3 潔癖兎の世界は閉じた。
不思議の国には帽子屋と喫茶店がある。それぞれイカレ帽子屋と三月兎が経営しているのだが、この世界においては少々事情が異なった。どちらも硬く門扉を閉ざし、常に「CLOSED」の札が下がっているのである。帽子屋に至っては商品であるはずの帽子すら置いていない。
そして万人に門扉を開き祝うことが目的ですらあるはずの喫茶店は、
「カルロス、その雑巾は使うな。こっちの洗い立ての奴を使え。余計に汚くなる」
「お前、なんで手伝ってもらってるくせにそんなにえらそうなんだよ」
今日も掃除ばかりをしている。
この世界における三月兎――スタン・マーチヘア・キャロルは潔癖症なのである。三月の発情期の兎という本質に反して規律正しく毎日を過ごし、家も清潔に保っている。なにより、女性を酷く嫌悪しているのだ。三月兎という名前を一切反映してないといえそうである。
とはいってもここは中途半端な不思議の国で、彼は兎なのだ。カルロス・マッドハッター・キャロルは手渡された雑巾で戸棚を拭きながら、背後から聞こえるかしゅかしゅかしゅ、と掻き毟る音にため息をついた。
「……今日もまた念入りだな、禿げるぞ」
「望むところだ」
頭からぴょこんと生えた兎の耳を不愉快そうに垂らし、ブラッシングに余念がなかった。
彼は潔癖症であり、当然のように自分の居住区に獣の毛が落ちていることを嫌う。他の連中を閉め出すのはわけないが、それでも彼自身も兎の耳と尻尾が生えているのだ。耳と尻尾を切り落とそうとまでしたスタンを何とか押し止め、カルロスはブラッシングをすればどうかと提案した。
毎日ブラシをかければ床に落ちる毛の量は格段に減るだろう。ここは季節の概念がないので毛が冬毛に生え変わることもない。カルロスは説得に説得を重ね、こうしてスタンの耳と尻尾の安全が確保された。
たとえ切り落としたところで次の今日が来れば元通りになるのだから、スタンが妥協したのも当然といえる。
「ふぅ、とりあえずはこんなものか。次は、床の掃除だな」
「飽きないなオイ。今朝もやってたじゃねえか」
「日に三度はやらねば気がすまん」
カルロスの言葉に至極真面目な表情でスタンは言い返した。ブラシをハンカチにくるんでズボンのポケットに入れ、真剣な表情でモップをかけ始める。兎の耳を入れると軽々と二メートルを超える巨体が几帳面にモップをかける様子は、見る者に酷くアンバランスな印象を抱かせるだろう。
はあ、とカルロスはため息をついて耳を澄ませた。モップが床を擦る音は聞きなれたもので、それだけで彼が機嫌が良いのが分かる。機嫌が悪いとゆっくりと馬鹿丁寧に床を擦るのだ。潔癖症ゆえだろう。
指先で触れた陶器のカップをよけながら、カルロスもまた手を動かした。そろそろ時間か、と手探りで杖を探る。
かつかつ、と杖先の金属が音を立て、スタンの意識をカルロスに向けさせる。
「おいスタン、悪いがそろそろお前の嫌いなお茶の時間だろう。休もうぜ」
「……この世界では、飲食の必要などないだろう」
スタンは顔をしかめ、カルロスから目を逸らした。だがカルロスの気遣いも理解はしている。たとえ飲食の必要がなくとも休息は必要だ。
カルロスの呆れた、といわんばかりのため息にスタンはその巨体を縮こまらせた。
「紅茶を飲めって言うつもりはねえよ、俺だって紅茶は苦手だしな。だけど俺たちは『気狂い帽子屋』と『三月兎』だろ。紅茶なしでもお茶会くらいはするだろうさ」
「だが俺たちはカルロスとスタンだ」
スタンの言葉に、カルロスは沈黙した。彼が必要を感じない目蓋を下ろすのは、困惑しているときだとスタンは知っていた。カルロスも指摘されずとも分かっていた。
『気狂い帽子屋』と『三月兎』である以上、お茶会は本文に綴られるべきことだと彼らは知っている。紅茶を飲み、バターパンを食べ、乱痴気騒ぎをするべきなのだと。
だがスタンは潔癖症の甘味嫌いであり、カルロスもまたそれを行うには不便な事情を抱えていた。
本来、何をするべきかを知っている。セカンドネームが示す役割は、明確だ。
けれど、到底それをすることは出来ない。科された役割には不釣合いな自らの性分は、矛盾して自己同一性を苛む。
『気狂い帽子屋』でありながら、その役割を果たさない。
『三月兎』でありながら、その役割を果たさない。
「……父は、何故、俺たちにこんな人格をつけたのだろうな」
「知るかよ、聞くなら三次元の存在に聞いてくれ。俺たちは所詮習作にすぎないんだから、考えたって無駄だろ」
椅子に座り、カルロスは机に白い杖を立てかけた。三次元の存在、とはずいぶんな言い様だが、事実彼らは二次元の存在であるしそれを認めてさえいる。だが名前でも関係でも呼ぼうとしない辺り、憤りが窺えた。
カルロスが苛立ちを顕にするのは珍しい。普段はかんしゃくを起こすのはスタンの方であり、カルロスがそれをなだめる側にまわる。
スタンは少し迷い、新品同様に磨かれたコーヒーミルに豆を入れた。紅茶を飲まない二人のため、お茶会といってもコーヒーを飲むだけだ。ごりごりごり、と豆を砕く音とともにふわりと苦味のある香りが部屋に漂う。
機嫌が悪いカルロスには何か言うよりも、音や香りの方が効果がある。ちらりと様子を窺うと、机の木目のわずかな凹凸を指でなぞっていた。彼なりの精神安定法だということは知っていたので、スタンはとりあえず一安心した。銀色がつやつやと光るやかんに水をいれ、火にかける。
さあ、狂いきれないお茶会を始めよう。




