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#timestamp:2xx8-10-02 08:45:00



「おはよう」


目に入ってきたのは、ベージュ色の天井。カーテンの隙間から零れる朝日。


僅かな日の光が瞼越しに網膜を焼いた。暗闇から明るさへ、私の目は徐々に順応していく。


生活工学に基づいて設計された部屋が、私に今日という一日の始まりを教えてくれた。


私はまぶたを擦り、緩慢な動作で上半身を起こす。


寝起きは別にいい方ではなかったけれど、私の双眸はしっかりと開く。そこに睡魔の影はない。


瞼を擦ったのだって、特別に眠いからではなく、単純に小さい頃からの癖になっているだけだ。


癖。というよりかは、ルーチンと言った方が適切かもしれない。


Question:

朝起きたらまず、貴方は何をしますか?


Answer:

私は瞼を擦ります。


誰もいない部屋に消えた「おはよう」という私の挨拶に、どこからか反応する声があった。


「おはようございます、市民リアン」


落ち着いた、女性的な柔和な声。


聞いた者が不安になることのないよう調整された音声が、私の部屋に静かに響く。


[collating(照合中)]

99.99999999......%


[vital sign]

check vital [Temperature《体温》, Respiration《呼吸速度》, Pulse《脈拍》, blood pressure《血圧》]

■■■■■■■■■■100%


[complete!]



「本日、中東洋区の天気は曇り。外気温は二十二度です。少々肌寒いと思われますので、外出の際には羽織れる物を持ってお出かけになるのがよろしいかと思われます」


音声は私の健康を気遣って、今日の気候に適した服装を提示してくれる。


とはいえ、私の基本の服装は仕事着だ。気候に応じて簡単に服装を変えることはできない。しかし声の主はもう一枚何かを羽織れと、お節介にも私に進言する。


私はそれを軽く聞き流すと、くあ、とひとつ。小さく欠伸をした。



「本日の予定を確認いたしますか?」


>no_



「いいえ、大丈夫」


私は首を横に振る。この動作に意味はないが、これも癖みたいなものだ。


「了解いたしました。本日も、貴方にとって幸福な一日でありますよう」


そこで音声は静かに途切れ、再び部屋に静寂が訪れる。


なんのことはない。私の[おはよう]をキーにPALS(パルス)が起動し、その機能を実行しただけだ。


PALS ―― [Personal AI for Life Supporting《健康維持支援装置》] ――


読んでそのまま字の如く、人々の健康を支援するためのパーソナルAIである。


パーソナルとは言うものの、別にそれぞれに異なった人格を有したりしているわけではない。


ただ単に、利用する個人それぞれに適した形に機能がカスタマイズされているというだけだ。


私が AM:08:45:00 に目が覚めること、朝の挨拶をキーに健康状態がチェックされること、さらに毎朝天気と天候を律儀に教えてくれるのも、私がPALSの機能をカスタマイズした結果に過ぎない。


「今日も一日、幸福ね……」


最後の挨拶を除いては。


意味もなく、私はPALSの台詞を繰り返す。


幸福は市民の義務。


そう、幸福は市民の義務……。


病気という概念が消失し、事故も、事件も、その殆どが淘汰された世界において、市民が果たすべき義務は幸福であること、それだけだ。


50年以上前、私が生まれるその以前から、世界は幸福だった。


教育や勤労までもが義務であった世界は、既に遠い昔の話である。


……正確には、義務である必要がなくなった、と言うべきなのだろう。教育や勤労を強制されることはないにせよ、その努めを果たさない人間もいない。それは皆、均等に与えられた権利として当然のように享受する類のものになった、と聞いている。


教育を受けることも、労働も、すべては幸福に繋がる重要な要素ファクターであり、権利なのだ。


隣人を愛し、道ですれ違う名前を知らない友人を思いやり、顔の見えない不特定多数の感情を気遣うこと。


究極のホスピタリティ、優しさ、無償の善意。それこそが、人間の果たすべき最大の義務である、社会の幸福を達成しうるのに必要なものだ。


真に社会のあるべき姿。


そのために必要な要素は全て達成するように努めることが、人としてのあるべき姿なのだから。


この世界における義務とは、ただ幸福であること。それだけ。


たったひとつ、それだけだ。



>reminiscence

check memory["露城 リアン".log , #timestamp:2xx6-06-18 13:52:27]



幸福な社会。


それが社会共通の認識だった。


超健康化社会。私たちより未来の人々は、この世代の社会をそう呼ぶことになるでしょう。


貴方たちは地球の歴史上、もっとも幸福な社会を生きることになるんですよ。


中学校の社会の授業、現代社会の単元で教師がそう語っていたのを、ふと思い出す。


先生、未来ってどれくらいですか?


クラスメイトの少女が、手を挙げて発言する。


発言する際には挙手をすること。それが美徳になったのは、一体いつの時代からなのだろう。


そうですねえ、あと十年もすれば教科書にも載るんじゃあないですか。そう私は思いますよ。


少女の質問に、いや、授業を聞く態度にか。どちらでもいいが、気を良くした教師は大きく頷いた。


十年後だって。


私もう大人だよ。


その言葉を受けた教室からは、ぽつりぽつりと声が上がった。


君たちは過去のどの時代よりも幸福な時代を生きています。私が若い頃よりもずっと。


教師が右手を胸に当て、雄弁に自分の昔話を始めるのを見ると、生徒たちがにわかにざわつき始める。


いつもの癖だ。社会科の、やや頭の禿げあがった中年教師。別に悪い人物ではないのだが、授業中に自分の話を持ち出す癖があった。大抵は、まだ彼が若かったころの昔話だ。一言目は決まって、私がまだ若い頃……。


私の知人にも、こういう大人がいる。つまり、私たちくらいの若年者に対して、一昔前の苦労話を聞かせる大人、ということだ。これは、社会科の教師が特別そういう性格であるというよりも、世間の大人は程度こそあれ、こういう一面を持つということなのだろう。と私は勝手に思っていた。


私がそんなことを心の中で思っている間にも、教師の話は続いていく。


昔は治せない病気がいっぱいあったし、犯罪や事故も多かった……。


知っていますか? 昔は交通事故、――車両同士が接触した際の罰則や規定が非常に多かったんですよ。なぜかって、昔は自動車を人間が運転していたからですね。自動車事故の責任は、自動車の製造主ではなく運転していた人間がとらなくてはならなかったのです。それに、PALSがなかった時代には、体調管理は自分でしなくてはならなかった。病気の診察も、薬の処方も人がしていましたし、医師という職業は、昔はこういう人たちのことを指していたのです。


不治の病という言葉がありますね。昔は冗談でも何でもなく、言葉そのままの意味として使われていました。治らないとされていた病気のことです。特定疾患、または指定難病とも呼ばれていましたが……。


不治の病だって。


僕が社会苦手なのも、不治の病ですか?


あははは!


教室の隅から笑い声が上がる。普段から騒々しい男子のグループだ。声がよく通る。


いつの間にやら、教室を満たすざわめきは増しており、無視できない音量になっていたらしい。


……そこ、静かに。


徐々に大きくなっていた教室の雑音が、しん、と静まった。


教師も、自らの話が脱線し始めていることに気が付いたようで、こほん、と小さく咳ばらいをする。


えー、まあしかし、皆さんも知っての通り、現代の医療技術では治療することのできない病はまずありません。


これも、医療技術の飛躍的な進歩、ひいては健康維持支援装置(PALS)のおかげ、というわけですね。


ということで、今日の授業は健康維持支援装置(PALS)と、それに関するPALS技術者、紫藤アマネについてのお話を……。



>end_



そこで、露城リアンは我に返った。


教室から自室へと意識が帰る。


「準備しなくちゃ……」


思い出に時間を取られたので、少し急ぎで支度をする。


グッと両手を伸ばし、簡単にストレッチをすると、ベッドから足を下ろす。


腕時計ウェアラブルを確認すると、起床からゆうに30分以上が経過していた。シャワーを浴びる時間がないことを確認し、部屋着をベッドへ脱ぎ捨てる。仕事着である深青色のジャケットとスラックスに着替えると、昨晩の内に用意しておいた、珈琲デカフェの入ったボトルとサンドイッチをテーブルから摘み上げた。


健康な生活は朝食から。


つまり健康で幸福な市民にとって、朝食は義務。


長くない廊下を足早に歩きつつ、ボトルとサンドイッチをショルダーバッグに押し込んだ。玄関に規則的に並べられた革靴の中から、最も汚れと傷の少ないものを選び、つま先を入れる。


「車の中で食べれば……、間に合うかな」


とんとん、と革靴の底を鳴らす。玄関の壁に親指と薬指を押し付け、そのまま指を広げるようにスライドすると、壁の上に一枚の透明なスクリーンが出現した。もちろん、本当に物理的なスクリーンが現れた訳ではなく、PALSの待ち受け画面が壁の上にポップされたのだ。私たちは、PALSの恩恵を受けて様々な情報に瞬時にアクセスすることができる。たとえば、現在時刻と交通情報だって、こんな風に。


時刻、九時十九分。


自宅から職場までの渋滞、なし。


「よし、いってきます」


一瞬立ち止まり、家の中を振り返る。


別にPALSから返事が返ってくると思ったわけではなく。


これもそう、習慣。


言ってしまえばただのルーチンであって。



Question:

貴方は家を出る前、なにを確認しますか?



Answer:

私は――以下略。



そうして私は、いつも通りに家を出た。



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