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私は知らなかったのだが、どうやら両親は会社の経営に苦労しているらしい。
借金がかさみ、もはや個人ではどうしようもない額のようだ。なぜ才能も知識もないことに取り組むのか、私には理解に苦しむが、どうせどこかの誰か、生活コンサルタントか何かの類に唆されたのだろう。
いや、唆された。という表現は正確ではないだろうな。どうせ、無理ですやめましょう、その言葉を誰もが言えなかっただけにすぎないのだ。きっと。
だからつまりは自業自得。これが彼ら、私の両親だけの話なら、そう結論づけて終わっただろう。
ただ、話はここで終わらない。現実は絵本の中のように、わかりやすく教訓を授けたところでは終わらない。借金は想像以上に酷いものらしく、政府はこのままでは子供を育てるのは難しいと判断したらしい。それは金銭的な理由が大きい割合を占めているが、少なからず、両親のこの性格を勘案した判断もあったのではないかと個人的に思う。
経営不振による破産から、差し押さえや極端な取り立てなどはされないが、借金が返せるようになるまでは国営事業に取り組まなければならない。と言っても、過酷な肉体労働などではない。そも肉体労働のような単調な作業は機械がやった方が効率がいいということもあるし、肉体に負担をかけるような仕事が、幸福な世界で許されるはずがない。誰にでもできるような簡単な事務作業だ。
しかし、このことにより一時的に親を失う私は、国の機関に引き取られることになる。
そのこと自体は、仕方ない。そういう決まり事だ。それに、救済措置に文句を言うわけにもいかない。
ただ私が何より許せなかったことは、にもかかわらず両親が幸せそうにしていたことだ。
私を一時的とはいえ失って、それでもなおアホ面下げて幸せそうにしているこの両親のことだ。
いや、知っている。わかっている。別に両親が私よりも会社やお金を大事にしているわけではないことくらい、理解している。そうではなく、会社がなくなっても、お金が無くなっても、私に迷惑をかけないで済んだと本気で思っている、そう思い込んで幸せそうにしている阿呆に腹を立てているのだ。
思い込まされている。この幸福な世界に。
すべては万人の幸福のため。
別に私に遭うことを禁じられているわけではない。ただ、養育費を賄えないために、国営機関に私の身柄が引き取られるだけだ。その程度のことでしかない。
じき、私も両親もメンタルケアを受けるだろう。別れの一瞬はつらいだろうが、そんな感情はすぐに忘れ去ってしまう。愛する者との別れはつらいから。ストレスが幸福の敵だから。
何が幸福だ。私は貧しくても両親と一緒にいたかった。貧しい生活をすることは幸福ではないかもしれないが、私にとっては決して不幸ではない。
メンタルケアなど知ったことか。そんなもの、何の役にも立ちやしない。
私が感じているものは世界の気持ち悪さだけだ。幸福ごっこには何の意味もない。
かつて、全人類に与えられた平等とは死だけだった。
だが、この世界では違う。
死すら平等ではない。
その本質を、その恐怖を知らない者と知る者とでは、死の持つ意味が全く違う。
私の両親やクラスメイトにとっては、私のおかれた状況による一時的な離別も、死の持つ永遠の離別も、そこに大きな差異はない。
違いがわからない。理解できない。
引っ越した人間にも、死んだ人間にも、同じ表情で同じように「つらいね、さみしいね」などと宣うのだ。
私は怖い。周りの人間が、感情を持たない人形が。
私は怖い。いずれ人間が、幸福以外の感情の、比重を測れなくなることが怖い。
私は怖い。
なによりも、私が死さえも恐れることのできない、みんなと同じ幸福な人間になるのが怖い。
だから私は胸を抱く。
この気持ちを失わないように胸を抱く。
この胸中の #消極的自殺願望 を。