第13話 押し込めた箱のふた
帰国してからのわたしは、
ごく普通の選択を重ねていました。
それが、正しい道だと
思い込もうとしていたのだと思います。
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オーストラリアから帰国したあと、わたしは就職活動を始めました.
海外で何かを見つけたわけでも、く明確な目標が定まったわけでもありません.
ただ、動かなければならない時期が来たのだと、静かに理解していました.
結果として、わたしは日本の商社に就職しました.
通信機器を扱う大手企業で、名前を出せば多くの人が知っている会社です.
安定していて、将来の不安も少ない.
家族も安心してくれましたし、
自分自身も —
それでいいのだと思うようにしていました.
入社してからの毎日は、とにかく忙しかった.
製品の名前、仕組み、取引先、社内のルール.
覚えることは山ほどあり、営業として外回りに出るようになると、時間の流れはさらに早くなりました
考える余裕はなく —
目の前の仕事をこなすことで、1日が終わる.
それが —
しばらくの間は心地よくもありました.
知らないことを知るよりも、
知っていることを正確に繰り返すほうが、安全だったのです.
あのころのわたしは、自分の中にある違和感に、気づかないふりをしていました.
ある休日の午後 —
予定もなく、なんとなく街を歩いていました。
人通りの多い通りから少し入ったところに、小さな書店があり —
吸い寄せられるように、その中へ入りました.
新刊の棚を眺め、文庫コーナーを一周し、
最後に、旅行や雑学の棚の前で足が止まりました.
そこにあった1冊の本が、目に入ったのです.
世界のミステリースポットを集めた本でした.
写真と短い文章で、各地の不思議な場所が紹介されている
特別に派手な装丁ではありませんでしたが、
手に取った瞬間、胸の奥が、わずかにざわつきました.
ページをめくると、
聞いたことのある話もあれば、まったく知らない場所もありました.
砂漠の地下都市、山奥の消えた集落、
音や影だけが手がかりになる遺構 —
そのひとつひとつが、かつての感覚を呼び起こしてきます.
わたしは、本を閉じて、しばらくその場から動けませんでした.
仕事に追われる日々の中で、
ずっと奥に押し込めていた箱が、
不意に開いてしまったような感覚でした.
このままでいいのだろうか.
安定した仕事を続けながら、
あのとき感じた好奇心を、なかったことにして生きていけるのか —
問いは、はっきりした言葉にならないまま、
心の中に残りました.
それからの日々は、少しだけ変わりました.
仕事は相変わらず忙しく、成績も求められる.
けれど、帰宅後に本を読む時間が増え、
世界のどこかで起きている不思議な出来事に、
意識が向くようになりました.
現実と理想のあいだで、揺れる感覚 —
わたしは、その迷いを、誰にも話さずに抱えていました。
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