28:距離
マリカは緊張でかちこちだった。
しかしそれは、彼女の隣に座るウィルフレッドも同じ。
前をにらみ──いや、見据えたまま、険しい顔をしている。
まるでこれから、戦場に赴くかのような顔つきだ。
そして、二人を運ぶ自動車の運転手も、つられるように緊張していた。体を強張らせつつも、それでも彼は滑らかなハンドルさばきで自動車を動かす。
マリカとウィルフレッドが二人きりで出かけるのは、これが初めてだった。
正確には運転手もいるのだが、彼はあくまで影に徹している。事実上、この場の登場人物はマリカとウィルフレッドのみである。
マリカは絹の手袋をはめた手を、無意識に開閉する。そして一度、深く息を吐いた。
なんだか緊張で、胃が縮みあがっているようだった。
ツイード生地の、上下揃いのラウンジ・スーツを着込んだウィルフレッドが、気遣わしげに彼女を見上げる。
その強い眼差しに気付かないわけもなく、マリカは隣を見てぎこちなく笑い返した。
それで納得したのか、ウィルフレッドはこくり、と一つうなずく。
彼の装いは、いつもよりも流行を意識したであろう、洒落たものだった。
一方のマリカのドレスも、花模様が織り込まれた晴れやかな品だ。
二人がお洒落着に身を包んでいる理由は、これから向かう場所にあった。
ぎこちない空気が、更に十五分ほど続いた後に、
「旦那様、マリカ様。着きました」
運転手が静かに自動車を停め、後部座席でしゃっちょこばる二人を顧みる。
それに応じて、ウィルフレッドが小さくうなずいた。
運転手は素早く車を降り、二人のためにドアを開ける。そしてウィルフレッドがマリカの手を取り、外へと導く。
マリカももう片方の手に日傘を握りつつ、どぎまぎと自動車を降りた。
石畳を踏みしめ、眼前にそびえる二階建ての店舗を見上げる。
リーヴス写真館、と看板が掲げられている。
そう、二人はポートレイト撮影のために写真館へ赴いていた。
中流階級と言わず、庶民の間でも写真撮影は、安価な思い出作りとして流行していた。
撮影された個人あるいは家族写真は、アルバムに加工され、客間を彩る道具となっている。
もちろんメルヴィル家にも、アルバムは常備されており、幼い頃のウィルフレッドを堪能することが可能だ。堪能する人物がいるかは謎だが。
また、お気に入りの写真は壁に飾られている。
そして今回、新たに二人の写真を壁に加えよう、と画策したのだ。ベアトリスが。
「始まったばかりの二人の写真だなんて、初々しくて良いじゃない。ぜひ残しておきましょうよ」
鶴の一声、であった。
マリカがうなずく前に、フローレンスが写真館と自動車の手配をし、ルアナがドレスを用意した。
そしていつものように、流されるまま写真館へとやって来たのだ。
最近では、この流される感覚にも慣れつつあった。
諦めの境地に辿り着いた、とでも言うべきか。
それとも、ベアトリスの為人を理解して来たためだろうか。
写真館の両開きの扉を開くと、口髭を生やした紳士が低姿勢で出迎えてくれる。
「お待ちしておりました、メルヴィル様」
「よろしく頼む」
本日初めて、ウィルフレッドが口を開いた。
彼の背後にいるマリカも、会釈をする。
紳士改め館主は、にこやかに店の奥へと二人を招き入れる。
「準備は万端でございます。どうぞ、こちらへ」
再び無口に戻ったウィルフレッドが、こくんとうなずき、彼に続いた。マリカも、更にその後ろを歩く。
その途中で歩きながら、ウィルフレッドが振り返った。
「ウィル様?」
マリカが小首をかしげると、ウィルフレッドは自分の足元と、そしてマリカの足元を交互に指さした。
ドレスの裾からのぞくマリカの靴は、編み上げ式のブーツだった。踵も低い。
ウィルフレッドは少し困惑したように、眉を寄せている。
どうしてぺったんこ靴なのか、とその吊り上がった目が語っている。
確かにめかし込んでいるというのに、普段着用のブーツを履いているのはちぐはぐだ。
マリカはうっすら頬を赤らめ、しばしうつむいた。
そして、視線を横にずらしてぽつりと呟く。
「だって……これ以上、追い越したくないんですもの……」
そこには、彼の身長と年齢を、という二つの想いが込められていた。
彼女の言葉を理解し、たちまちウィルフレッドは硬直した。
そのまましばらく、彼は廊下の真ん中で棒立ちとなっていた。
館主が、戸惑ったように振り返っている。
「あのう、どうなされました?」
「いえ、なんでもないんですっ」
マリカは真っ赤な顔で、慌てて応じた。次いで、ウィルフレッドの袖を引っ張る。
「ウィル様、急ぎましょうっ」
ハッとなったウィルフレッドは、自分の袖を握るマリカの手を取った。
「ウィル、様?」
嫌な予感がして、マリカは一歩尻込みする。
しかし遅かった。
次の瞬間には、マリカはぎゅうっときつく、ウィルフレッドに抱きしめられていた。
陽光の香りがふわり、と彼の身体から漂って来た。
その香りを意識し、布越しに伝わる体温を感じた途端、マリカの顔が真っ赤に染まる。
「きゃああああ!」
いつかのようにマリカは絶叫し、そして反射的にウィルフレッドを握り拳で殴るのであった。




