第17話 帰り道の花
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ナスカの乾いた大地を離れてから、わたしは長い移動の時間を過ごしていた。
砂漠の平坦な景色が、次第に起伏を持ち、やがて山の影が濃くなる。
バスを乗り継ぎ、列車に揺られ、窓の外に見える色は、茶から緑へと変わっていった。
標高が上がるにつれて、空気は薄くなり、呼吸は自然と浅くなる。
体は疲れているはずなのに、気持ちは不思議と静かだった。
ナスカで見た線と、空からの視点 —
それらを思い返しながら、次に向かう場所のことを考えていた。
マチュピチュ —
なぜ山奥に築かれ、なぜ放棄されたのか —
インカ文明最大級の謎都市 —
名前だけで、いくつもの説と想像を呼び起こす場所だ。
アンデスの朝は、思ったより静かだった
霧に包まれたマチュピチュは、まるで息をひそめているようで、観光客の足音さえ遠慮がちに響いていた。
遠くで鳥の声が聞こえ、石の都市は、まだ目覚めきっていないように見えた。
石段を登っていると、道の端に小さな白い花が、石の割れ目から顔を出しているのに気づいた.
不思議だった —
ここは人の手で精密に積まれた石の都市 —
偶然、花が育つ場所とは思えない.
さらに歩く。
同じ花が、次の段にも、そのまた次にも咲いている.
まるで —
誰かが道しるべのように置いていったかのようだった.
観光用に植えられたものには見えない.
自然というより、意図を感じる並び方だった。
最上段近くで、年配の現地ガイドがこちらに気づき、静かに微笑んだ。
それに気づいたのですか、と言うような目だった.
「それ —
インカの帰り道ですよ」
彼は、そう言って、花の方を指さした。
昔、祭りの日や大切な儀式のあと、人々は山を下りる前に、小さな花や葉を石の隙間に残したという。
ここは天に近い場所 —
願いを置いて、現実へ戻るための印なのだと.
迷わず下山できるように —
心が、ここに留まりすぎないように.
この花は、帰るための優しい合図だった。
わたしは立ち止まり、振り返って霧の向こうに広がる遺跡を見た.
なぜ山奥に築かれ、なぜ放棄されたのか。
その大きな謎は、今も答えを持たない。
けれど、
ここから帰る人が、ちゃんと日常に戻れますように。
そんな誰かの気持ちは、石の隙間に、今もそっと残っている。
わたしは花を踏まないよう、静かに歩き出した。
この場所が、忘れられた都市ではなく、帰ることを大切にした都市だったのだと、胸が少しあたたかくなりながら。
山を下りる途中、ふと、自分の故郷のことを思い出した。
杉の匂い、冷たい朝の空気、参道の静けさ。
遠く離れた場所に来ているはずなのに、帰りたいという気持ちが、ゆっくりと湧いてくる。
旅は、前へ進むことだと思っていた。
けれど、帰る場所を思い出すことも、同じくらい大切なのかもしれない。
アンデスの山に残された花は、そんなことを、わたしに教えてくれた気がした。
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