水道料金
無機質な振動が、ローテーブルの上で短く鳴った。手にしていたマグカップを置き、スマートフォンの画面を覗き込む。メッセージアプリの通知ではない。公共料金の管理アプリからの、そっけない青いアイコンだった。指で触れて開くと、目に飛び込んできた数字に、私はわずかに眉根を寄せた。
『今月の水道ご使用量:前月比340%増』
三桁の数字が、まるで現実味のない冗談のように思えた。この築十五年のワンルームで暮らし始めて三年。生活リズムはほとんど変わらない。平日はIT企業のリモートワークで、部屋から出るのは近所のコンビニか、週に一度の買い出しくらい。特に水を大量に使った記憶は、どう探っても見つからなかった。シャワーを浴びすぎただろうか。いや、そんなはずはない。自炊だって、凝った料理はしない。
何か腑に落ちないものを感じながら、私はアプリから水道局のコールセンターへ発信した。数回のコールの後、自動音声ガイダンスが始まり、いくつかの番号を押して、ようやく人の声に繋がった。しかし、その内容は、マニュアルを読み上げているかのような素っ気ないものだった。
「メーターの故障か、漏水の可能性が考えられます」
状況を説明すると、電話口の相手はそう淡々と告げた。
「業者の方に見てもらうことはできますか」
「工事業者の手配は、現在混み合っておりまして、最短で来週になります」
来週。その間も水が漏れ続けているとしたら、料金はどうなるのだろう。
そんな疑問が口をついて出そうになったが、相手の言葉がそれを遮った。
「緊急の漏水でなければ、Webサイトの専用フォームから修理依頼を申請していただくことになっております。そちらの方がスムーズにご案内できますので」
一方的にそう告げられると、通話は半ば強制的に終了した。スマートフォンの画面に表示された通話履歴が、まるで存在しない相手と話していたかのような空虚さを感じさせた。
◇
水道局のWebサイトは、よくある行政サービスのものだった。指定された通りにログインし、使用量の詳細グラフを確認する。日中の使用量はいつも通り、低い位置で安定している。しかし、グラフの一点だけが、まるで心電図の異常波形のように、天を突く勢いで跳ね上がっていた。時刻は、午前二時から四時にかけて。私が最も深く眠っている時間帯だ。
その夜、私はスマートフォンのアラームを午前二時に設定した。けたたましい電子音が鳴り響き、重たい体を無理やり起こす。部屋は静寂に包まれており、水の流れるような音はどこからも聞こえてこない。キッチン、洗面所、浴室。全ての蛇口を確かめたが、水滴一つ落ちてはいなかった。気のせいだったのか。そう思いかけた時、ふと、ある考えが頭をよぎった。アラームを三時に再設定し、再びベッドに潜り込む。
次に目覚めた時、部屋の空気は先ほどと何も変わっていなかった。しかし、私は確信に近い予感を胸に、洗面所へと向かった。ドアを開けると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
全ての蛇口から、水が流れ出ていた。
音もなく、ただ静かに。まるでそこに存在しないかのように、透明な液体がシンクへと注がれ続けている。慌てて蛇口を捻るが、固く閉ざされていて動かない。キッチンも、浴室も同じだった。流れ出る液体にそっと指を触れてみる。冷たい。しかし、それだけだ。鼻を近づけても匂いはなく、ごく少量、舌先で舐めてみても、味らしい味はしなかった。ただの『水』。しかし、それは明らかに異常な事態だった。
私はスマートフォンのカメラでその光景を撮影し、再び水道局のWebサイトを開いた。オンラインの報告フォームに、今起きている現象を詳細に書き込み、撮影した画像を添付して送信する。すぐに、画面にポップアップが表示された。
『ご報告ありがとうございます。担当者から後日、改めてご連絡いたします』
自動返信。その定型文を眺めているうちに、午前四時を少し過ぎた頃、あれほど勢いよく流れ出ていた液体が、ぴたりと止まった。まるで、最初から何もなかったかのように。
◇
それから数日が過ぎた。水道局の担当者と名乗る人物から連絡が来ることはなく、工事業者が訪ねてくる気配もなかった。深夜の異常な現象も、あの日以来、一度も起きていない。夢だったのではないか、とさえ思い始めていた頃、私の身体に奇妙な変化が現れ始めた。
最初は、指先の些細な違和感だった。キーボードを叩いていると、指先に軽い痺れを感じる。気のせいだろうと打ち消したが、その感覚は消えなかった。爪を見ると、心なしか以前より薄く、脆くなっているように思える。それでも、私は日常を変えなかった。朝は顔を洗い、歯を磨き、喉が渇けば蛇口の水を飲む。あの透明な液体に、害があるとは思えなかったからだ。ネットで『指先の痺れ』『爪が薄くなる』と検索してみても、当てはまるような情報はどこにも見つからなかった。
やがて、認識のズレは、私と世界の間に明確な壁を作り始めた。
宅配便の受け取りで、サイン代わりにタブレットへ指を押し当てても、認証されない。何度試しても『認識できません』というエラーが出るばかりで、結局、配達員に怪訝な顔をされながら、紙のサインで対応することになった。
行きつけの美容院を予約しようと、専用のアプリを開くと『予約者情報に不備があります。再度ご確認ください』というメッセージが表示され、先に進めない。
リモートでのオンライン会議中には、同僚から「接続が不安定みたいですよ」と指摘されることが増えた。こちらの映像だけが、頻繁にフリーズしたり、乱れたりするらしい。
何かがおかしい。確実に、私の周りのシステムが、私を正しく認識しなくなってきている。
ある日の午後、薄暗い部屋でノートパソコンの画面を眺めていると、黒い画面に反射した自分の姿が目に入った。その瞬間、私は息を呑んだ。画面に映る自分の指先が、背景の壁紙と溶け合うように、僅かに透けているように見えたのだ。気のせいだと思いたくて、何度も手を動かしてみる。しかし、その透明感は消えなかった。あの液体に触れた部分から、私の身体は、少しずつその存在感を失い始めているのかもしれない。
◇
孤立は、静かに、だが確実に加速していく。
近所のコンビニで買い物をした時だった。セルフレジの端末に、いつものようにスマートフォンをかざす。しかし、決済完了を告げる軽快な電子音は鳴らなかった。何度角度を変えても、端末はうんともすんとも言わない。結局、現金で支払いを済ませたが、背後で順番を待っていた人の苛立ったような視線が、私の背中に突き刺さった。
部屋の洗面台で顔を洗う。陶器の白い表面に映る自分の顔が、以前よりもぼやけて見える気がする。まるで、ピントの合わない写真のように。
そんな時、スマートフォンのメール受信を知らせる通知音が鳴った。水道局からだった。ようやく連絡が来たか、と少し安堵しながらメールを開く。しかし、そこに書かれていたのは、私の期待を裏切る事務的な文面だった。
『先日ご依頼のありましたメーター点検の結果、特に異常は確認されませんでしたので、ご報告いたします』
異常はない?
では、あの請求額は、あの夜の現象は、一体何だったというのか。
誰も、私の訴えを聞いてはくれない。それどころか、すべてのシステムというシステムが、私という存在を無視しているだけのように思えた。
その日の夜、私は眠れなかった。ベッドの上で何度も寝返りを打ちながら、暗闇の中で自分の手を見つめた。恐怖よりも、むしろ奇妙な諦めに似た感情が、心を支配していた。
◇
朝が来た。そう思ったのは、窓の外が白み始めていたからだ。
寝ぼけた頭でベッドから起き上がり、習慣のように洗面所へ向かう。歯を磨こうと、歯ブラシを手に取った、その時だった。
正面の姿見に、誰も映っていなかった。
そこにあるはずの私が、いない。眠たげな顔、それどころか、私の身体はどこにも映っていない。ただ、殺風景な洗面所の壁だけが、がらんとした空間を映し出している。
私は、理解が追いつかないまま、蛇口を捻った。出てくるのは、いつもの水道水ではなく、あの音も味も匂いもない、透明な液体だった。
「おかしい、水が出ない」
そう呟きながら、私はその液体で口をゆすいだ。それが水ではない何かだと、もう分かっているはずなのに、私の身体は、かつての習慣をなぞるように動き続ける。
その時、洗面台に置いていたスマートフォンが、最後の通知を知らせた。
『ご使用量0L。契約者情報が確認できません。アプリは自動的にログアウトされました』
そのメッセージを最後に、スマートフォンの画面はふっと暗転し、二度と明かりが灯ることはなかった。
数日後、都内のある不動産情報サイトに、新しい物件情報が掲載された。
『即入居可・前入居者なし』
築十五年のワンルーム。その部屋の水道メーターは、静かにゼロを刻み続けていた。