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消えない幻影

作者: 各々芋子


 携帯電話の着信メロディが鳴り響いたのは、深夜の零時過ぎのことだった。

 修二は寝起きのぼやけた頭にどうにか指令を出し、ベッド脇のテーブルにある携帯に手を伸ばした。掴ませまいと抵抗しているようにさえ感じるバイブレーションが手の平に伝わり、おかげで少しずつ意識がハッキリしてくる。

 電話は哲也からだった。こんな時間にたいした用事もなくかけてくれば、ほぼ間違いなく修二がキレることを知っている彼からの電話。ようするに一刻一秒を争う吉報か、知らせなければ無事に朝を迎えることも困難になるような緊急事態か、そのどちらかということだ。

 結果は前者だった。もっとも、修二はそのことを携帯を開いてワンプッシュした瞬間になんとなく悟っていた。電話の向こうの哲也から伝わってくる声にならない喜びと、興奮の鼻息が嫌でも耳をくすぐったから。

 とにかく、一刻を争う事態だということはたしかだ。最低限の情報だけを得て電話をきると、修二はわざと大げさなアクションでベッドから飛び起きる。そして、眠気を強引に追い出すかのように自分の頭を手の平で数回叩いた。

 優雅に朝食をとる時間はおろか、顔を洗う時間すら惜しい。床にてきとうに脱ぎ捨てられている服を素早く身につけ、携帯と財布だけをズボンのポケットに突っ込んで玄関に向かう。その疾走する様なスピードのままドアノブに手を掛けたところで、修二はピタリと動きを止めてうしろを振り返った。目に映るのは、テレビの上の壁に掛けてある丸いアナログ時計。

 短針はほぼ真上からわずかに右に傾いた位置を指し、長針はローマ数字の二を通過したところだった。

 時刻は零時十分過ぎ。こんな時間でも飛び出さなきゃいけないのが、このお仕事の辛いところだな。

 そんなことを思って一人ニヤケながら、修二は部屋をあとにした。


 これは仕事って言えるのかな?

 早足で目的地に向かいながら、修二はそんなことを考えていた。

 高校を二年で中退して、もう四年になる。今年で二十一だ。なにもしないわけにはいかないので、いろいろとアルバイトをしてはみたが、どれも長くは続かなかった。そういえば、三週間で辞めたガソリンスタンドの店長にこんなことを言われた。

「高校すら途中で辞める様な根性なしは、そうやってなにもかもから逃げ続ける人生を送るんだ」

 とかなんとか。実際はもっとめんどくさい説教だった気がするが、記憶に残っているのはその程度だった。最後まで憶えていないのは、話の途中でその店長のワシみたいな鼻を思いっきりぶん殴ってやったせいかもしれない。あれはスカッとした。あれだけのものを喰らえば、向こうも記憶がぶっ飛んだだろうから、憶えていないという意味ではおあいこだ。ん? あいこかなこれ?

 まぁそれはともかく、まっとうな仕事が自分に向いていないということだけはわかった。だから今のような、仕事と言えないような仕事に落ち着いてしまっているわけ。

 そんな身の上話を思い浮かべて口元をほころばせていた修二に、異常とも思えるほど友好的に近付いてくる男がいた。

「いよぉ、修二。なに一人でニヤついてんだよ。気持ちわりぃ」

「黙れよ……和樹」

 真夜中に一人だけ気を吐く太陽のような相手のテンションとは対照的に、修二は沈んだ声でそれだけ返した。

 男の名は和樹。修二の高校の時のクラスメイトで、同じ時期に学校を辞め、同じように一般社会に適合できないでいる完全なる同類。性格は迷惑なほど明るく、良く言えばフランク。悪く言えば空気の読めない馬鹿。

「なんだよ機嫌わりぃなぁ。寝起きか? 寝起きだからか? 血圧低い奴って早く死ぬらしいぞ。うわっ、ご愁傷様」

「うるさい。いいから黙れ」

 そして声がでかい。修二は、いったい何度この男の喉をけい動脈ごと握り潰してやろうかと思ったか、数え切れないほどだった。

「冷たいなぁ修二。オレ、お前のこと待ってたんだぜ?」

「は? なんでだよ。お前も哲也から電話あったんだろ?」

「あったあった。だけどよぉ、詳しい場所聞く前に電話きっちまったんだよ。ほら、オレ頭の回転速いから」

「それは頭の回転が速いとは言わない。ただのせっかちだ。そして馬鹿だ。千円やるからいっぺん死んでくれ」

 まだうだうだと会話を続けようとする和樹から顔を背け、修二は前を向いて歩みを速めた。


 修二と和樹は、JR上野駅の前の通りを進んでいく。

 数十メートル間隔で街灯があるだけの暗い路地を抜けると、にぎやかな歓楽街に出た。煌びやかな装飾が成された店が連なるその通りを抜けると、また少し暗い路地に出る。だがそこは、最初に通り抜けた路地とは明らかな違いがあった。それは、今修二たちの前にそびえ立つ巨大な建物。この辺りでは一番のホテルだった。正確には頭にラブがつく感じの。

「ここか……」

「うおっ、ラブホじゃん! オレたしかここ来たことあるぜ。あん時は誰とだったかな。あ~……」

「聞いてないし聞きたくない。行くぞ。哲也は駐車場だ」

 再びぶつくさを繰り返す和樹には構わず、修二は小走りになって裏側の駐車場に回りこんだ。さすがに大きなホテルだけあり、駐車場もかなりのスペースが確保されていた。これは探すのにちょっと時間がかかるか? と、思ったとき、こちらを向いて大きく手を振る人影が目に入った。

「お、いたいた哲也~!」

「だから声が大きい!」

 そんなことを言いながら、修二と和樹は手を振る哲也の方に駆けていった。近付いていくと、だんだんと彼の背後に大きな銀色の車が停めてあるのが見え始める。瞬間、修二は自分の胸が激しく高鳴るのを感じずにはいられなかった。

 おそらく和樹も同じ気持ちだったのだろう。欲望に正直な彼は、手を振ってくれていた哲也をあっさり通り過ぎ、銀色の車に抱きついた。

「すげぇ! 本物のロールスロイスだよ!」

 一瞬、修二は和樹の声の大きさを責めることさえ忘れていた。

 駐車場に停めてある他の車より二周りは大きい車体に、剛健さを具現化したような角ばったデザイン。その高級感はこの駐車場にある全ての車を合わせた価値を遥かに超え、重量感はこの駐車場にある全ての車が束になって潰しにかかってきても当たり負けしないであろう力強さを誇っていた。

「ロールスロイス……ファントムか」

 感嘆のため息と共に声を漏らす修二。それに応えたのは哲也だった。

「うん。新型のファントム。こんなとこでお目にかかれるなんて、奇跡に近いよね」

 哲也は修二たちより一つ年下だが、きちんと高校は卒業した、三人の中では一番のしっかり者だ。そんな彼でさえ、今は興奮のためか声が震えている。

「なぁ! これ高いんだよな!? めっちゃ高いんだよな?」

 まだぴったりと車体に張り付いたまま、和樹がキラキラと輝いた目を向けてきた。

「新規車両本体価格が四千百万円だ。たしかな」

 修二が同意を求める視線を送ると、哲也はこくっと頷いた。

「うん。中古車でも三千五百万は下らない、人気車種だよ」

「中古で三千五百万!? おいおい、国家予算超えてねぇか?」

「お前は日本が三千万で動いてると思ってるのか?」

「うるせぇな修二。言葉のあやだよ。そのくらいバカみたいな値段だって言いたいわけ。あぁ……コンビニのバイトだったらどんくらい働けば買えるかな?」

「コンビニの店員だったら四万千百七十六時間くらいじゃないか」

「計算早いね……」

 尊敬半分呆れ半分の口調で哲也が呟いた。だが、目の前のファントムに視線を奪われている修二にとってはどうでもいいことだった。

 そのとき、魅せられてうっとりとした目で車体をなぞっていた和樹が、なんとなしに言葉を漏らす。

「なぁ……この車、売ったらいくらになるかな?」

 その一言が、夢の中をさまよっていた修二の意識を現実へ引き戻した。彼は鋭い目を和樹に向け、小さいが威圧的な声を発する。

「和樹……! くだらないこと言うな」

「わ、わりぃ。ついさ……」

 バツが悪そうに、和樹は修二から目を逸らした。

 そう、いかに車が高級であろうと、そのことは修二たちの仕事には直接は関係のないことだった。なぜなら、彼らの目的は車そのものではなく、その中身なのだから。

「こんな車初めて見たからよぉ。オレだって本気で言ったわけじゃないぜ、修二?」

 言い訳に聞こえないように気を遣っているのか、極力明るく言いながら、和樹は背負ったリュックを下ろして中から厚手のタオルと金属製の黒いトンカチを取り出した。

 彼の出した二つのアイテムこそ商売道具。修二たちの仕事は、世間で言う『車上荒らし』というやつなのだ。必要最低限の機材で車の中に侵入し、車内に置きっぱなしにしてある金目の物をいただく。そんな彼らにとって、相手が高級車であることの意味は、中に置いてある金品も高級である可能性が増える……と、いった程度のものだ。通常ならば。

「う~ん。傷つけるの、ちょっともったいない気がするけど」

 などと言いながらも、和樹は慣れた手つきでタオルを何重にも折りたたみ、それを車のガラスに押し当てた。原始的ではあるが、大きな音をたてずにガラスを割るにはこの方法が一番だから。

「悪く思うなよ」

 タオルを押し当てているのとは反対の手で、和樹はトンカチを大きく振りかぶった……そのときだった。

「待って!」

 慌てた様子で一歩身を乗り出し、哲也が声を上げた。突然のことに和樹だけでなく修二も驚き、彼の顔を見やる。

「実は……鍵かかってないんだ」

 哲也は少し言いにくそうに目を伏せ、ハッキリしない声でそう言った。

 間。

 数秒間、修二も和樹も時が凍結してしまったかのように動きを止めた。それはまるで、異世界の理解できない言語を初めて聞いたときのような反応だった。

「それを早く言えっつうの!」

 先に凍結が解けたのは和樹。彼は生来の行動力の高さで呪縛を解き、持っていたタオルとトンカチをその場に捨て置くと、目にも止まらぬと例えて差し支えのないほどの素早さでドアを開いた。

「うおっ、コーチじゃん。かっけー! てかマジで開いてるよ」

 ロールスロイス・ファントムのドアは、車体の中央から左右に開くコーチタイプ(観音開き)だった。和樹はドアを開くと、そのままの勢いで運転席に滑り込んでいく。

「中広っ! すげぇ。やっぱぜんぜん違うぜ国産車とは」

 まるで新しいおもちゃを買ってもらった子どものようにはしゃぐ和樹。しかし、今回ばかりは修二も彼の気持ちが十分に理解できた。

 シルバーの外装とマッチした純白のシートは、汚れを知らない新雪のように輝いて見えたし、運転をするには十分すぎるスペースはまるで「ここで暮らしていいのよ」と甘く囁いているようにさえ感じた。

「たしかに……すごいな」

 修二の口から、自然と言葉が漏れた。だがそのとき、直前まであんなにもはしゃいでいた和樹が、ただ一点だけを見つめて動きを静止していることに気付いた。

「おいおい、マジかよ哲也……」

 視線は一ミリも動かさず、和樹はドアの外に立ちつくす哲也に声を掛けた。哲也は黙ったまま頷く。

 二人の間に交わされた会話の意味がわからなかった修二だが、和樹の視線の先に目を向けた瞬間すべてを理解する。

 キーが……挿しっぱなしだったのだ。

 無用心で自衛意識のないこの国では、車のドアの鍵の掛け忘れはたまに見受けられる。だがそれも、キーさえ抜いておけば盗まれる心配はないだろうという前提があっての油断。それをキーまでも挿したままで車を離れるとは……。

「だから俺たちを呼んだのか?」

 修二の問いに、哲也はまたも無言のまま頷いた。よく考えればおかしな話だったのだ。零時を回ったこんな時間に、トラブルメーカーの和樹ならいざ知らず、冷静な哲也がロールスロイスが停まっているというだけの理由で電話をかけてくるものか。深夜の緊急連絡といえば、カモになるような物品が大量に積まれていたり、ターゲットの車が多い場合などが常。これ一台の中に侵入して、金品をあさるくらいは一人でも十分可能なはずだ。

 キーが挿したままの超高級外国車。その妖艶な響きが、二人をわざわざ呼んだ理由だったのだ。停めてある場所がラブホテルというのも悪くない。昼間ならほんの数時間で持ち主が戻ってくる可能性が高いが、この時間に泊まっているということは、朝まで出てこないと考えてほぼ間違いない。それまでゆっくりと考える時間があるということだ。

 胸の奥がざわざわと波打つのを感じ、修二は戒めのつもりで歯を食いしばった。だがそれでもわずかに感情が漏れたのか、和樹が察したような笑顔を向けてくる。

「これだったらイケるんじゃないか? 修二」

 この場合のイケる。ようするに盗むということだ。そんなことは当然修二にもわかっているし、わざわざ呼んだということは、おそらく哲也も同じ考えなのだろう。だが……。

 修二たちが車には直接手を下さず、中にある金品を奪うだけに留めているのにはきちんとした理由がある。まず一つが鍵の問題。ガラスを破って車内に侵入しても、当然キーがなければ車は動かない。配線をいじることで、キーなしでもエンジンをかける方法もあるにはあるが、専門の電子知識が必要なため修二たちにはできない。

 だが、それ以上に重要なのがリスクの問題だ。今までにも、キーを挿したままの車に出くわしたことがないわけではないが、修二たちはそれらをすべてスルーしてきた。なぜなら、車上荒らしと車泥棒とでは、背負うリスクが天と地ほども違う。車上荒らしだけなら、現場さえ押さえられなければまず証拠は残らない。注意すべきものは犯行時の目撃者だけということになる。対して車泥棒はというと、犯行の一番の証拠である車そのものと、行動を共にしなければならないのだ。検問などに引っかかれば一発でアウト。そういった警察の手を回避できたとしても、横流しなどの処理がいちいちめんどうなものだ。

 だから修二たちは車そのものには手を出さない。これは、三人の間で暗黙の了解となっていた。だが今回は……。

 今目の前にあるのは、キーが挿しっぱなしの車。それも今まで出会った挿しっぱなしの車とはけた違いの価値を誇る超高級車。これをこのままスルーしていけるのか?

 そんな修二の逡巡を見透かしたようなニヤケ面を見せ、和樹が軽い口を開く。

「おい、迷ってんのかよ。四千万だぞ四千万! これを逃すような奴ははっきり言って男じゃねぇ」

 この発言にムッとしながらも、修二は哲也の顔を伺ってみた。頼りない無表情。どうやら、最終的な判断は二人に任せる気らしい。わざわざ呼んでおいて無責任なことだが、その最後の一歩が踏み出せない自主性のなさがいかにも哲也らしいと思えた。

 さてどうする?

 どうやら自分の判断いかんで展開が左右するらしい。修二は腕を組むと、精神集中の黙とうのつもりで目を閉じた。

 キーは挿したまま。盗むのは簡単だ。車泥棒のリスクはたしかに高いが、この車の価値となら計りに掛けてもおつりがくるかもしれない。

 考えれば考えるほど、好条件ばかりが頭をよぎっていく。その時点で、もう自分の中では答えが出ているのかと思えてきた。

 閉じていたまぶたをゆっくり開き、修二は意を決したように声を発した。

「たしかに。これを逃すような奴は、男じゃないかもな」

「そうこなくっちゃ!」

 まるで江戸っ子のような威勢のよい返事をすると、和樹はキーを回してエンジンをかけた。大きな車体のわりには穏やかで、それでいて重厚感のある息吹が銀のボディに伝わっていく。

 修二は助手席に、哲也は後部座席にそれぞれ滑り込んだ。

「よっし! 出発だぁ!」

「だから声がでかいぞ!」

「もう車内だからいいんじゃない?」

 またまた不毛な言い争いをしながら車は発進。小気味のよいエンジン音を響かせながら、あっという間に駐車場を抜け出した。

「ひゃっほう! さすが四千万は走りが違うな」

 ハンドルを握っている和樹のはしゃぎようといったら、先程の比ではなかった。しかしいくら広いとはいえ、車内で叫ばれるのは迷惑この上ない。

「だから、うるさいっつってんだろ!」

「いいじゃねぇかよ細かいことは。お前も叫んでみろよ修二。四千万の中で叫ぶのはなんか違うぞ。爽快だ」

「意味がわからん……」

 だが意外にも、後部座席の哲也が和樹に援護射撃。

「でもおれも、なんとなく和樹の気持ちわかるな。すっごく気持ちいいよこれ」

「おぉ、話がわかるな哲也」

 一人だけ取り残されたような気がして、修二は内心で舌打ちした。だが、自分に正直になって冷静に考えてみると、たしかにこれは悪くない気分かもしれない。ちょっと叫んでもいい程度には……。

 結局、三人は声を合わせて車の中で叫び声を上げた。


 二時間ほどあてもなく走り回り、いい加減はしゃぎ疲れてきたところでようやく車を停めた。

「それで……どうすんだこれ?」

 切り出した和樹の問いに、修二は当然のことのように答える。

「どうするって、売るだろ」

「やっぱり? でもなんかもったいなくねぇ?」

「盗難車をずっと乗り回す勇気が、お前にはあるのか?」

「お前にゃないのか?」

「俺はそれを勇気だとは思わん。お前みたいなバカのすること」

「バカを笑う奴はバカに泣くってことわざがあるんだぜ」

「ないぞ」

 互いに一歩も引く気がなく、隣同士の近距離で睨みあう修二と和樹。そうしていると、うしろからため息が聞こえてきた。

「やめなよ二人とも」

 年下の哲也に諭され、二人は仕方なく視線を外した。

「でも修二。売るっていってもどうやって? 盗難車を無条件で流してくれる裏のルートはあるんだろうけど、おれたちそんなの知らないし」

「たしかにそうだな……」

 哲也の指摘はいつも的を得ている。あの時はノリとテンションで盗んでしまったが、後のことについては修二もまったく考えていなかった。

「なんだよ。お前だってなにも考えてないんじゃねぇか」

 勝ち誇ったような和樹の台詞が憎たらしくて、修二はキッと鋭い目を向けた。

「だから今考えてるんだろうが。まずは隠し場所だ。昼間は乗らない方がいい。この車は目立ちすぎる」

「隠すのかよ、もったいねぇ。この車なら、女引っかけんのがずいぶん楽そうなのによぉ」

「止めはしないが、お前がやっても女より先に警察に引っかかるのがオチだと思うぞ」

「婦人警官てのも、オレけっこう好きよ」

「構わないけど、アバンチュールは牢屋の中だな」

「アバンチュールってなんだ?」

「あーちょっと!」

 このままでは会話の方向がどこへ行くのか心配になったのか、哲也が身を乗り出して強引に話を遮った。

「捕まるわけにはいかないんだし、今できることだけでもやっちゃわない?」

「今できること?」

「そういや腹減ったな」

 この和樹の発言は無視。哲也は顎に手を当ててしばらくうんうん唸ったあと、自信なさそうに言葉を紡いでいく。

「元の持ち主の所持品を片付けるとか。見つかったらまずいし」

「名案だ」

「そういや、トランクの中ってなんか入ってるのか?」

 おそらく和樹本人は何気なく発した言葉。それを合図に、三人はドアを開けて同時に車から降りた。そして後部に回りこむと、トランクの前に並んで立つ。

 下のへこみに手を掛けながら、三人はおそらく同じことを考えていた。なにも入っていませんように。それが一番楽だ。

 修二たちは呼吸を合わせ、トランクを引き上げた。途端、三人は絶句してしまう。

 トランクの中には、女の子が横たわっていた。

 質素なセーラー服。肩まで伸びた茶色の髪。そしてスラッとした細く長い手足。

 美しい少女だった。目を閉じた少女は、眠っているように見えた。だが違う。肌は透き通るような白だが、同時に生気も感じられない。

 生きてはいない。

 あまりのことに、和樹も哲也も顔が完全に硬直してしまっている。二人の瞳はまさに目の前の少女に釘付けにされ、動かすことを許されずに固まってしまったかのようだった。

 だが今この瞬間だけは、修二は二人の状態がしばらく戻らないことを祈るほかなかった。二人に今の自分の顔を見られるわけにはいかない。きっと自分でも想像がつかないくらいとんでもない顔をしているから。

 しばらく呼吸することすら忘れていた修二はようやく唾を飲み、もう一度視線を下ろして少女を直視した。

 なぜ……この娘がこんなところに……?


 修二がその少女と出会ったのは、今から一月ほど前のことだった。

 三日も続く雨のせいで外出する人は減り、そのせいでいいカモが見つからずにブラブラ歩いていた修二。繁華街も人は少なく、服屋の前に立つ店員も心なしかやる気のない顔をしていた。

 その日も例に漏れず雨。それだけでも気が滅入るというのに、追い打ちとなるのが財布の中身。札はなく、ちゃりちゃりと軽い小銭の音がするだけの寂しい内容量だった。

 金もなく、仕事もなくただ歩いていた修二。そんな彼の前に、一人の少女が現われた。

 長い茶色の髪の毛をした、まだ若い少女。おそらく高校生くらいだろうか。純白と言っていいほど白い肌で、スラッと伸びた長い脚。化粧っけはないのに目鼻立ちはハッキリしていて、かなりの美人だとわかる。だがそんなことより気になるのは……。

「なんで、傘さしてないの?」

 なによりも先に修二はそう訊ねた。

 少女は傘もささず、雨に打たれるまま棒立ちしていたのだ。おかげで薄いブルーのティーシャツが肌にぴったり張り付き、下着が透けて見えていた。

「カゼひくぞ」

 可能な限り優しい声でそう言ってやると、少女はニコッと微笑んだ。

「そうだね、カゼひいちゃう。どっかあったかいとこ行きたいなぁ」

「行けばいいだろ」

「うん、そうだね。おにいさん、お金持ってる?」

 話の雲行きが怪しくなってきたのを感じたので、修二は突き放すように正直に答えた。

「ビックリするくらいないぞ」

「ふぅん。諭吉さん一枚くらいでいいんだけど」

「そりゃ大金だ。見てみたいよ」

「マジ? ホントにぜんぜんないの?」

「だからないって」

 そういう目的で声をかけたなら、完全に相手を間違えている。修二は「もういいだろ」といった感じで少女を抜き去ろうとした。

 だが、少女は予想もしていなかったことを口走った。

「まぁいっか。おにいさんカッコイイし」

「は?」

「行こ」

 それ以上はなにも言わず、少女は修二の手を引いていった。


 少女の名はレイナ。本名かはわからないが、少なくとも彼女はそう名乗った。ちなみに二人が名乗り合ったのは、近くのホテルの部屋をとり、服を脱いで向き合ってからのことだった。

「ビックリした。ホントお金ないんだね」

 上下の下着だけを身に着けたレイナが、修二の財布を振って音を鳴らした。

「だから言っただろ。ビックリするって」

「そんなの、断るための逃げ口上だと思ってたもん」

 シャカシャカと軽い音しかしない財布を床に放り投げ、レイナは修二の横に座り込んだ。

「男ってさ、ホテル代だけはいつも財布に入れておくもんなんじゃないの?」

「なんだそりゃ。初めて聞いた」

「そう? 常識だと思ってた」

 自分の言った言葉がおかしかったのか、レイナはケタケタと無邪気な笑い声を上げた。

 可愛らしい娘だった。最初見た印象どおり、ハッキリとした目鼻立ちの美人。まだ少女の面影も残っており、その幼さがまた彼女の魅力を一層引き立てていた。

 やわらかく、白く、スラッとした体。だが一つだけ気になることがあった。一瞬ちゅうちょしたが、修二は思い切ってそれを聞いてみることにした。

「な、そのお腹の……どうしたんだ?」

「あぁこれ?」

 聞かれ慣れているのか、レイナはすぐにヘソの横のその部分を手でさすった。

「へへっ……気になる?」

「それなりには」

「これはね、証なの」

「証?」

 訊き返すが、レイナはそれ以上はなにも言わなかった。それをすればすべてを煙に巻けるものだと信じて疑わないような無邪気な笑みを浮かべるばかりで。

「こんな女はいや?」

 笑顔のまま、彼女は体を寄せてきた。

「俺が君だったら、こんな金のない男の方がいやだね」

 修二が皮肉っぽくそう言うと、レイナはまたも声を上げて笑い出した。


 彼女とは、それ以降一度も会っていない。お互いにその必要もないと感じたのか、連絡先すら交換しなかった。

 それがどうしてこんなことに……。

 トランクの中を見てから、三人は一言も口を利かなかった。修二は助手席に、和樹は運転席に、哲也は後部座席にそれぞれ戻り、ただ無言で時間を持て余していた。

 修二も、とてもではないが誰かと会話をしたい気分にはなれなかった。

 どうしてレイナが?

 そのことだけが頭を埋め尽くし、グルグルと渦を巻いていく。

 一度会っただけの少女。一度関係をもっただけの少女。名前以外はなにも知らない少女。それがどうしてこんなことに?

 わからなかった。ただ、今の修二の脳裏に映像となって浮かぶのは、レイナの無邪気な笑顔。そして感じるのは漠然とした怒りだった。

 頭の中の疑問は、どうしてこんなことに? から、誰がこんなことを? に変換されていく。そして、その問いの答えはわかっていた。

 ロールスロイス・ファントム。この車の持ち主だ。この車の持ち主がレイナを殺した。殺して、あんな狭いところに彼女を閉じ込めた。

「かわいい娘だな」

 長い沈黙を破り、声を発したのは和樹だった。その口調からは、感情を読み取れない。冷淡に突き放しているようにも、怒っているようにも聞こえる。

「まだ高校生だしね」

 続いて哲也。やはり淡々とした言い方だった。

「許せないよな」

 修二のその発言に、二人は驚いて小さく声を上げる。運転席の和樹にいたっては、信じられないものを見るような真ん丸い目を向けてきていた。

「仇討ちっての? してみたい気分だ」

 二人がどういう反応をするのか予想できなかったが、修二は考えていることをそのまま声に出してみた。

 すると、意外にも和樹の口元がフッと緩んだ。

「意見が合うなんて珍しいじゃん。オレもそう思ってたとこ」

 さらに、後部座席からクスクスと笑い声が聞こえてきた。

「ホントだよ。二人の意見が合うなんて軌跡かもね」

 哲也はさらにこう付け加えた。

「でも、おれも同意見だから三人か」


 修二ってこんなに熱い奴だっけ?

 助手席に座る友人の顔を伺いながら、和樹は首を傾げた。

 和樹がレイナと出会ったのは、今から三週間ほど前。パチスロで大勝ちした直後、狙いすましたかのように声をかけてきたことがきっかけだった。

 ノリがよくベタベタとスキンシップをとってくることから、和樹は初め「逆ナン? オレに気があるんじゃね?」とか思っていたが、すぐに援交目的だとわかった。がっかり。

 だがそれでも彼女が魅力的であることに変わりはなく、和樹はしぶしぶ金銭でレイナの体を買った。提示額は五万円。

 その一夜以来、彼女とは会っていない。携帯番号もアドレスも、いくら訊いても教えてくれなかった。

 だからトランクの中で寝ているのがレイナだとわかった時、和樹は声にならないほど驚いた。しかも死んでいるときたものだ。

 彼女との夜はいい思い出だと思っているが、あまり人に話したい種類のものではない。なにせ金で体を買っているわけだから。出るとこ出れば逮捕されてしまう。

 そんなわけで、彼女と自分が面識があるということは、修二たちに知らせるわけにはいかない。友人である彼らが自分を警察に売るとは思えないが、そういう問題ではない。男としてのメンツの問題だ。

 それにしても……。

 金目的とはいえ一夜を共にした自分ならともかく、なぜめんどくさがり屋の修二がレイナのために仇討ちをしようなどと考えたのだろう。普段の奴ならば「だから車なんて盗むべきじゃなかったんだ。こんなめんどくさい死体は車ごと捨てていくぞ」とか言うはずだ。間違いない。賭けてもいい。それをなぜ……。

 なにか裏があるのか?


 言っておいてなんだが、よく和樹と哲也は素直に賛成してくれたな。

 結果的によかったものの、修二はいまいち納得できないでいた。

 お人よしの哲也はともかく、いい加減を絵に描いたような性格の和樹までもが賛成するとは信じられない。奴ならば「こんな気味悪い死体はさっさとどっかに捨てちまおう」とか言いかねない。いや、絶対に言う。賭けてもいい。それをこんなにあっさりと……。

 なにか裏があるのか?

「マジでカワイイ娘だなぁ。うしろの娘」

 思考を巡らせていた修二の頭に、いかにも軽そうな和樹の声が飛び込んできた。

「名前なんつうのかなぁ?」

「俺が知るわけないだろ」

 沈黙。なんだこの間は? それにこの言い方……探っているのか?

「なんでそんなこと訊くんだ? 死んだ女の子の名前知っても、ナンパには使えないぞ」

「んなことわかってるよ。お前ってけっこう不謹慎な奴だなぁ」

「どっちがだ」

 修二は可能な限りそっけないふうを装った。

 レイナとのことは和樹にも哲也にも言っていない。言うつもりもない。たまたま会った女の子と一発ヤッたなんて、声を高らかに言える話じゃないから。

「名前知らないとさぁ、いろいろ不便じゃん。なんて呼べばいいんだよ。あの死体……じゃ可愛そうだろ?」

「そんなに言うなら、お前が名前をつけてやったらどうだ?」

「そうだなぁ。じゃあ、レ……」

 と、そこで急に和樹は言葉を切った。

 だがたしかに聞こえた。『レ』って言った。五十音あるパーツの中から、一発で『レ』を引き当てた。これは偶然か?

「和樹、お前今なんて言おうとしたんだ?」

「あ? そりゃお前アレだよ。えと……レンタカーだよ」

「それは人の名前じゃないな。貸し出し専用車両の名称だ」

「うるせぇな。そんなに言うなら修二、お前が名前つけろよ」

 言われてとっさに考えてみたが、自分でも驚くほど思いつかなかった。本当の名前があるものに別のでたらめな名前をつけるのは、意外と難しいものだと知る。

 考えあぐねて沈黙する修二の様子をどう受け取ったのか、和樹がニヤッと不敵な笑みを浮かべた。

「思いつかねぇか、修二? そうだろそうだろ。本当の名前を知ってるのに、でたらめな名前を浮かべるのって難しいよなぁ」

「お前……」

 バカか? バカなのか? 本人は追い詰めているつもりなのだろうが、それって自分も本当の名前を知っていると白状しているようなものだぞ。

「なぁ修二。隠してないでホントのこと言えよ」

「お前がそうしたら、考えてやる」

「なんのことだ?」

 もはや和樹がレイナのことを知っているのは間違いない。そしてむこうも、こっちが彼女を知っていることに感付いている。

 和樹はなにを隠しているんだ? まさかとは思うが、レイナを殺したのは……。

 いや待てよ。俺がそう考えているということは、もしかして和樹も同じことを考えているのか? レイナを殺したのは俺だと。それはまずいな。かん違いだし。

「あのさ、二人とも」

 お互いの心の内を読み解こうと、至近距離で睨みあっていた修二と和樹の間を裂くようにして、哲也がうしろから身を乗り出してきた。

「どんな理由があってそんなに険悪なのか知らないけど、おれ二人に言わなきゃいけないことがあるんだ」

「なんだよ?」

 正面の修二から視線を外し、イラついた声で訊ねる和樹。すると、哲也はなにかに怯えているかのようにハッキリしない目で、口をまごまごさせ始めた。

「どうしたんだよ、哲也?」

 今度は修二があやすような口調で訊ねた。おかげでなんとか決心がついたのか、哲也は目を上げておもむろに口を開いた。

「あのさ……おれ実はうしろの娘と会ったことあるんだ」

 なんだって? 口から飛び出しかけた声と、速まる心臓の鼓動を必死に抑え、修二はゴクッと唾を飲んだ。

 哲也はさらに言葉を続ける。

「おれ……あの娘の援交の相手したことあるんだ」

 言葉を聞いた瞬間、修二は自分の脳が大きく湾曲するのを感じてめまいがしてきた。なんてことだ。レイナがウリをしていたのはわかっていたことだが、哲也がその相手をしていたとは。いや、この場合哲也も……か? 俺は金は払っていないが。

 目の前に叩きつけられた真実に、修二はなんと言っていいかわからなくなる。そんな中、驚きの声を上げたのは和樹だった。

「お前もかよ、哲也!」

 お前も? 即座に顔を向けてみると、和樹は明らかにマズッたという表情をしていた。なるほど。そういうことだったのか。

「和樹、お前もなんだな?」

「は? な、なに言ってんだよ修二」

 口ではまだシラをきるつもりらしいが、この余裕のない顔では陥落も時間の問題だろう。

 修二は和樹の顔を直視し、それから哲也の顔を一瞥してから大きくため息を吐いた。しょうもない。まったくもってしょうもない。

 結局、三人はそれぞれのしょうもない体験を話し合った。各々のレイナとの夜のことを。


 車の中には、持ち主を特定するようなものは残っていなかった。財布も免許証も、おそらく持って出たのだろう。

 修二たちは、車に乗ったまま例のラブホテルの近くで待機することに決めた。車の持ち主は間違いなく自分の車を探す。だが警察に通報するわけにはいかないだろう。トランクに死体を入れたままの車を警察に探してもらおうなどと考えるとしたら、そいつはただの馬鹿だ。

 だから必ず自分の足で車を探す。そして見つけるはずだ。都会でこんなに浮いた車はめったにないのだから。

「やっぱ納得できねぇんだけど」

 口を尖らせ、和樹がいかにも不満そうな声を漏らす。

「なにがだ?」

「値段だよ値段。オレはレイナを五万で買ったんだぞ。哲也、お前はいくらだったんだっけ?」

「え……三万五千だけど」

「なんでだよ! なんでオレはちょっと物価が高ぇんだよ! すげぇ納得できないんだけど!」

 和樹はさっきからこればかり言っている。今さらそんなことを言っても、なんの意味もないというのに。

「修二……お前今ちょっと笑ったか?」

「べつに。いい加減しつこい奴だと思ってな」

「はんっ。お前はいいよなぁ。なんせタダでヤラしてもらったんだからよぉ」

「俺が頼んだわけじゃない。俺とだったらタダでヤッてもよかったけど、お前とだったら五万くらいもらわなきゃ割に合わないと思ったんだろうよ」

「あっ、病気持ってると思われたんじゃない?」

 大人しい哲也までバカにしたように参戦してくる。和樹はうしろから身を乗り出してきていた哲也の頭を叩くと、乱雑な動作で運転席に座り直した。

「病気なんてねぇよ! あーなんでだよ。ムカつく。こいつらはウゼェし、腹は減ったし」

「お前の空腹具合は関係ない」

「修二、ちょっと行って三人分のメシ買ってこい」

「どうして俺が行かなくちゃならない」

「罰だよ! ただでヤッた罰!」

 意味がわからない。どう考えても八つ当たりだ。

 だが空腹であることは三人の共通意見だったので、結局はジャンケンで買出しにいく者を決めた。

 結果は修二の一人負け。本当に罰だろうか。


 車から降りて近くのコンビニに向かう途中、修二はレイナのことばかり考えていた。と、いっても名前以外わからない。会ったのも一回だけ。こんなことになるなら、もっといろいろなことを話せばよかった。だが、そんなことを考えてももう遅い。話す機会なんて、もう二度と訪れないのだから。

 考えながら歩いていたので、足下ばかり見ていた。気がつくと、目の前には制服を着た女子校生が立っていた。

 女子校生は修二と目が追うと、逃げるような動作で踵を返した。

 どこにでもあるようなセーラー服。しかし、修二はたしかに見た。彼女の左胸にある校章を。トランクの中のレイナの制服にもあった校章を。

「ちょっと待って」

 考えるよりも早く、修二は女子校生の腕を掴んでいた。どうしてそんなことをしたのか自分でもわからない。少しでもレイナのことを知りたい……その思いで必死だったのかもしれない。

「なんですか?」

 腕を掴まれた女子校生は、警戒心と嫌悪感をあらわにした目を向けてくる。突然腕を掴まれれば当然の反応だろう。

 そんな彼女に修二は訊ねた。

「レイナって娘を知らないか?」


 誰かが窓ガラスをノックしたのは、修二が出て五分ほどしてからのことだった。

「ずいぶん早かったじゃねぇか。ちゃんと焼きそば……」

 シートを倒して寝ていた和樹は、半身だけ起こして窓の外を見る。そこにいたのは、修二ではなかった。オールバックの髪がテカテカ光った、岩みたいな顔したおっさん。

 明らかに敵意を向けているその男の視線にピンときた和樹は、窓ガラスを開けて顔を出した。

「なんですかねぇ?」

「これは俺の車だ。お前らなにしてる?」

 やはりそうか。和樹は後部座席の哲也に眼で合図を送ると、互いに頷き合って車の外に出た。

 外に出て改めて男を見た和樹は息を呑んだ。デカイ。男は百九十近くある大男だった。ガタイもかなりいい。

「お前ら、なんのつもりでこんな……」

 大男がまだ喋っている最中、和樹は一歩踏み出して相手の間合いに入り、渾身のアッパーを顎に喰らわせた。

 決まった。どんなに体格差があろうと、これで倒れない奴はいない。

 しかし、意に反して大男は微動だにしなかった。むしろ逆に、アッパーを決めたはずの和樹の拳の方が痛みだしてくる。

 こいつはやばい。本能でそう察知して距離を置こうとしたまさにそのとき。なにか太い棒が腹を突き破ったかのような衝撃が和樹を襲った。

 大男の拳だ。和樹は生まれて初めて空中をふっ飛ぶという事態を体感した。

 数メートル先の地面に背中から叩き落とされながら、和樹は哲也の声を聞いた。顔を上げてみると、彼は大男の胴体にタックルしている。

 だが、哲也の全体重をかけた攻撃にも大男はびくともしない。それでも哲也は歯を食いしばり、見たこともないような鋭い眼光をして何度もタックルを続けた。執念の攻撃。

 しかし、細身の哲也がいかに攻撃を繰り返しても、大男は蚊に刺された程度の痛みも感じていないようだった。もう飽きたとばかりの鋭い蹴りを喰らい、哲也もまた吹き飛ばされてしまう。

「哲也、逃げるぞ!」

 このままでは到底敵わないと悟り、和樹は運転席に飛び込んだ。声に反応し、哲也も這いつくばりながら後部座席に乗り込む。

 今までまったく揺らぐことのなかった大男の表情に、初めて焦りの色が垣間見えた。だがもう遅い。和樹はエンジンをかけ、素早く車を発進させた。


「えぇぇぇ!?」

 突然発進した車を遠巻きに見つめながら、修二は思わず声を張り上げてしまった。なんで発車した? なんで俺を置いて発車した?

「ちょっと、放してよ!」

 修二に手首を掴まれていた女子校生が、荒っぽく腕を振り回した。名前はさっき聞いた。美由紀というらしい。

 彼女はレイナという名前に聞き覚えはないと言ったが、同じ学校に通っているのなら顔ぐらい見たことがあるかもしれない。それ以前に、レイナという名前が本名だという保障もないのだ。もしかしたら、本当の彼女の名前を知っている可能性だってある。そんなわけで、レイナの顔を直接見せるために連れてきたのだが……。

「なんなのよ!? 腕痛いって言ってんじゃん」

「ごめん。君に見てもらいたいものがあるだけなんだ。それが終わったらすぐに帰っていい」

「見せたいもの? どこにあんのよ」

「なんか……どっか行っちゃった」

「はぁ!?」

 驚く気持ちはよくわかるが、もっと驚いているのはこっちの方だ。なにせ置いていかれたのだから。和樹と哲也はなにをしているんだ?

 などと考えている修二の方に向かって、ちょうど車のところにいた男がのそのそと近付いてきた。頭一つ分デカイ大男。体もプロレスラーみたいにぶ厚い。よほどのバカでなきゃ、ケンカを売らないような相手だ。

 相手の威圧感に恐怖を覚えたのか、美由紀は修二のうしろに回って隠れるように背に顔をうずめた。

 大男のいた位置。そして突然発車したファントム。それだけで十分理解できた。おそらくこの大男が車の持ち主なのだろう。和樹と哲也は慌てて逃げたというわけか。わけもなく置いていかれたんじゃなくてよかった。

 大男は岩みたいな顔面に血管を浮き上がらせ、怒りを露にしていた。あまりの怒りのせいか、修二には目もくれずに通り過ぎていく。

 何事もなく通過してくれたことにホッと胸を撫で下ろすが、修二はとっさにその感情を否定した。安心してどうする? アイツは車の持ち主だ。アイツはレイナを殺したんだ。

 しかし、あの大男に制裁を加えるには、少なからず作戦を練る必要があることを認めざる得なかった。

「ねぇ、もういいでしょ? 帰らせてよ」

 大男が去ってから、美由紀がキッとつり上がった目で睨んできた。猫みたいな目。そういえば全体的に猫っぽい。かわいい方だとは思うが。

「待ってくれ。すぐに携帯であいつら呼び戻すから」

「それ時間かかるんじゃないの? 別にそんなに急がなくていいじゃん。携帯番号教えるから、車戻ってきたら連絡してよ」

 つんつんした口調でそんなことを言いながら、美由紀はバッグから携帯を取り出した。

 もちろん修二はそんな要求を呑む気はなかった。別に急がなくていいなんていう悠長な事態じゃないし、ウソの番号を教えて逃げることを考えているのかもしれない。

 そしてその思いは、美由紀の携帯が目に入った瞬間に一層強くなる。

 彼女の携帯の表面に、見たことのあるものが刻まれていたのだ。

 すぐにでも美由紀とレイナを会わせなければならない。そんな思いが強烈に高まり、修二は胸をかきむしりたくなるような衝動に駆られた。


 和樹は運転しているだろうと思い、哲也に電話をかけてみた。すぐ近くを走っているらしい。ここに戻ってくるのは危険だと思ったので、修二は自分から向かうことにした。もちろん美由紀を連れて。

 合流してすぐに、和樹は服をめくって殴られたという腹を見せてきた。赤く腫れ上がっている。おそらく明日には青アザになるだろう。

「マジしゃれになんねぇ。アイツだったら女の子の一人や二人殺してるって」

 痛そうに腹をさすりながら、和樹がそんな軽口を吐いた。本人はかなりイラついているようだが、修二には自業自得としか思えなかった。ケンカを売るなら相手の体格を考えるべきだ。

「修二、その娘は?」

 同じく手痛い一撃を喰らったらしい哲也が、わき腹を押さえながら訊ねてきた。

「この人に強引に連れてこられたのよ!」

 必要以上に強い口調で美由紀が怒鳴ってきた。こういうキツイ女が苦手なのだろうか。哲也は彼女と目を合わせないようにしているふうに見えた。

「見せたいものがあるんでしょ? 早くしてよ」

「そうだな」

 素直に頷き、修二は美由紀を連れ立って車のうしろに回りこんだ。そしてゆっくりとトランクを開ける。

「なに……これ」

 それがレイナを見た美由紀の第一声だった。目は驚きで見開いている。

「死体。名前はたぶんレイナ」

 もう少しオブラートに包んだ言い方をしようかとも考えたが、結局思いつかずに修二はありのままを打ち明けた。

「死体って……あんた頭おかしいんじゃないの?」

 美由紀はハッキリとした拒絶を示す強固な目を向け、修二から一歩後ずさった。普通の反応だと思う。レイナを知らないならば。

「美由紀。改めて聞くけど、この娘を知らないか?」

「知らない。会ったことない」

「でも同じ学校だろう? 校章が同じだ」

「同じ学校だからって、全員と知り合いなわけないじゃない。ウチの学校は生徒も多いし。顔を見たことない人だっていっぱいいる」

 それは当然そうだろう。だが、修二はどうしても引っかかっていた。彼女の携帯電話のことで。

「本当に知らないのか? 君は……」

「知らないって言ってるでしょ! なんなのよアンタ! 警察呼ぶわよ、この人殺し!」

 美由紀の目が、再び敵意で鋭くつり上がる。猫は猫でも、かなり凶暴な猫のようだ。

「そうか。わかったよ」

 これ以上は無駄だと思い、修二は大人しく引き下がった。

「でも警察には言わない方がいい。君もこの娘みたいになりたくないならね」

 車の前方から、和樹の仰天した声が聞こえてきた。もちろん修二のこの台詞は単なるポーズ。一応釘を刺しておく必要はあると考えてのものだった。

 だが、それに対して美由紀は特に臆した様子もなく、ただフンと鼻を鳴らして去っていくだけだった。

 最後に彼女は、自分に対してずっとビクついていた様子の哲也に、軽蔑の眼差しを向けた。


 することもなくなり、三人は再び車に乗り込んだ。運転席の和樹は、自分の腹を見てまだぐちぐちと文句をたれている。

「あのデカブツ。今度会ったらただじゃすまさねぇ」

「お腹、大丈夫か和樹」

 心配そうに声をかけたのは哲也。

「あぁ。お前も大丈夫かよ哲也。しっかしスゲェなお前。何度も何度も向かっていってよ。あんなにガッツのある奴だとは思わなかったぜ」

「ただ必死だっただけだよ」

「でも立派だ。修二、お前にも見せてやりたかったぜ。哲也のナイスファイトをよぉ」

「ん? ああ……」

 話半分で聞いていた修二は、適当な返事をした。すると、哲也の心配の矛先がこちらに向けられた。

「どうしたの、修二?」

「いや、レイナを殺したのは本当にあの大男なのかなって……」

「はぁ!?」

 修二の発言に、和樹がいかにも心外そうに顔を歪めた。

「おい修二。このケガ見ろよ。オレも哲也もこんなにこっぴどくやられてるんだぜ?」

「それは車を盗んだ犯人だからだ。誰だって、自分の車を盗んだ犯人には殴りかかるくらいして当然だろ」

「あぁ言えばこう言う! お前ってホントあまのじゃく!」

 よほど頭にきたのか、和樹は座席の前を足蹴にした。鈍い衝撃音が車内にこだまし、振動でダッシュボードが乱暴に開く。

 だが不思議なことに、一つしかないはずのダッシュボードが開く音が二度聞こえた。気になった修二は運転席の方に身を乗り出し、中をのぞいてみる。からっぽ。当然だ。持ち主につながるものがないか、車内の収納スペースはすべて調べたのだから。

「なにもないだろうがよ」

 和樹のイライラした声が耳に響く。しかしそれでも気になった修二は、ダッシュボードの中に手を突っ込んでみる。すると、底の方に不自然なでっぱりがあるのを感じた。

「なにかあるな……」

 さらにでっぱりの周辺をまさぐってみると、小さな取っ手のようなものが指に触れた。人差し指と親指でそれを掴み、なんとか引き上げてみる。パタンという音。なにかが開いた。

 突っ込んでいた手を抜き、修二はもう一度中をのぞいてみた。やはりだ。ダッシュボードの底に、隠されたもう一つの収納スペースが広がっていた。

 修二はもう一度手を突っ込み、収納スペースの中にあるものを掴み取ってみた。それは、何枚もの紙。名刺だ。

「なんだこりゃ?」

「名刺……だね」

 和樹と哲也も顔を寄せ合い、三人で名刺の束を広げてみた。名刺に記してある名前は『澤田 巧』だった。どの名刺にも同じ名前が書いてある。名刺だからそれは当然なのだが、名前の左上にある職業が十枚ごとにすべてバラバラだった。IT関連会社代表取締役、アパレルショップ店長、プロカメラマン、アイドル事務所常務、などなど。てんでバラバラ。共通点があるとすれば……。

「こりゃどれも女にモテそうだなぁ」

 修二は和樹の意見に素直に頷いた。そう、どれも若い女の心をくすぐれるような職業ばかり。おそらく使用目的もそのままだろう。落としたい女の見た目や雰囲気から最も適した名刺を選び、それをブラフとして使って近づく。あとは本人の会話術やテクニック次第だが、なにもないよりは格段に成功率は上がるという仕組みだ。

「これを見ただけで、ろくでもない奴だってことはわかるなぁ」

 これにも修二は同意するほかなかった。こんなものを隠し持っている時点で、まっとうな人物でないことは明白だ。

「ねぇ修二。もう警察に任せない?」

 哲也が遠慮がちに提案した。

「オレも哲也に賛成。この澤田って奴、思ってたよりずっとやばそうだ」

 修二は二人から視線を外し、ジッと名刺を凝視した。名刺には当然携帯番号も書いてある。この名刺を車内にばら撒いておき、車を警察の目に付きやすいところにでも捨てておけば、間違いなく澤田は逮捕されるだろう。もちろんレイナ殺しの犯人として。決め手にはかけるが、証拠は複数の名刺が示す被疑者の信用ならない人格といったところか。

 だが、そんなことになんの意味がある?

 修二がレイナの仇を討ちたいと言ったのは、なにも伊達や酔狂からではない。うだうだとダルイ捜査を何年も続ける無能な警察なんかよりも、自分たちの方が確実に犯人に罰を与えられると考えたからだ。そしてそれは、和樹と哲也も同じはず。

 しかし、今の二人は予想していなかった澤田の強さとやばさに完全に尻込みしてしまっている。だからこの期に及んで警察に任せようなどと言うのだ。だが……。

「俺は反対だ。警察になんて任せない」

 修二の発言に、和樹も哲也も完全に虚を衝かれたようだった。

「それに……まだ澤田が犯人だと決まったわけじゃない」

 言った瞬間、和樹の顔に怒りの色が浮かんだのが見えたが、それでも修二は意見を変える気はなかった。

 それほどまでに修二の心を捉え、他の方向に揺らぐことを拒む要因となっていたのは、やはり美由紀の携帯電話だった。


 もう警察に任せてこの件からは手を引こうと言う和樹と哲也と、それを断じて認めない修二。三人の意見は交わることなく、平行線を保ったままその日は終わろうとしていた。

 この辺りでは最も人通りの少ない公園の端に車を停め、和樹と哲也は車内で睡眠をとっている。思えば昨日の深夜から丸一日眠っていなかった。

 ただ一人、修二は車の外でトランクを開け、レイナと向き合っていた。

「レイナ……お前は誰に殺されたんだ?」

 答えてくれるはずのない問い。それは中空を舞い、静寂の闇へと消えていった。

 トランクの中のレイナは、まだキレイなままだった。目を閉じて横たわるその姿は、ただ眠っているようにしか見えない。変な話だが、今なら白雪姫に出てくる王子様の気持ちがわかるような気がした。

 修二はレイナの唇に自分の顔を近づけた。キスができるほどまでに。息が彼女の顔にかかり、髪の毛がゆらゆら揺れた。

 だが、レイナの唇からはなにも伝わってこなかった。呼吸も、声も。

 途端にむなしくなり、修二は顔を背けてレイナから体を離そうとした。しかし不意にバランスを崩し、彼女に覆いかぶさる形で半身がトランクに入ってしまう。

 そのときだった。

 レイナの体がずれたことで、腰の下のあたりに小さなポーチが置かれていたことに気づく。

 修二はポーチを手に取り、チャックを開いてみた。中を見てみると、入っているのはほとんどメイク道具だった。だがその中に紛れて、一冊のメモ帳のようなものが忍んでいた。

 それは、生徒手帳だった。


 生徒手帳には、学校の住所が記されていた。レイナの学校。そして美由紀の学校でもある。

 一般的な学校の下校時刻より少し早めの午後三時。和樹と哲也には買い出しにいくと告げ、修二は手帳に記された学校に向かった。あらかじめ近くに車を移動させておいたので、徒歩十分くらいの場所。

 私立の女子高だった。名前からして、おそらく大学とエスカレーター式でつながっている高校。建物の大きさは、学校としてはごく平凡な四階建て。まだ真新しい校舎だった。

 校門の静けさからして、下校時間にはまだなっていないようだった。しかたがないので、修二は学校のすぐ前の本屋で時間を潰すことにした。店内をうろついたり、立ち読みしたり。時々店主が不審者を見るような目で睨んできたり、すぐ前を通り過ぎながらわざとらしく咳払いをしていったが、気にしないことにした。

 やがて、懐かしい響きのチャイムの音が修二の耳に飛び込んできた。その数分後、大都会の交差点のような喧騒と共に、何十人もの女生徒たちが校門から出てくるのが見えた。

 修二は本屋をあとにし、もっと見やすいように校門に近づいていった。ちょうど太い木があったので、それに半身を隠す形で待機。校門からはおよそ二十メートルくらいの場所だった。これでも十分不審者だが、そこは通報されないように周囲に気を払うしかない。

 あとは待つだけ。運がよければ、他の生徒たちと共に美由紀が出てきてくれるはずだ。だがあくまで運次第。彼女が部活などで遅くなる可能性もあるし、それ以前に今日は学校を休んでいることだって十分考えられる。今の修二には、祈って待つこと以外できない。

 それから五分ほど経ってのことだった。自転車に乗った美由紀が校門を通り抜けていったのは。

 修二はガッツポーズをして思い切り叫びたい衝動に駆られたが、今はそんなことをしている場合ではない。なにしろ自転車は想定外だった。

 幸い美由紀はそんなに急いでおらず、自転車は修二が小走りをすればついていける程度の速さだった。だがそれでも、一定の距離を保って追跡するのはなかなか骨が折れた。

 五百メートルほど走ったところで、修二に体力の限界が訪れた。日頃の運動不足が、こんなところで仇になるとは。美由紀が信号で止まったのを期に、修二はイチかバチかのつもりで一気に距離を詰めてみた。

 そして、彼女のバッグ……さらに自転車にも『それ』があることに気づいた。

 信号が青に変わり、美由紀の自転車が走り出す。修二はもう追いかけようとはしなかった。

 もう十分だった。


 美由紀はウソをついている。

 それはもう決定的だった。彼女はウソをついた。レイナの死体の前で。そんな状況下でウソをつく理由……修二には、それは一つしかないように思えた。

 しかし、そう考えると不自然なことが一つ浮かんでくる。

 彼女は……なぜレイナを車のトランクに入れた?


 追跡を終えて車に戻った修二を待っていたのは、空腹のせいもあってブチキレ寸前の和樹の怒声だった。彼の機嫌はなかなか直らず、ようやく収まってきたと思ったら、晩飯の買い出しに誰がいくかを決めるジャンケンで一発敗北して再び暗転直下した。

「でもホント……どこ行ってたの?」

 和樹とは違い、穏やかな口調で訊ねてきたのは哲也。和樹がいない今、万が一のときは即座に動けるよう、運転席に修二、助手席に哲也が座っている。

「べつに。ちょっとやぼようだ」

「またまたぁ。そんなんだから、和樹が怒るんだよ」

 それはそうだろうと修二も思う。だが哲也は怒らなかった。いつでも穏やかで優しい奴。それが哲也。

 ちょっと考えてから修二は切り出した。

「レイナだけどさ」

「ん? なに?」

「よかったよな」

 哲也はきょとんとした。その表情は、明らかに「なにが?」と訊ねている。だから修二は答えてやった。

「セックス」

 数秒間の沈黙を通り過ぎたあと、哲也はぷっと吹き出した。

「急にどうしたの、修二。てか不謹慎極まりないね」

 言葉では責めているが、哲也は腹を抱えて笑っていた。

「でも実際そうだと思わないか? 俺、あんないい女には初めて会った。あの娘は最高だったよ。お前もそう思うだろ?」

「ん……まぁ思うけど」

 あまりに予想外な言葉ばかりが飛び出したせいか、哲也の顔から笑みが消えていった。今は逆に、不信感が色濃く浮かび始めている。

「いい女だったよレイナは。肌もキレイで、すべすべで。でもさ哲也、一つだけ惜しかったよな」

「え……なにが?」

「ヘソの横だよ。全身白い肌ですごくキレイなのに、あの部分だけ黒くなっててさ」

 瞳を閉じ、修二はレイナの体をまぶたの裏に浮かべながら言葉を綴っていった。白く、スラッとした美しい裸体にただ一点だけ影を射す黒い部分。彼女と寝た男なら、必ず脳裏に焼きついているその部分。

「もったいないよな。どうしてあんなことになってんのかな」

「さぁ、どうしてなんだろうね?」

 調子を合わせるようにして、哲也は首を傾げた。

「やっぱり生まれつきかな。顔にデッカイのある人よりはマシか」

「うん。そうだと思うよ」

「知ってるか、哲也。歌手の椎名林檎ってさ、どうしても顔にそれが欲しかったんだって。それで子どもの頃からずっとマジックで書いてたら、そのうち本物になったらしいぜ」

「あぁ、それ聞いたことある。変わってるよねあの人。歌も変わってるけどさ」

「変わってるんじゃない。あの人の歌は特徴的なんだよ」

 小さく息を吐き、修二は窓の外に顔を向けた。

「レイナのも……特徴だと思えばよかったのかな」

 それを聞き、哲也がハッキリとこう告げた。

「そうだね。ホクロだって立派な特徴だと思うよ」

 今度は肺の底の方から大きくため息を吐き、修二はポケットから携帯電話を取り出した。それを見て哲也が訊ねる。

「どうしたの、修二?」

 携帯を操作しながら、修二は聞き取りづらいほど小さな声で呟く。

「終わりにしようと思ってな。ぜんぶ」

 そして昨日追加した最も新しいメモリーを呼び出し、修二は電話をかけた。美由紀の携帯に。


 修二の呼び出しに応じて美由紀はやってきた。

「終わりにする」

 そう言って修二は和樹を連れて車から離れた。哲也は車で待機。理由を訊くと「澤田を罠にかけるためだ」とだけ修二は答えた。美由紀もそのために必要らしい。

「君……どうして来たの?」

 運転席の哲也が訊ねると、助手席でイライラと爪を噛んでいた美由紀がキッと睨みながら答えた。

「修二っていうの? あの男に呼ばれたから。すっごく強い言い方で、必ず来いって。文句あるの?」

 刺々しい口調で言われ、哲也は目を伏せた。だがそれでも怒りが収まらないのか、美由紀はさらに責め立てる。

「アンタたちバカじゃないの? どうして警察にも行かないで、こんなとこうろうろしてんのよ」

「それは……修二が反対したんだ」

「だからなに? アンタたち二人ってあの修二って奴の下僕なわけ?」

 あんまりな言い方が少し心外で、哲也は眉をひそめた。

「そんなんじゃない。でも、修二の意見にはいつもなにか強い意志がこめられているんだ。信念て言うのかな。だから和樹はいつも言い争っているけど、修二の意に反することは絶対しないんだ。心の中では、すっごく信頼してるんだと思う」

「……で、アンタもそれに従うしかないってわけ?」

「おれだって、こんなことになるなんて思ってなかったんだ。まさか修二がこんなにも自分で事件を解決することにこだわるなんて……」

 自分でも言い訳がましいとわかる口調。その証拠に、向けられている美由紀の視線が急激に冷たくなっていくのを感じた。彼女はいつもそうだ。いつもいつも蔑んだような目を向けてくる。

 しかし、哲也にも言い分はあった。

「君こそ……どうして修二に捕まったりしたんだ? どうしてまだあんなところにいた? すぐに離れろと言ったはずだ」

 途端、美由紀の顔が怒気で真っ赤に染まった。

「そんなに簡単にいくわけないでしょう! 朝まであたしが誰と一緒にいたか……アンタ知ってるじゃない。それにね……」

「それに?」

「信用できなかったのよ。アンタのこと。どっかでヘマするんじゃないかって思って、自分の目で確かめておきたかったのよ。現にアンタはこうして、こんなところでこんなことをやっている。レイナの死体を乗せたまま!」

 美由紀のヒステリックな怒号が車内に響き渡る。それが反響して耳に残っているうちは、二人とも言葉を発しようとはしなかった。

 ややあってから、哲也は美由紀から視線を逸らして正面を向き、ため息混じりの声を漏らす。

「修二は鋭い。きっともうなにかに感付いているんだと思う。君は……来るべきじゃなかった」

「そんなの知らない。あたしはアンタの言うとおりに動いたわ。いつもとなんら変わらない生活に戻った。学校にだって行った。アンタがまだなにか考えてるのかと思って、警察にだって通報しなかった」

「でもここには来るべきじゃなかった。修二はたぶん澤田を連れてくる。そうしたら君は……」

「そんなのわかってる!」

 苛立ちが頂点に達したのか、美由紀は髪の毛をガリガリとかきむしり始めた。まるで理性を失った子どもみたいに。

「あの修二って奴がなにかに感付いてることなんて、あたしにだってわかってるわよ! だったら……だったらなおさらここに来るしかないじゃない! ここに来てぜんぶ終わらせるしかないじゃない!」

 終わらせる? 美由紀は修二と同じことを口走った。彼女と修二の意見が交わることなんて、決してないはずなのに。

「君は……修二を殺す気か?」

 哲也の問いに、美由紀は答えなかった。今はもうかきむしる手を止めて、彼女は自分の頭を抱えて震えている。

 もうどうしていいのかわからなくなっていたそのとき、運転席側のドアが突然開いた。

「よっ、哲也」

 そこにいたのは修二だった。不思議と、彼がいつも以上に柔らかな笑みを浮かべているような気がした。

「人見知りのお前が、ほとんど初めて会った女相手にこんなに楽しそうに話してるのなんて、まず見られないだろうな」

 ドアの上部に肘をかけたまま、修二は余裕に満ちた表情でそう言った。

 哲也は、自然と自分が笑っていることに気づいた。

 そういうことだったのか。やはり修二には敵わない。


 修二に促されるまま、哲也と美由紀は車を降りる。そこにはすでに神妙な面持ちの和樹が待機していた。

「ウソだったんだね。澤田のところに行くって言ったのは」

 穏やかな表情を向けてくる哲也。彼の目を真っ直ぐに見据え、修二は頷いた。

「ああ。少し離れたところでずっと見てた。会話は聞こえなかったけどな」

 だがそれだけで十分だった。言い争う様子を外から眺めただけで、二人の関係性をなんとなく察することができた。

「哲也……お前はどうして、レイナの仇を討とうと思ったんだ?」

 修二の問いに、哲也は意外そうな顔で返した。

「それは言ったじゃない。修二と和樹と一緒だよ」

「ちがう。お前はレイナとは寝ていない」

「どうしてそうなるの?」

 哲也は肩をすくめてみせた。それに対して修二は、車のトランクの方に移動しながら言葉を発していく。

「さっき俺との会話でお前は言ったよな。レイナのヘソの横にあるのがホクロだって。あのとき俺は、お前がそう答えるように誘導していったんだ」

 修二はもう慣れた手つきでトランクを開けた。他の三人も、自然に彼の元に集まってくる。

 最初に見たときとまったく変わらない姿勢で横たわるレイナ。修二は彼女の制服に手を伸ばすと、腹の部分をまくり上げた。

 瞬間、哲也がハッと息を呑む音が聞こえたような気がした。ヘソの横にあったのがホクロではなかったから。

 そこにあったのは、クロスを描いてひっかいたような十字傷だった。その部分が黒いかさぶたとなり、ぷっくりと盛り上がっている。

「ホクロじゃない。傷なんだよ。黒い十字傷だ」

 目の前の哲也の顔から血の気が失せていくのがわかったが、修二はこの歩みを止めるわけにはいかなかった。

「レイナの体は白くてキレイだ。だからこそ、たった一箇所のこの傷が頭に残る。しかもこんなに変わった十字傷だ。レイナと関係を持った男が、この傷のことを忘れているなんてありえないんだ」

 そこで一度言葉を区切り、修二は和樹の方に向き直った。

「さっき確認したら、和樹もしっかり覚えていた。この傷のことを」

 和樹は今まで見せたこともないような真剣な表情で、ただ真っ直ぐに哲也を見つめていた。

「いいか哲也、レイナと寝た男が、この傷のことを覚えていないはずはないんだ。だがお前は俺の誘導に引っかかり、ヘソの横にあるのがホクロだと言った。知らなかったからだ。レイナの体を」

 哲也はなにも言い返さなかった。そのことが逆に修二をむなしい気持ちにさせ、心を沈めた。だがまだ終わっていない。次は彼女だ。

「十字傷のことは頭から消えはしないが、だからといってずっと記憶の表面にこびりついているようなことでもない。俺だって昨日まではそんなこと、思い出として胸の奥にしまっていたさ」

 そこまで言って修二は踵を返し、ずっと茫然自失の体で立ち尽くしていた美由紀に向き直った。

「昨日、レイナの腹にあるのとまったく同じ十字傷を見るまではな」

 突如、美由紀がハッと顔を上げた。事態が自分の方に向き始めたことに気づいたらしい。

「美由紀……君の携帯だ。俺は昨日、君の携帯にこれとまったく同じ十字傷が刻まれているのをハッキリ見たんだ」

「だからなんだっていうのよ? そんなの偶然かもしれないじゃない」

 必死に反論しようとしているが、美由紀の顔は真っ青だった。

「それだけじゃない。俺は今日、学校の外で待って君のあとをつけさせてもらった」

 彼女のつり上がった大きな目が、これ以上ないというほど見開いた。予想もしていなかったのだろう。

「そのときに見たんだ。君の通学用バッグの右側面にも、君の自転車の後輪の泥除けにも、まったく同じ十字傷が刻まれているのを」

 それだけじゃない。きっともっとあるはず。美由紀の部屋にあるほとんどすべての物に、同じ傷が刻まれているはずだ。

「他の男がどういう反応をしたのかは知らない。でも俺はレイナに訊いたんだ。その傷はなんなのかって。そうしたら彼女は笑いながらこう答えた。これは証だってな」

 そう、レイナは笑っていた。子どもみたいに無邪気に。それを思うと修二は、今もこうして冷静に話していられる自分自身を嫌いになりそうだった。

「美由紀。この十字傷は君が自分の所有物に刻む証なんだろ。携帯も、バッグも、自転車も君の所有物だ。そしてたぶんレイナも……君のものだったんじゃないのか?」

 美由紀は自らの腕で自分の体を抱きしめ、ガタガタと震え始めた。

「君とレイナはそれほどの関係だった。友人同士か、それを遥かに超えるような関係だった。なのに君は昨日、そんな大切な存在であるはずのレイナの死体を見て、知らないと言った。ウソをついたんだ」

 秒を追うごとに、美由紀の震えが大きくなっていく。自分を抱く腕にも力が入り、爪が肌にめり込んでいた。

「哲也と美由紀。二人がウソをついているとわかったとき、もしその二人が知り合いだったら、すべてがつながるような気がしたんだ」

 これでぜんぶ。修二はもう言葉を紡ぐのをやめ、誰かが話を始めるまでは、ただ黙ってことの成りゆきを見守ろうと決めた。

「すごいね、修二」

 そう言った哲也は、曇りのない清々しい顔をしていた。いつも大人しい哲也とは思えない、覚悟を決めた男の顔。

「もうだめみたいだ。ぜんぶ話そう、美由紀」

 哲也は美由紀の肩にそっと手を置いた。


 美由紀の震えが止まるのを待ってから、哲也は話し出した。

「すぐに来てくれって美由紀から連絡があったのが、夜の八時過ぎだったんだ。そのときは、いつも通り車で迎えにきて欲しいのか、もしくはお金かと思った」

 いつも通り……の辺りで語気が弱くなったのは、気のせいではないだろう。つまり美由紀にとっての哲也は、そういう便利な男だったということか。

「それで指定されたホテルの部屋に入ったら、もう美由紀がレイナを殺したあとだったんだ。と、言ってもおれはレイナに会ったのは、そのときが初めてだったけど」

「車で行ったのか?」

「うん。美由紀にそう指定されたからね。自分の車で行った。おれが着くとすぐに、美由紀はレイナを運び出すのを手伝うように言ったんだ。それでおれたちは二人で、レイナの死体を連れて非常口からホテルを脱出した」

 数秒間隔で、哲也は美由紀の顔をチラチラ伺っていた。震えこそ止まったものの、彼女はまだ自分の体を抱いてうつむいている。

「おれの車に乗ってホテルからしばらく走ったところで、美由紀は澤田に連絡をとったんだ」

「澤田に?」

 意表を突かれ、修二はオウム返ししてしまう。こんなところで澤田の名前が出てくるとは思わなかったから。

「美由紀は……初めから澤田に罪を着せることを考えていたみたいなんだ」

「どうして澤田なんだ?」

 それに答えたのは、今までずっと押し黙っていた美由紀だった。

「あの男はクズよ!」

 軽蔑や嫌悪感すら通り過ぎ、殺意さえ感じる毒々しい言い方。彼女はさらに続ける。

「アイツと初めて会ったのは三ヶ月くらい前。あたしがレイナと一緒にいるときだった。そのときは都合のいい男だったの。金も持ってて、なんでも買ってくれたし」

 修二は無意識にファントムの方に目を向けていた。そりゃあ金は持っているだろうよ。

「でも、遊び始めて一月位してから、澤田が初めてあたしたちにものを頼んできたの。おっきなバッグを渡されて、これをある場所に届けて欲しいって。ただし中身は見ちゃだめだって」

「それで言われたとおり運んだのか?」

「運んだわよ。だってホントにただのバッグだったんだもん。でも、あとで澤田に聞かされたの。バッグの中身がクスリだったって……」

 修二は澤田の岩みたいな顔を思い浮かべた。なるほど。なにも知らない女にクスリの運搬をやらせていたというわけか。なかなか頭がいいな。岩のクセに。

「それからは澤田は急に冷たくなって……金をせびるようになってきたの。言うことを聞かないと警察にバラすぞって」

 本命はクスリか、それとも金か。どちらにしてもたしかにクズのやり口に思えた。

「俺は警察に捕まるのなんて慣れてるけど、お前たちはどうかなって。アイツ……笑いながら脅してきたのよ」

「それで……二人でウリをやったのか?」

「えぇ、そう。だってしょうがないじゃない! 澤田が要求してくる金は、マックのバイトをして払えるような金額じゃないのよ? だったら……体を売って稼ぐくらいしかできないじゃない!」

 発作でも起こったかのように急に声を荒らげる美由紀。修二には、だんだんと事件の全容が見えてきたような気がした。

「この街には、そうやって澤田に脅されてる女がいっぱいいるわ。みんな誰にも言えないだけ」

 修二はダッシュボードの中の名刺の束を思い出す。あの名刺に記されたような偽の肩書きと、物欲を満たすという偽の優しさで女の信用を勝ち取り、弱みを握ったあとは手の平を返して金を巻き上げる。こういう奴を女の敵というのだろうな。

 とにかく、美由紀と澤田は顔見知りだったというわけか。そういえば昨日初めて澤田と会ったとき、美由紀はまるで隠れるように顔を背けた。あの行動は、近付いてくる大男に恐怖を感じてのものではなかったということか。

「澤田はクズよ。だからぜんぶアイツのせいにしてやろうと思ったのに……」

 美由紀の鋭い殺意の瞳が、今度は哲也に向けられた。好きな女にこんな目を向けられるのは、さぞ辛いことだろう。軌道修正のため、修二は適当な質問を投げる。

「哲也の車の中で、なんて言って澤田を呼び出したんだ?」

「かんたんよ。金を渡すって言ったの。そして場所はホテル。そうすれば必ず来るってわかってたわ。金と女にしか興味のない男なんだから」

「それで澤田はのこのこやって来たと」

「えぇ、予定通りにね。あたしはいつも睡眠薬を持ち歩いてるの。金は持ってるけど、絶対にヤリたくないようなキモいオヤジを出し抜いてやるために。それをグラスに入れておいて部屋にやって来た澤田に飲ませたら、あっという間に眠ったわ。あのバカ」

 酷い言い草。それほどまでに憎かったというわけか。

「それで眠ったアイツから車のキーを抜き取って、先に駐車場で待機してた哲也に渡したの。あとは澤田の車のトランクにレイナを隠して、哲也が警察の前にでも捨ててくればよかった。そうすれば澤田は逮捕されたはずだもの。なのに……」

 その計画が実行に移されることはなかった。実際に哲也が行ったのは、修二と和樹への連絡なのだから。

「万が一のときのために部屋に戻れってあたしに言ったのには、こういうわけがあったのね」

 またも美由紀が敵意むき出しの目を哲也に向ける。だが、今度は哲也も黙ってはいなかった。

「君はすべてを甘く考えてる。たしかに君の言う通りにすれば澤田は逮捕されただろう。でも、証拠不十分で釈放される可能性が高いんだ。そうなったときに一番危険なのは君なんだよ。だから怪しまれないように朝まではホテルにいて、そのあとすぐに逃げろって言ったんだ」

「はんっ、口では言ってくれるわね。でもそれと、アンタのお友達を呼ぶことがどう関係あるわけ?」

 これには返す言葉がないのか、哲也は黙ってしまう。

 だが、修二にはその答えがわかるような気がした。

「自分でカタをつけたかったんじゃないのか、哲也?」

 そうすればすべてに納得がいく。哲也があんなウソをついたことも。

「お前は自分自身の手で澤田に制裁を加えてやりたかったんじゃないのか? それを手伝わせるために俺と和樹を呼んで、車を盗ませた」

 最初に修二が仇討ちをしたいと言ったとき、哲也はなんて思ったのだろう? 彼にとってはまさに渡りに船だったはずだ。

「哲也、お前は最初からそのつもりだったんじゃないのか? トランクの中のレイナを見せ、自分がたまたま彼女と関係をもったことがあると言えば、俺と和樹も必ず復讐に協力すると……そう思っていたんじゃないのか?」

 途端、哲也の口元がフッと緩んだ。

「まさか……修二たちがレイナと知り合いだなんて思ってもみなかったけどね」

「俺が仇を討ちたいと言ったあとにレイナとのウソの関係を告白したのは、念のためか」

「あのときは、修二がなにを考えてるのかさっぱりわからなかったからね。自分なりの理由付けがいると思ったんだ。ノリで仇討ちに参加するのは、おれのキャラじゃないでしょ?」

「正確な自己分析だ」

 修二の顔にも笑みが漏れた。だがそのとき、青天の霹靂のように美由紀がひきつった声を上げる。

「どうしてよ!? どうしてアンタがそんなことするのよ?」

 赤く充血した瞳。すぐにまた震えが始まりそうな雰囲気だ。そんな美由紀に向き直り、哲也がゆっくりと言葉を紡いでいく。

「許せなかったんだ。君をそんなにまで苦しめた澤田が。だからどうしても……俺自身の手で終わらせたかった」

 美由紀の肩がびくんと跳ね上がったような気がした。まるで彼女の心臓の動きをそのまま体現したかのように。

「認めてほしかったんだよ。君にとっておれがただの都合のいい男だとしても……おれにとっては大切な君だから……」


 胸の奥にしまっていたもの。そのすべてを吐ききって溜飲が下りたのか、哲也はかつてないほど清々しい顔をしていた。彼の中には、もう自らを苦しめる毒は残っていないのだろう。

 美由紀もただ呆然と立ち尽くすばかりで、言葉を発する気はないようだった。和樹にいたってはもういるんだかいないんだかわからない。

 無言の時が流れていた。

 このままずっと、世界中の誰も声を発しないのではないかというほどの静寂が時を満たしていく。

 だがまだ終われない。まだ訊かなければならないことが残っている。それをわかっている自分を憎ましく思いながら、修二は口を開いた。

「美由紀……君はどうしてレイナを殺したんだ?」

 それが最後に残った謎だった。証を残すほどの相手を、なぜ殺さなくちゃならなかった?

「愛してたから。あたしは心の底からレイナを愛してたからよ」

 彼女はぼんやりとした視線を漂わせ、無表情のままぽつぽつと言葉を綴っていく。

「彼女の体……キレイでしょ? あたしは彼女を自分のものにしたかった。だからベッドで証を刻んだ。消えないように……何度も何度も」

 ヘソの横の十字傷。あれはやはり束縛の証だったようだ。

 修二は傷について答えたときのレイナの顔を思い出した。屈託のない無邪気な笑顔。おそらく彼女も望んでいたのだろう。美由紀の所有物となることを。

「でも……現実は違った。レイナの体はアンタたちみたいな汚い男を受け入れていたんだから」

「だから……殺したのか?」

「そうよ! レイナの白くてキレイな体を前にすると、あたしは頭が熱くなるの! 愛しくて愛しくて、おかしくなるの!」

 美由紀の感情が、最も低いところから一気に最高潮に達したのを見た気がした。やはり視点は定まっていないが、全身に過剰な力が入ってギシギシと軋んでいる。

「だから殺したの! 彼女を……本当にあたしだけのものにするために」

 言葉の途中で、美由紀の体からフッと力が抜ける。そのせいでフラついた彼女の体を哲也が支えた。

「あたしは後悔してない。だってこれでもう……誰もレイナを汚すことができなくなったんだから……」

 彼女は笑っていた。笑いながら、一粒の涙を流していた。

 今度こそ、もう誰もなにも言わなくなった。


 それからのこと。

 修二たちがまず行ったのは、澤田を呼び出すことだった。奴が拒むはずがないことはわかっていた。こちらには奴の大事なロールスロイスがあるのだから。

 夜の公園にやって来た澤田に、まず修二と和樹が殴りかかった。だがこれは単なるオトリ。本命は金属バットを持って陰で待機していた哲也だ。

 膝に渾身のフルスイングが決まったあとは楽なものだった。足が折れて地面に転がる澤田を、哲也がひたすらめった打ち。

 とどめとばかりに、澤田の顔面をすり潰さんとバットを縦に突き刺す。肉が潰れる気持ちの悪い音と、骨や歯が砕ける鈍い音が同時に響き渡った。

 そのときの哲也の表情といったら……。修二は、あんなにも嬉々とした彼の顔を初めて見た。

 暴れる哲也を抑え、半殺しですませるのに苦労した。


 レイナがどうしたら喜んでくれるか。それを一番わかっていたのはやはり美由紀だった。

 死体は彼女の学校に移すことにした。登校してきた生徒が一目で気づくよう、校門を入ってすぐの花壇の中に。

 レイナの死体を持ち上げると、あることに気づいた。ダッシュボードと同様に、トランクも二重底になっていたのだ。そしてそこに入っていたのは大量のクスリだった。澤田が警察に通報しなかったのにはこういう訳もあったのか。

 ともあれ、予定通りレイナの死体は花壇の中に寝かせた。花に囲まれて永久の眠りにつく姫は、なかなかに美しかった。

 ついでに、どうせ使い道はないのでクスリをぜんぶ花壇にまいた。

 翌朝、花壇を囲む生徒と、様子を伺いにきた教職員が一緒になってクスリでイク姿は絶景だった。まさに天国。

 きっとレイナも笑ってくれた。


 レイナのことを見届けたあと、美由紀は修二たちと別れた。しかし、すぐに再会することとなった。病院のベッドの上で。彼女は手首を切って死ぬつもりだったらしい。

「ぜんぶ終わらせるって……こういうことだったのか」

 美由紀は一命を取りとめたというのに、哲也はそう言って自分を責めた。


「おれのウソ……いつから気づいてたの?」

 唐突に哲也が訊ねてきた。もったいぶることでもないので、修二はあっさりと答える。

「最初っからだよ」

 予想外だったらしく、哲也は目を丸くした。

「どうして?」

 今度は少し間をおき、修二はこう言った。

「だってお前、童貞っぽいんだもん」

 哲也は眉をひそめ、それから大笑いした。

「修二……それヒドくない?」

 当の修二もそれに合わせてゲラゲラと笑った。どこまでも響く二人の笑い声。

 だが、修二が哲也に会ったのはそれが最後だった。

 哲也は警察に身を預けた。すべての罪を一人で背負い……。


 なぜか自然と和樹も離れていった。修二と会うといろいろなことを思い出してしまうからか、それとも自分だけカヤの外的な扱いを受けたのが気に入らなかったのか、そこのところはよくわからないが。

 修二は一人になった。この数日間で、あらゆるものが自分から離れていったような気がする。仲間とか、平凡な日々とか。

 皮肉にも、修二の元に残ったのは一台の車だった。こんないわくつき、どこかに置いてきてしまえばいいのだが、それもなかなか覚悟のいることだ。なにせ四千万円なのだから。

 修二は何気なく銀色の車体を撫でた。ロールスロイス・ファントム。ファントムは日本語で幻影。

 なぁ……ぜんぶ幻影だったらよかったのにな……。

 修二は目を閉じ、すべてを出し切るかのような大きなため息を吐いた。

「なんて……ちょっと思ってみただけだよ、バカ」

 軽く吐き捨てたあと、フロントガラスをバンと叩いた。

 そして、修二はファントムに背を向けて歩き出す。きっともう振り返ることはない。だって似合わないから。

 きっと俺には、安物がちょうどいいんだよ。

 安くて平凡だけど安定した、国産車みたいな毎日がさ。

 

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