19:アライグマとトカゲ
母にチクチクと叱られ、ウィルフレッドが顔と手を洗いに行っている間に。
マリカは厨房へと案内されていた。
そこで新作だという、クッキーを試食させてもらうことになった。
厨房を仕切っている料理人が、背筋を伸ばしてしゃっちょこばる。
「動物クッキーが子供たちに好評だったので、新しい動物を増やした次第です」
「まあ、可愛らしい」
猫や犬、あるいは羊のクッキーにマリカは相貌を崩した。どれも丸々とデフォルメされており、愛らしいの一言に尽きた。
「見た目だけじゃなくて、味も自慢なんです」
クッキーの載った皿を、マリカへと差し出した。
マリカは一つ礼を言い、悩んだ末にアライグマのクッキーを手に取った。そして、一口つまむ。
素朴な甘さに、自然と頬がほころんだ。
その様子に、ベアトリスも料理人も笑顔を浮かべる。
「とっても美味しいです、このアライグマさん」
ほっと、料理人が小さく息を吐く。
「奥方様の、お口に合って良かったです」
奥方という言葉に、くすぐったさを覚えてマリカはうつむく。そして食べかけのクッキーを見つめた。
「でも、アライグマだなんて……少し珍しいですね」
「ええ、私もそう思うんですが、こちらがオーナー渾身の新作でして」
「ウィル様の?」
こくり、とうなずきが返って来た。
それは顔と手をきれいさっぱり洗い流して来た、ウィルフレッドのものだった。
「ウィル様、どうしてアライグマを?」
直接問いかければ、ウィルフレッドはじっと無表情にマリカを見つめる。
その視線の強さに、マリカは身じろぎした。
「あの……ウィル様?」
「貴女を」
相変わらずの少ない言葉と共に、ウィルフレッドはマリカを指さした。
その意味を理解するのに、数十秒を要した。
先に察知したベアトリスが、呆れ顔で息子を見下ろす。
続いて理解した料理人が、照れくさそうにコック帽を撫でた。
最後にマリカが、自分の指でも己を指さし、真っ赤な顔で素っ頓狂な声を上げた。
「わっ、私がモデルなんですかっ?」
こくり、と肯定のうなずき。
獰猛ってことですか! こんなに垂れ目ですか! 私、毛深くなんてありません! などなど、言いたいことは山ほどあったが。
とりあえずマリカは、赤い顔ですねた。
「無断で作るなんて、あんまりです」
そして、ささやかな反撃に出る。
「それに作るなら、トカゲさんクッキーも一緒に作って下さい」
たちまち、ウィルフレッドの眉間が不機嫌そうに深い皺を刻んだ。
ひっ、とマリカは条件反射でのけぞる。
しかしどうにか堪えて、彼から目を逸らさず、見つめ合った。いや、睨み合った。
いつもよりも数段低い声で、ウィルフレッドが問うた。
「何故」
「ふ、不公平ですもの」
「誰が買う」
「……お屋敷の方ならきっと、皆さん買いますよ」
自分で言って、マリカは売れないであろう、と予想してしまった。
爬虫類クッキーは、さすがに子供受けが悪いだろう。
反撃の虚しさを噛みしめていると、ウィルフレッドは腕を組んだ。
そして、低くうなる。
うなった末に、マリカを見上げた。
「マリカは」
「はいっ」
驚きのあまり、元気よく背筋を伸ばす。
思えば、初めて名前を呼ばれたかもしれない。にわかに頬が、赤く染まる。
それに気付いていないのか、気にしていないのか。ウィルフレッドは淡白な調子で続けた。
「マリカは買うか?」
深い緑の目が、マリカを見据える。
かすかに怯みつつも、彼女はどうにかうなずいた。
「えっと……じゃあ、買います」
ウィルフレッドの口角が、わずかにだが持ち上がった。
「なら作る」
マリカの、たしかにアライグマ似のくりくりとした瞳が、更に丸く見開かれた。
「本当に、いいんですか?」
一つのうなずきが肯定する。
「ですが、売れないかも……」
「貴女が買うなら」
「……そう、ですか」
喜んでいいのか、呆れていいのか分からず、マリカは頬に手を添えてうつむいた。
二人のやりとりを、ベアトリスや店員たちが、やや遠巻きに眺める。
皆にやにやと、楽しそうな表情を浮かべている。
と、一人の年嵩の料理人が、ふと思い出したように呟いた。
「そういえばアライグマって、蛇やトカゲも食べたような……」
周囲もハッとなる。
そしてマリカとウィルフレッドを眺め、しみじみうなずいた。
赤い顔ではにかむマリカに、ウィルフレッドもつられて不器用な笑顔を浮かべていた。
「たしかに。こっちのトカゲ様も、丸呑みにされちまってるな」
「母としては、ちょっと寂しいけど嬉しいところね」
ベアトリスも彼らと同じく、にんまり笑っていた。