第19話 曇天の丘
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わたしは実家の居間で、ホット珈琲を飲みながら1冊の小説を開いた。
湯気とともに立ち上る香りに包まれながら、文字を追うこの時間が、昔から好きだった。
窓の外では、風に揺れる木の枝が、かすかな音を立てている。
ページをめくる指先が温まり、自然と呼吸が落ち着いていく。
それは、祖父が晩年に自費出版した小説だった。
父から聞いたことがある。
満州での体験を、事実とフィクションの境目が分からない形で書いた作品だと。
わたしは、静かに読み始めた。
曇った空の下、わたしは丘を登っていた。
春だというのに風は冷たく、草はまだ低い。
遠くに街の輪郭が見えるが、ここは静かだった。
満州の各地に、名のない墓が残っている。
戦後の混乱で身元が分からなくなった人々のものだ、と説明される。
だが、そう言い切るには、ここは整いすぎていた。
丘の中腹に、墓標が並んでいる。
石ではない。
木でもない。
粗いコンクリートで作られた、簡素な杭だ。
1本1本は頼りなく、だが、並びは驚くほど正確だった。
わたしは歩幅を測りながら進んだ。
どの墓も、間隔は同じ。
目測ではなく、誰かが測った距離だ。
1.5メートル。
狂いはほとんどない。
東西南北に対しても、わずかなズレしかない。
即席で作られた墓地の配置ではなかった。
数を数えてみる。
10、20、30。
途中で、どうしても合わなくなる。
数え直しても同じだ。
墓が増えるわけでも、減るわけでもないのに、数だけが定まらない。
地上は、ときに人を惑わす。
そう思い、1本だけ、地面を確かめた。
許可を得たうえで、慎重に掘る。
深くはない。
だが、期待していたものは出てこなかった。
棺はない。
遺骨もない。
代わりに、石灰と、布の切れ端が現れた。
軍服ではない。
民間の衣服とも違う。
作業着のようでいて、どこにも所属を示す印がない。
同じことを、別の墓でも確かめた。
深さは同じ。
中身も同じ。
すべてが、揃っている。
誰も、眠っていない。
わたしは丘の端に立ち、全体を見渡した。
墓の並びを頭の中で線に変える。
1列1列を結び、俯瞰する。
すると、形が浮かび上がった。
これは墓地ではない。
地上に描かれた、格子だ。
地下に何かがあり、その上に、同じ空を並べた。
重量を均一にし、沈下を防ぎ、
上空から見ても異常が出ないように。
墓という形を選んだのは、
人が最も手を出しにくいからだ。
名を刻まない理由も、そこにあった。
名があれば、人は確かめる。
だが、無名なら、確信を持てない。
わたしは、これ以上掘らなかった。
地下に何があるのかも、確かめていない。
嘘をついているのは、墓ではない。
真実を語らないまま、
そこに在り続ける、
人間のほうなのだ。
風が吹き、草が揺れた。
無名の墓標は、今日も何も語らない。
それでも、その並び方だけは、
この丘の下にあるものを、
静かに指し示し続けている。
わたしは、ゆっくりと本を閉じた。
珈琲は、もう少し冷めていた。
祖父は、答えをすべて書かなかった。
地下に何があったのかも、最後まで明かしていない。
けれど、並び方を見る目だけは、確かに読者に残している。
見えないものを、配置から読むという視点を。
わたしはカップを両手で包み込みながら、
なぜ自分が謎に惹かれ続けているのか、少しだけ分かった気がした。
祖父から父へ。
父から、わたしへ。
語られなかったものは、静かに受け継がれている。
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