2:トカゲの君
ウィルフレッド・メルヴィル。それが見合い相手の名前だった。
メルヴィルの名前ならば、田舎暮らしのマリカにだって聞き覚えはある。菓子店やレストランを営むジェントリの一族の名だ。
おまけにウィルフレッドは弱冠二十歳だという。マリカよりも、八歳も年下である。あまり、見合いや結婚の相手にふさわしいとは思えなかった。
それでもマリカは、心配する兄夫妻を説き伏せて、見合いへ臨むことにした。
一つは、中流の低層に位置するフォンテーヌ家があのメルヴィル家を振ったとなれば、角が立つから。
二つは、単純なる好奇心からだった。
あの紳士──ウィルフレッドの従者だと名乗るフローレンスが用意してきた写真は、逆光のそれ一枚きりだった。
せめて顔ぐらいは拝んでみたい、という思いもある。
また、たまには田舎を抜け出して、見知らぬ世界の空気に触れてみたい、という欲求だってある。
そしてメルヴィル家はまさしく、その好奇心を満たしてくれる屋敷であった。
まだまだ珍しい自動車に乗せられて着いた先は、文句のつけようがない豪邸だった。
ピカピカに磨かれた金属製の門の先にはまず、迷路を思わせる庭園が広がっていた。その先には、噴水も見えている。
丁寧に刈り込まれた庭木に挟まれた道を、自動車で進む。
「ここの庭は有名でしてね。旅行者の方も、大勢見に来られるんですよ」
前方の座席に座る運転手が、誇らしげに言った。マリカも控え目に微笑み、相槌を打つ。
緑の道を抜けた先に、屋敷はあった。
白と赤の煉瓦を組み合わせて作った屋敷は可愛らしくも、堂々としたたたずまいをしている。
また、窓の上辺や屋根にはカルトゥーシュの意匠もあった。
素敵な屋敷だ、とマリカは素直に思う。
「マリカ様、よくぞお越しくださいました!」
もったいぶった造りの、ぐねぐねと曲がりくねった玄関前の階段を下り、フローレンスが姿を見せる。
相変わらずのくだけた調子と、朗らかな態度である。
人見知りのきらいがあるマリカだが、彼の適度な押しの強さには安堵感を覚える。
この場において、唯一名前を知っている人物、という点も関係しているだろうが。
「お久しぶりです、フローレンスさん」
亡き母の形見でもある日傘を傾け、マリカもそつなく会釈を返した。
フローレンスは相変わらずの、隙のない従者姿でにっかりと笑う。
「今日もお美しいですね。そのドレスもよく似合ってますよ」
そして滔々と、彼女を褒めちぎった。
褒められ慣れていないマリカは、たちまち頬を赤らめてもじもじとうつむいた。
なにせ、普段は隠者のごとき生活を送っているのだ。
社交界とも縁のない彼女にとって、これはなかなか気恥ずかしい状況だった。
「いえ、あの、ありがとうございます」
へどもどと、何とか礼を言えば
「お世辞じゃないですよ。マリカ様は美しい。うちの坊ちゃ……いえ、旦那様にはもったいないぐらいだ」
真顔で、そう言われた。
上手く返す知識も技量もないマリカは、話題の方向転換に努めた。
「ところで、あの、ウィルフレッド様は……どちらに?」
きょとん、とフローレンスがまばたきした。
「え? もういますよ、こちらに」
そう言って後ろを向き、顔をしかめる。
「旦那様、いつまでそこで固まってるんですか!」
いきなり大声を出され、マリカは思わず身を竦めたが、彼女に怒っているようではない、らしい。
どうやら、彼の背後に隠れる人物を叱りつけているようだ。
「縁談のお相手なんですから、ご自分で会わないといけないでしょう! え、恥ずかしい? 何を今更言ってんですか! ほらほら、前に出て!」
ごにょごにょと、何かを言い返す声がかすかに聞こえたが、それを無視してフローレンスは背後に手を伸ばす。
そして隠れていた人物を、ぐぐいと前面へ押し出した。
見合い相手であるウィルフレッド・メルヴィルと目が合って、マリカは固まった。
彼女よりも小さいかもしれない、小柄な体躯。
さらさらと流れる黒髪。
湖畔を思わせる、深い緑の瞳。
まだまだ幼さを漂わせる、フロックコート姿。
しかし彼女は、それらに目を奪われたのでは、ない。
キッと吊り上がった目じり。
細い鼻梁。
血の気のない肌。
肉の薄い唇。
それは爬虫類を想起させる凶相、であった。
有り体に言えば、とんでもない悪人面だったのだ。
マリカは目が合ったまま、さながら石像と化していた。
回れ右をしたかったが、それすらも叶わなかった。
恐怖心故、指先すら動かすことが出来なくなっていたのだ。
後に彼女は、ウィルフレッドの異名が「トカゲ紳士」であることを知る。