26:優しい手
邸宅を囲う低木を踏み荒らし、ウィルフレッドは庭園へ降り立った。
仁王立ちのまま降りて来た彼は、普段以上に迫力がある。
ルアナとマリカは、その場に凍りつく。
先ほどまで怒り心頭だった中年男性も、振り上げた己の拳を見上げて慌てる。そして、大急ぎでその手を隠した。
「いや、これは、その、あれでして」
へどもどと言い訳する男へ、ウィルフレッドは大股で肉薄する。
「私の婚約者に何か」
いつもよりも低い声音で、そう詰問する。
「とんでもない! 滅相もございません!」
男は脂汗が浮いた顔で、ぶんぶんと首を振る。
じろりと彼を見上げる緑の瞳は、男を射抜くように鋭い。
「私に物言いか」
「ございません! そのようなことは、何一つとてございません!」
ひれ伏しかねない勢いで、男は再度首を振る。
すると途端に興味を失ったかのように、ウィルフレッドは男へ背を向けた。
そして、未だ凍り付いているマリカ目がけて歩き出す。
「マリカ」
「は、はいっ」
腕を差し出され、マリカは我に返った。
おずおずと、その腕を取る。
ウィルフレッドはそれを確認し、屋敷へと歩を進めた。我に返ったルアナも、二人の背後に付き従う。
マリカはひっそりと、彼の顔をのぞきこむ。
「ウィル様……あの方は、大丈夫でしょうか?」
「フローレンスがいる」
簡潔な答えだが、安心できるものだった。
マリカも小さく、頬を緩めた。
男だけがその場に残され、ぽつねん、としていた。
しかし視線を巡らせ、庭園や屋敷内の使用人たちから、にらまれていることに気付いた。
加えて、一人の屈強な従者とおぼしき男が、腕組みしてこちらを見据えていることにも。
男は再び脂汗を浮き上がらせ、もんどり打つようにして庭園から逃げ去った。
屋敷へ戻る道中、マリカは気づいた。
かすかにだが、ウィルフレッドが足を引きずっていると。
二階から飛び降りたのだ、足を挫いていてもおかしくない。
「ウィル様……」
マリカは呆れたような、困ったような、それでいて少し嬉しそうな、複雑な表情で彼を見つめる。
視線の意味に気付いたらしく、ウィルフレッドの白い肌がうっすら赤らんだ。
黙りこくったまま、彼はうつむき、立ち止まる。
マリカはウィルフレッドの腕を優しく引っ張り、広間の隅に置かれたソファまで導く。
ウィルフレッドも、無言でそれに従った。
ソファへ座る時、彼は顔をしかめた。だが、それも一瞬のことだった。
「やせ我慢なさらないで下さい」
ウィルフレッドの前にしゃがみ込み、マリカはたしなめるようにそう言った。
再び、ウィルフレッドがうなだれる。
しゅんとなった彼に小さく笑い、マリカは手袋を脱いだ。
「少し失礼いたしますね」
短く断り、彼のズボンをたくし上げる。
あら、と思わずマリカは声を上げた。
思っていた以上に、ウィルフレッドの足首は腫れ上がっていた。
随分と痛かったはずなのに、よくもあの無表情を貫けたものだ。
その鉄面皮ぶりに、マリカは改めて感心する。
「飛び降りるなんて無茶なこと、止めて下さいね」
魔力を両手に宿し、腫れ上がった足首を包み込んで諌める。
その様子をじっと見つめながら、ウィルフレッドはぽつりとこぼした。
「ケンカは初めてだ」
つられて顔を上げると、ウィルフレッドは極めて真面目な顔で彼女を見つめ返した。
つまりは、初めてだったので、つい咄嗟に飛び出してしまった。
そういうことだろうか、とマリカは推測した。
思えばウィルフレッドの言葉足らずにも、ずいぶんと慣れて来たものだ。
「すまない」
万感の思いがこもった謝罪を、ウィルフレッドは絞り出すように呟く。
いいんですよ、とマリカは軽く首を振った。
「そうですね。ウィル様の手は、お菓子作りが上手な優しい手ですものね」
そう言ってにっこり微笑めば、ウィルフレッドもためらいがちにうなずき返した。
いつの間にか、書斎で漂っていた気まずさも、どこかへ雲散霧消していた。




