04_#timestamp:0000-02-12 23:59:59
#timestamp:0000-02-12 23:59:59
今日、クラスメイトの子が自殺をした。
自殺者を目撃してしまうことは非常に珍しいが、自殺自体は近年の死因を考えれば別に珍しくもない。
老衰を除けば、死因の中で最も高い割合を持つのは自殺だからだ。
こんな情報は、PALSを用いて医療セクタにアクセスすればだれでも手に入れることができる。少なくとも、今の時点では。
ただ、実際にアクセスする人間は一握りだっていないだろう。そういう社会なのだ。
だからというわけではないが、私はその生徒の自殺は不思議には思わなかった。何故なら、その子ならいずれ自死を選ぶだろうとさえ思っていた。その子はいつも追い詰められていたから。
原因は恐らく、他人の優しさを享受できなかったこと。善意を受け入れられなかった。ただそれだけの理由。
その子は生まれつき足が悪かった。クラスメイトも教師も、良かれと思ってだろう、その子を特別扱いしすぎたのだ。登下校の送り迎えから始まり、荷物持ち、移動の補助、体育は特別メニューを組まれ、果てにはお手洗いの付き添いまでされていた。優しさを、善意を、素直に喜ぶことのできる人間ならばどれだけよかったことか。
意思のない優しさは、単なるシステムに過ぎない。
好意のない行為。
本人がどれだけ嫌であっても、他人の優しさを断ることはできない。無下にすることは許されない。なぜなら、幸福を乱すようなことは許されないからだ。人間は、幸福でなければならない。しかしそれは、決して個人の幸福を指すのではない。人間の幸福とは、人類全体の、社会全体の幸福のことなのだ。
遠慮はよくない。それは幸福ではない。
他人の助けを断るのはよくない。それは幸福ではない。
他人の善意を受け取らないのはよくない。それは幸福ではない。
幸福でないことはよくない。それは幸福ではない。
その子が自殺したことは公には伏せられ、私を含むクラスメイトや、その子の両親、親族はメンタルケアを受けた。幸福のために。
たとえ子供が自殺したところで、親は一週間もすれば子を失った悲しみを忘れてしまう。なぜなら愛する者を失った哀しみは精神衛生上よくないから。幸福ではないから。
それでは幸福とはなんだろう。
死んだ子供を忘れることは果たして幸福なのか。
翌週には、足の悪かったあの子など、初めから存在しなかったように振る舞うクラスメイトの中で、私は考える。
幸福について考える。
恐らく、私だけが。