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自宅へと自走する自動車の中。普段であればPALSのチャンネル音声と私の独り言だけがBGMだが、今日は違った。普段はない、やや高めの声が車内に響く。
「リアンちゃんさ、いい車に乗ってるよね」
「そう?」
別に値段の張るような車ではない。よく普及しているタイプの、どちらかといえば安価な自動車だ。
私の左隣でシートにもたれかかる彼女、二ノ宮アトは、頭の後ろで腕を組み、ゆっくりと目を閉じる。
「寝心地がよい」
「そう」
そういえば、アトが自動車に乗っているところは見たことがない。
「アトは、車には乗らないんだっけ」
「持ってないからね。家から職場までが近いから、普段は歩きだし。運転許可証も持ってないから」
自動車の運転は自動なので操縦する必要はない――というよりできないが、それでも自動車の所持には運転許可証が必要だ。知識のないものに扱わせないため、というのも理由のひとつではあるだろうが、未成年の所持を防ぐ方が意味合いとしては大きいだろう。
「でも、休日に出かけたり、必要じゃない?」
「うーん。あんまり遠出しないしなあ……。あ」
いいことを思いついたと言わんばかりに、アトが人差し指を立てた。
「その時は、リアンちゃんが連れてってよ」
「なんでよ」
そんな、なんの実にもならない話をしていると、自動車がマンションの駐車場へと到着した。
自動車のナビが終了し、評価アンケートが表示される。
到着予定時刻誤差は+1:13です。今後の運用のため評価をお聞かせください。
私はショルダーバッグを手に取ると、アンケートに答える。"十分満足" だ。
下手に "概ね満足" などと答えた日には、どこが不満だったのかを根掘り葉掘り聞かれることになる。
評価を送信すると、暇そうに手遊びをしていたアトを連れてマンションのエレベーターへと足を運ぶ。
そこそこ大きなマンションだが、エレベーターには人がいなかった。二人には広い籠に乗り、4階のボタンを押す。
カツカツと廊下を二人分の足音が鳴る。規則的に並ぶドアをいくつか通り過ぎたあと、目的の部屋へと到着した。
PALSがドアを開錠する。カシャ、という音と共に、ドアが内側から開かれる。
「お邪魔します」
「初めてでもないのに、なんでそんなに緊張してるのよ。どうぞ」
ぎこちなく入室するアトの後ろ姿に笑いながら、私も部屋に入る。
なんてことはない。私の部屋だ。アトが遊びに来たいというので、職場からそのまま連れてきたのだった。
「おかえりなさい、市民リアン」
朝同様に、女性的な柔和な声が室内に響く。
[collating]
99.99999999......%
[complete!]
「ストレス値が正常閾値を大幅に超過しています。早急のメンタルケアが推奨されます。最短で明日 10-03 08:30:00 に総合病院でのケアが可能です。予約しますか?」
音声は私の健康状況を鑑みて、病院を手配するつもりらしい。それは人類の健康維持という観点からすれば正しいのかもしれないが、私には不必要な提案だ。
>no_
私が提案を拒否すると、再びPALSが口を開く。
「抗不安薬の使用を推奨します。処方しますか?」
>no_
「12時間以内に同様の警告が再度通知された場合、メンタルケアが必要になります」
PALSからの脅しともとれる警告を受け取り、私は頷いた。
「わかってる」
PALSに感情はない。だからそんな返事にも意味はないのだが。
これも、癖みたいなものだ。
「明日も、貴方にとって幸福な一日でありますよう」
「健康診断はそろそろ終わった?」
後ろから声がかかる。振り返ると、そこには琥珀色の液体が入った瓶を持ったアトが、機嫌よさそうに佇んでいた。
「私の家……」
「いいじゃん。それより、グラスある?」
私は、はあ、と息を吐いた。今更、その程度で怒る気もない。
私はジャケットを脱ぐと、ハンガーに袖を通してクローゼットに掛ける。
台所に向かうと、アトがアイスペールに氷を移している最中だった。冷凍庫からロックアイスを取り出し、トングでひとつひとつ丁寧に運んでいる。
「適当でいいわよ」
食器棚からグラスを二人分出しながら声をかける。りょうかーい、という気の抜けた返事と、ガラガラという盛大な音が奥から聞こえてきた。ロックアイスをひっくり返したわね……。
グラスを持ってリビングに戻る。ローテーブルをはさんで向かいにグラスを置くと、山盛りの氷が入ったアイスペールと、ビンを抱えたアトがリビングに顔を出した。
アトは、どん、と音を立ててながら抱えた荷物をテーブルに置く。私はアトのグラスに氷を入れた。
カラカラと、氷がグラスを叩く音が耳に心地よい。アトのグラスに氷を盛った後、自分のグラスにも氷を入れようとした、その瞬間。向かい側から伸びた手に、さっとグラスを奪われる。
「私がいれたげる」
アトは笑顔でそう告げる。私がやった方が早いでしょ、と私は小さく笑いつつ、ソファに腰かけた。
氷で溢れたグラスに、瓶から琥珀色の液体が注がれる。液面がグラスの縁を濡らし、照明を鈍く反射した。
アトが注ぎ終えたグラスを私に向かって滑らせるのと同時に、入れ違いに私も彼女のグラスを奪う。アトから瓶を受け取ると、私もグラスに液体を注いだ。
「どうぞ」
「さんきゅ」
アトがグラスを受け取ると、そのまま目線の高さまで掲げる。私も同じようにグラスを持ち、彼女のグラスの縁へと当てた。
「今日も人生お疲れ様。かんぱーい」
「乾杯」
かちん、とグラスが音を立てる。口に当てたグラスを煽ると、液体が唇を濡らし、ごくりと鳴る喉を焼いた。
度数の高いアルコールが、食道をなぞり胃に落ちてくるのがわかる。足を組み、ソファの背もたれに体重を預けると、たまらず深く息を吐く。
くあー、という声が聞こえ、向かいの席に目をやると、何とも形容し難い表情で口の端を歪めるアトと目が合った。
「リアン、よく飲めるね」
「無理して飲まなくても」
「同じものが飲みたいんじゃん」
グラスを傾け、二口目を煽る。舌を撫でる液体から、樽の香りが鼻を抜けた。
アトも再びグラスに口をつける。ちみちみと、舐めるように舌を濡らす。
なんだか猫みたい。口には出さずに、その感想を心に留める。
「リアン、甘いのない?」
「果物のやつがあるわ。ちょっと待ってて」
私はグラスをテーブルに置くと、席を立つ。数歩歩いて台所の奥、水の入ったボトルが並ぶ棚から、場違いな橙色のボトルを抜いた。グラスをもう一つ取り、リビングへと戻る。
新しいボトルを手に席に戻ると、そこにはグラスを両手で抱えちびちびと中身を口に運ぶアトの姿があった。
「無理して飲まなくていいって」
「いや、なんか悪いし……」
「無理する方が悪いでしょ」
アトの手から強引にグラスを奪い取ると、新しいグラスに氷を入れる。そのままテーブルにグラスを置き、橙色の液体を注ぎ込んだ。ずい、とグラスをアトの前に出す。わかりやすく表情が明るくなったアトを見て、思わず笑みが零れる。
「これだったら飲めるでしょ」
「リアン……、好き……」
ハグのジェスチャーをするアトに対して、はいはい、と私は手を振った。
先ほどより明らかに美味しそうにグラスを傾けるアトを片目に、私は再びソファに腰を下ろす。
私とアトが嗜んでいるのは酒だ。アルコールの摂取は重大な違法行為なのだが、そうであることを除いても酒を嗜む人間は少ない。
アルコールが流行らない理由はいくつかあるだろうが、最も大きな理由は、PALSが入っている人間にはアルコールが効かない、つまり酔うことができないというのが根本的な点だろう。PALSは、許可されていない生体外物質が体内に侵入したことを認識した時点で、人間本来の容量限界を超えた速度で代謝を開始する。そのため、アルコールが脳を犯す前に分解されてしまい、トリップするようなことはない。そのため、アルコールを好んで摂取する者がいないのだ。
ただこれは本来なら、の話である。
どんなシステムにも抜け道が存在する。それはPALSも同様で、私やアトにはCOM ―― [Cheating On Me《私を騙すモノ》] ―― と呼ばれる外部入出力装置が入っている。
COMはPALSの生態スキャン――脈拍や血圧の測定から、体内に侵入する生体外物質の認識まで――を阻害し、誤魔化す違法のアルゴリズムだ。その理屈は単純で、摂取した物体の認識パターンに特定のノイズ《Adversarial Example》をかけてやる。たったそれだけのことでPALSは生体外物質の認識を誤ってしまう。
AIには、人間のような不完全な生物の"なんとなく"の判別は難しく、これは今も昔も変わらないらしい。ただ実際には、心拍や血圧などの情報から血液中の栄養素までを予め入力されたテーブルに合わせて変換し、正常値の値に収束するように出力するのだが。そのため、体内にどんなに異物が混入しようが、PALSが得られる情報は正規の範囲に収束する仕組みになっている。
高価なものであれば、ON / OFFを任意に切り替えることのできるPALSの拡張モディフィケーションの形をとるものもあるが、廉価なものは数時間だけ効果を持つ錠剤であったり、身体に装着する物理デバイスの形をとるものも存在する。例えるなら、COMは自身の体に対するブラックボックス攻撃デバイスのようななものだ。
COMは先進国でも手に入る。所持も使用も当然のように違法だが、飲酒や煙草を趣味に持つ一部の奇特な富裕層は、大枚叩いてでもこれを買う。そうまでしてでも酒や煙草を嗜みたい好事家が存在する。
進んで自らの命を縮める、自殺志願者というわけ。
COMのおかげで、私、露城リアンはアルコールで酔うことができるし、カフェインを楽しむこともできる。その結果がPALSに警告されることもない。さらに言えば、私は国際福祉監査機関に勤める職員なので、記憶ログからその情報を抜かれることもない。
これが私の、唯一の娯楽。
自らの肉体を傷つける、この消極的な自殺こそが、露城リアンの人生における小さな幸福だった。
幾度目か、口に付けたグラスから口内に液体が流れてこないことを確認すると、瓶を傾け琥珀色の酒を注ぐ。はじめ、瓶いっぱいに入っていた酒が、半分近くまで減っていることに気が付いたとき、私の平衡感覚は既に大分怪しくなってきていた。
酒で唇を濡らしながら向かいを覗くと、焦点の怪しい瞳で私を睨むアトが呂律の回らない口で何かを喚いていた。
「りあん!」
「何よ」
「いつもありがとう、すきだよ」
「……水を持ってくるわ」
同僚の惨状に少しだけ酔いが醒める。自分より錯乱した状態の人間を見ると、一周回って冷静になるというのはどうやら本当らしい。そういえば今日は殆ど水を飲んでいないことに気が付き、台所まで水を取りに行こうと腰を浮かせる。すると、何を思ったのか、おぼつかない足取りでふらふらとアトも席を立つ。
「ちょっと、危ない」
「うあ……」
重力に負けたようにアトの体がよろけ、そのまま私にもたれかかる。その体重を支え切れずに、私はアトともつれて床へと寝転ぶ形になった。
ごん、という鈍い音と共に、背中に鈍痛が走る。
受け身も取れずに、床とアトからの衝撃に挟まれる。私の痛覚に反応してPALSが警告を出した。COMは体外から摂取された異常は無視できるが、体内から生じたものは無視できない。
「ばか、何考えてるのよ」
危ないでしょうが、とアトを小突くが、本人はどこ吹く風だ。
「だってすきなんだもん」
「答えになってない」
私はため息を吐いた。心なしか、頭痛がする気がする。酒臭いアトに抱き着かれながら、私も同じように酒臭いのだろうかと、あまりにも場違いな心配をした。
「そもそも、アトは簡単に好きだのなんだのって言うけど、人間の感情なんて、簡単に抑制できるし促進できるものよ。恋愛インプラントを導入した夫婦が、一生お互いしか愛せなくなるようにね」
反論するかと思いきや、意外なほど静かにアトは耳元で囁いた。
「知ってるよ。でも攻撃行動を抑制するためのインプラントとは違って、恋愛インプラントは異性間にしか効果を発揮しないの……。何でか知ってる……? 意味がないからなんだ。人類全体の幸福にとって意味がないことは、やってもしょうがないでしょ。だからね、リアン。私のこの気持ちは本物。嘘まみれのこの世界でも、この気持ちだけは何にも支配されない本物なんだ……」
そう静かに呟いたアトから、普段の茶目っ気やいい加減な冗談臭さは感じない。ぽつりぽつりと零すようなその言葉に、私は何と返せばいいかわからず、顔を背ける。
しかし、その言葉以降ピクリとも動かない彼女に、私は違和感を感じた。重いし身動きが取れないので、そろそろどいて欲しいのだけど。どうしたものかと身じろぎしていると、耳元へ届くすーすーという穏やかな呼吸音に気が付き、力が抜けた。
こんな体勢で寝ないで欲しい。
私はアトの体をゆっくりと転がし、抱きしめるように抱えると、上体を起こしてその体を持ち上げる。体勢的にはお姫様抱っこに近い。アトが小柄で助かった。
泥酔してしまった同僚をベッドに乗せ、ブランケットをかける。本当は遅くなる前に家に帰すつもりだったのだが――。まあ、いい。最悪、明日は休ませればいいだろう。
そう判断し、私は上着を脱いだ。シャワーを浴びて、寝る準備をするためだ。ベッドはお姫様が使ってしまっているので、私はソファか何かで寝ることになるだろうが。
一瞬、もういっそ明日の休みを申請してしまおうかという考えが頭を過る。しかし、映像化を頼んだ記憶ログが明日には出来上がっている予定であることを思い出し、その案は脳内で自動的に棄却された。
寝る前になって仕事のことを考える時間ができてしまい、少しだけうんざりする。
これでは、新堂のことをとやかく言う資格はない。
私はもう一杯だけグラスに酒を注ぐと、一気に飲み干し、グラスを台所のシンクに放る。
洗い物をする気にもなれない。そのまま私はシャワーを浴びた。