘を畳み、ドレスの裾を両手でつまみ上げる。
亡き母に叩き込まれた挙動で以って、頭を下げる。
「お、お会いできて光栄です、ウィルフレッド様」
ぎこちなくも、挨拶もできた。内心、ホッとする。
ウィルフレッドも無言で一歩、彼女へ近づいた。
その動きだけで逃げ出したくなったが、頭を下げたままぐっとこらえる。
日傘を持つ手は、小刻みに震えていた。
視界に映るのは磨かれたボタンと、上等そうな布地。そして体の脇に下げられたままの白い手だった。
色の白い方だ、と彼女は考えた。
マリカは、彼が口を開くのを待つ。
しかし口よりも早く、手が動いた。
それもマリカの手を取り、洒脱に甲へ口づけを落とす、などではなかった。
無造作に持ち上げた手で、彼女の肩を思いきり掴んだのだ。
「きゃああああ!」
ここがメルヴィル邸であり、自分の肩を掴む男が主であることも忘れ、真っ白な頭でマリカは絶叫する。
次いで両手を思いきり前方へ出し、ウィルフレッドの小柄な体を突き飛ばした。
「あ!」
と、フローレンスが目を丸くする間の出来事であった。
後方へ押し出されたウィルフレッドはよろめきながら、体勢を立て直そうとして失敗し、そのまま近くのバラの木に頭から突っ込んだ。
二本の脚だけが、赤いバラの茂る木から、にょっきと生える絵面となった。
一方のマリカも、男一人を突き飛ばした反動で後方へ大きくのけぞる。
そのまま、近くにあった噴水へ背中から落ちた。
スカートがめくれあがらなかったのが、不幸中の幸いであろう。
フローレンスは一瞬の躊躇の末、マリカへと駆け寄った。実に紳士的判断だ。
「マリカ様、大丈夫っすか?」
しかし慌てているのか、口調がいつも以上にくだけていた。
マリカも彼にすぐ応じたかったのだが、不幸にも鼻に水が入っていた。むせこむので精一杯であった。
げほごほごぼぼ、とみっともなくも盛大に咳き込む。穴という穴から、水分がだだ漏れている心地であった。
その醜態からさり気なく視線をそらしつつ、フローレンスは噴水の中へ入った。
濡れることも厭わず、未だひっくりかえったままのマリカを抱き起こす。
そして少し、うなだれた。
「すみませんね、マリカ様。なんだか驚かせちまって」
水を吸って重くなった赤毛を振り、マリカはむせかえりながらなんとか答える。お気に入りの青い帽子は、噴水へ落ちた反動で転げ落ちていた。
「こちらこそ、ごめ、んなさい……急だった、ので、大袈裟に驚いてしまって」
「仕方ないですよ。だってほら、あの顔ですから」
なんともざっくばらんな感想に、マリカはぎょっとした。
まさか従者が、主人を貶めるとは思わなかったのだ。
驚く彼女を尻目に、自力でバラの木から抜け出したウィルフレッドを仰ぎ見るフローレンス。その表情は、どこか楽しげににやけていた。
「旦那様の顔は、我が国でも一、二を争っておっかないですからね」
こくり、とウィルフレッドも無表情にうなずく。
その緩慢な仕草は、ますますトカゲに似ていた。
バラの木に引っかかれ、擦り傷だらけになった顔を眺め、フローレンスはぷっと笑い出す。
「にしても酷い顔ですね。痛いですか? 頭にもバラ、刺さってますが」
頭に咲いた赤いバラを引っこ抜きながら、またウィルフレッドはうなずいた。
動作だけを見ていれば、まだまだ少年、と思えなくもない。その目付きには百戦錬磨の貫録が漂っているけれども。
「ところでさっきは、マリカ様にいきなり掴みかかってどうしたんですか?」
いよいよフローレンスが核心を突くと、ウィルフレッドは自分の肩を指さした。
続いて、何かを払う動作をする。
わけが分からずマリカがきょとん、と男二人を交互に見上げていると、フローレンスが耳打ちした。
「どうやらマリカ様の肩についていた埃を、取って差し上げようとしたようです」
「そう、でしたか」
ぎこちなく微笑んで、マリカはうなずいた。
そして恐々と、ウィルフレッドの無感情な面差しを眺め、再度頭を下げる。
「あの、ありがとう……ございます」
こくり、とまたウィルフレッドはうなずいた。
強面の上、無口であるらしいぞ、とマリカは心中で考える。
次いで、フローレンスがマリカの家へ持参した、あの写真の謎が分かった。
逆光の写真を使ったのは、わざとであった。
主の顔で、縁談が逃げてしまわないための、策略だったのだ。