蜩(ひぐらし)
陽平は息を弾ませながら、早足で歩いていた。
足が勝手に動いて、どうにも止まらない。今にも走り出してしまいそうだったが、こらえていた。
本当は空を飛んで行きたい気分だった。
どこでもドアがあれば使いたかったし、筋斗雲が乗れたらどんなにいいか、とも思っていた。
それでも精一杯の虚勢を張って(誰に対して? 自分に対してだ。周囲の人は、自分が急いでいる理由なんてちっとも知らないのだから)、陽平はわざと足を遅くしていたのだ。
それもすべて、思春期に存在する羞恥心が原因だ。
息を切らせて、汗をかいて、会いに来たのだと知られることが、恥ずかしかった。
それでも陽平の感情とは関係なく心は落ち着かず、足はどんどん動いている。
なんてことだ、どうして落ち着かない?
陽平は頭を振る。
頭の中にある、取り憑いたように離れない出来事を追い出そうと努力した。
しかし、お祓いの方法を考えるたびに、それは思い返されて体が火照るのがわかった。
火照ったことに動揺して心臓が高鳴る。息が早くなる。
結果、さらに落ち着かなくなってしまう。
陽平はばちばちと頬を叩いた。通り過ぎた子供が不思議そうな目で見ていたが、気にしなかった。
特別なことじゃないのに。
特別じゃないんだ、いつも通りだ。
思い通りにならない頭に言い聞かせるように、何度も同じことを繰り返していた。
違うことなんて、ひとつもない。
そう、いつも通り。
でも、いつもとは違う心の高ぶり。
幼馴染みの加奈を町の祭りに誘ったのは、今朝のことだった。
中学校に入学してからというもの、彼女と遊ぶ時間はほとんどなくなっていた。それを残念に思ってもいたし、寂しくもあった。
ひと学年に七クラスある学校だったが、だからといって三才からずっと一緒だった加奈との思い出が、新しい友人たちとの日々に負けてしまったと思いたくなかった。
三年間、同じクラスには一度としてならなかったが、陽平は何かと理由をつけて彼女のクラスに足しげく通っていた。また、加奈がクラスに来たときには軽口を叩いていたし、廊下や校庭で会えば必ず挨拶をした。
とにかく、加奈との関係を終わらせたくなかったのだ。
楽しかった小さい頃を、いつまでも大切に、できれば長く続けていきたいと思っていた。
しかし、そのことは誰にも伝えていない。
加奈にも。
ブログにだって書いていない、自分だけの秘密。
今日の祭りを誘ったのは、いつも通り……そう、いつも通りだ。何も違わない。
話題のついで。
加奈、今日の祭り、行く予定ある?
ないけど。陽平は?
行きたいけど、一人で行くのも嫌だからさ、一緒に行く?
加奈は笑って誘いを受けてくれた。
いいよ。陽平は一緒に行ってくれる彼女もいないみたいだし、付き合ってあげるよ。
彼女の笑顔はいつもと同じだった。細くなる目、頬にできるえくぼ。耳の後ろを掻く癖。
素人臭い女子の集団がアイドルともてはやされてテレビに映る世の中ではあるが、加奈はその集団に入れるほど、特別可愛くはなかった。
彼女はどこにでもいる普通の女の子だ。髪は黒いしニキビもある。化粧もしないし、休日の服装はお洒落とは言い難い。
男に媚を売るように着飾った女子や、流行に追いつこうと必死な女子に比べれば、加奈はそういった面に対して無頓着だ。性格もたくましい。陽平から見ても、女子が生涯をかけて追及する『女らしさ』には興味がなさそうだった。
それでも陽平にとっては魅力がある。たくましいのも、無頓着なのも、それが加奈のすべてだ。彼女は昔から変わらず、いとおしい。
ただ、いとおしく思うことを、陽平は別の名前で呼ぶことを知っていたが、知らない振りをしていた。
意識してしまう自分が嫌になる……自分が求めているのは、『昔と変わらないこと』であり、特別な存在になることではないのだから。
否応無く時間は流れていて、自分たちは成長する。
身も心も。
昔と同じなんて、続くわけがないのもわかっていた。
今の自分が、その証拠じゃないか。
だから陽平は、いつもと変わらない、と念仏のように唱えて、自己暗示をかけようとしていた。
それがことごとく失敗しているという事実があっても、認めなかった。
信号が赤に変わった。
陽平は足を止める。しかし、足は空の上に立っているみたいに不安定だった。そのまま空を走って行けそうだった。
夕暮れで茜色に染まり始めた空には、金色に輝く雲。涼し気な風は太鼓の音を運んでくる。
商店の軒先を飾るしめ縄、祭りを告知するポスター。
いつもは寂し気な町も、今日は祭りの熱気に浮かされていつになく活気に満ち溢れていた。
信号がなかなか変わらず、じれったかった。
自動車用の信号が、黄色に変わった。
横断歩道を横切ろうとする自動車は、一台もなかった。
歩行者用の信号が青になる直前、気もそぞろだった陽平は、誰もが小さい頃に教えられる決まりを無視して横断歩道を渡った。
陽平はその瞬間、盲目だった。
恋に目隠しをされて、周囲が見えていなかったのだ。
誰かが叫ぶ声が聞こえて、ようやく目隠しが外れた。そのときにはすでに遅かった。
猛スピードで走ってくる自動車が
目の前に
加
奈
辺りが騒がしかったが、構わずに足を進めた。
加奈が待っているのだ。
彼女に会わなければならない。
この瞬間、見栄や虚栄心は消えていた。
自分の気持ちを誤摩化そうとすることもしなかった。
ただただ、加奈に会いたい。
それだけだ。他に何もない……何もいらない。
欲しいのは、いつもと変わらない、いとおしい笑顔……
空を飛んでいた。
このまま彼女に会いに行こう。
そして、今度は正直に話すのだ。
抱いていた気持ちを、言葉にしよう。
そうだ、変わらないことを願っていた、それも嘘だ。
では何が本当なのだろうか? 自分の気持ちの、どれが本物?
自分にも、加奈に対しても、この空のように偽りのない綺麗な心でありたい。
心の奥から、自分の声が聞こえてくる。本物の言葉、嘘ではない気持ち。
いつまでも一緒にいよう。
同じ空の下で。
蜩の声がする。
夕暮れの町は茜色に輝いていた。
※ ※
西に沈みかけた太陽は驚くほど赤かった。小さな町は夕焼けに染められて、夏の夕方をロマンチックに演出している。涼やかな風が通り過ぎる……階段の下の道路を、子供たちが笑いながら風と共に走って行く。
加奈は神社の境内へ続く階段で、ひとりぽつんと座っていた。退屈そうに溜め息を吐くが、心は嵐が来たみたいに乱れていた。心臓はどきどきしっ放しだった。
溜め息を吐いたのも、退屈なのではなく落ち着こうとしていた深呼吸だった。
今朝、陽平に祭りに行かないかと誘われてから、ずっとこの調子だ。
自分の意志に反して心臓が動くのだから、始末が悪い。いっそ取り出して締め付けてやりたい気分だった。どうして主人の言うことを聞かないのだ、自分の体の一部のくせに、思い通りにならないのか、と。
加奈は火照った頬に手を添えた。それから、神経質そうに全身を眺める。
今日は浴衣を着ていた。紺色の布地に大きな向日葵があしらわれた、夏らしい涼し気な浴衣だ。帯は無地の朱色である。
母からのお下がりのため、今時の浴衣のように夜に光ったりはしないし、レースも付いていない。女の子らしいピンク色の花柄でもない。何も自慢できない(強いて言うなら日本の職人が作った、上等な浴衣だ)。
姉の助言もあって、帯に玉簪を差し入れてワンポイントのアクセントにしているが、本当にこれでいいのかわからなかった。
少しだけ、泣きたい気分だった。
こんな古くさい浴衣で、陽平から何を言われるだろう!
今さらだが誘いを受けたことを後悔し、それと同時に日頃から無頓着だった自分を恨んだ。突然誘ってきた陽平に対しても、小さな怒りが込み上げてきた。
可愛らしい服は好きじゃないし、化粧もまだ必要ないと思っていた。周りの女子が色気づいて休み時間ごとに髪の毛をいじったり、音楽誌を広げて黄色い声を発しているのを見るたび、なんて馬鹿らしいのだろう、とさえ思っていた。
中学校で剣道部に入部してからというもの毎日部活に明け暮れていた。朝から晩まで、季節に関係なく。夏休みも冬休みも、土曜日も日曜日もない日々。
元々流行には無頓着であったが、部活のお陰でそれに拍車がかかった。
だから、受験を控えて退部した今、祭りにはどういった服装をすればいいのかわからず、困り果て……姉に助言を求めた結果、浴衣を推されたのである。
とはいえ誘われたのは今朝、学校で、だ。
学校は夏休みだが、三年生は受験のための補習がある。部活漬けだった毎日が終わったと思ったら、今度は勉強の毎日。補習が終わったのは三時で、新しい浴衣を買いに行く暇もなかった。
もっと早く誘ってくれればいいのに、と加奈は思う。そうすれば陽平の好きな緑色の浴衣を買いにも行けたし、髪の毛を整えることもできたのに。
相手が陽平だからこそ、場違いな服装はしたくない。
加奈は足元に転がる小石を、こつんと蹴った。ころころと石は転がって、階段を落ちていく。
陽平は今、どこにいるのだろう、とぼんやり考えた。
恐ろしく鈍感で、不器用な陽平。そのうえ馬鹿で、単純。
そして、嘘をつくのが下手くそ。
陽平は隠し通せていると思い込んでいるようだが、加奈は知っていた。
彼の中にひそむ淡い色をした感情を。
中学生になってからというもの、以前のように毎日遊ぶことはなくなっていたが、それでも教室で会えば話をしたし、挨拶もしていた。
ただ、それが偶然ではないことを、加奈は随分前から気がついていた。
なぜなら、ずっと彼のことを見ていたからである。
陽平が心の内に隠した気持ちが、その芽を出し始めるよりももっと前から、加奈は彼のことを気にかけ、特別な目で見ていた(ある日突然現れたフィルターだ。その日を境に、フィルター越しに見える陽平は別人のようだった)。
照れると鼻の頭を掻く癖は昔から変わらない。
緊張して親指の爪の先で人差し指に痕を付ける癖も同じ。
今日の朝も、どちらの癖も出ていた。
ふう、本当に不器用な陽平。
隠し事をするのは、女の方が上手みたいね。
夕方のひんやりした木陰で、蜩が声を揃えて大合唱をしている。
鬱陶しい蜩! 声を聞いていると、無性に苛立った。
蜩が嫌いだった。理由は簡単だ……鳴き声が、自分の名前を呼んでいるようだからだ。
かなかなかな。
加奈加奈加奈。
頭を振って、蜩の声を遠ざけた。別のものに集中しよう、蜩以外の別のものに。
階段脇の草むらでは、宵の口の舞台で歌う主役を蛙から奪おうと、秋の虫が鳴き始めている。遠くからは太鼓の音が聞こえて、祭り囃子が空気を伝って肌を刺激する。
町の喧噪も、風に乗って耳に届いていた。人々のざわめき、子供たちの笑い声。自動車が行き交う音。救急車のサイレン。誰かが怒鳴っていたりもして、町は騒がしかった。
加奈は入学祝いに貰った実用的な腕時計を見た(運動には最適、でもお洒落には最悪)。
待ち合わせから三十分が過ぎていた。
とたんに不安が押し寄せて来た……もしかして、からかわれたのだろうか?
自分が自惚れていただけで、幼馴染みだから何でも知っていると思い込んでいただけで、陽平は変わってしまったのだろうか?
恋のせいで盲目だったのは自分?
そうだ、冷静になって考えれば、自分みたいな女に誰が好意を寄せてくれるというのだろう! 腕にも足にも筋肉があるし、お洒落はしないし、流行もわからないし、髪は黒くて目は細いし、自分に何があるのかと言えば……何もないではないか!
勢いよく立ち上がる。
悲しかった。
陽平は約束を破るような男ではないはずなのに。それなのに来ないのは、やっぱり馬鹿にされたのだ。
きっとどこかで、男友達と笑っているに違いない……妄想女がぼけた顔で待っているぞ!
ああ、きっとそうだ。笑っているに違いない。
口元を拭いながら、階段を下りる。
初めて塗った桃色の口紅だったが、もう必要ない。
今度は目元を拭おうとして……慣れない浴衣で体がふらつき、階段の途中で足を止めた。
そのとき一匹の蜩が、ばたばたと羽音をたてながら朱色の帯に止まった。
驚いた加奈は、咄嗟に蜩を振り払う。
蜩は慌てて飛び去った。
「もう、虫除けスプレーしてきたのに!」
加奈は涙も忘れて飛んで行く蜩を睨みつけた。
ばたばたばたばた……
今度は数匹の蜩が浴衣に次々と止まる。
剣道で鍛えた反射神経で、蜩が鳴き始める前にふるい落とした。
蜩は逃げて行く。
蜩が飛んできて、浴衣に止まった。
巾着袋を振り回して、追い払った。
蜩が飛んできて、浴衣に止まった。
蜩が飛んできて、浴衣に止まった。
蜩が飛んできて、浴衣に止まった。
「なんなのよぉ!」
加奈は叫びながら階段を下りた。腕を振って蜩を追い払う。
しかし、何度やっても蜩は加奈に向かって飛んでくる。
その量はだんだんと増えていき、終にどうあがいても蜩から逃れられなくなった。
何十匹もの蜩が耳障りな羽音と共に、加奈の全身を包んでいた。
腕を振り上げると、開いた裾から蜩が侵入してきた。
足を動かしても、蜩は逃げない。
悲鳴をあげようとして口を開くと、蜩が入ってきて喉をつまらせた。
全身が重い。前が見えない。
鼓膜を破るような蜩の鳴き声に、頭が痛くなった。
蜩が口の中で蠢いている。
吐き気がした。胃が痙攣する。
反射的に口を閉じた。
ぐしゃりという音と蜩の断末魔が、歯を、顎の骨を通して全身に響く。
息ができなくなって、加奈はその場に倒れ込む。
誰か助けて!
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて
たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて
誰か
陽平……
加奈は階段を転げ落ちた。
下敷きになった蜩は潰れて、加奈の体の跡を残していた。
階段の下まで落ちた加奈の体に、蜩が止まる。
どの木にも見向きもせず。
加奈の体に集まっていた。
彼女を求めるように。
日が暮れた町の片隅で、蜩が鳴いている。
かなかなかな……