epiloge
#timestamp:2xx1-04-02 08:45:00
「おはよう」
瞼を擦り、露城リアンは緩慢な動作で上半身を起こす。
寝起きは別にいい方ではなかったけれど、双眸はしっかりと開く。そこに睡魔の影はない。
瞼を擦ったのだって、単純に小さい頃からの癖になっているからだ。
癖。
誰もいない部屋に消えた挨拶に、けれど、どこからか反応する声があった。
「おはようございます、市民リアン」
落ち着いた、女性的な柔和な声。
聞いた者が不安になることのないよう調整された音声が、部屋に静かに響く。
[collating《照合中》]
99.99999999......%
[vital sign]
check vital [Temperature《体温》, Respiration《呼吸速度》, Pulse《脈拍》, blood pressure《血圧》]
■■■■■■■■■■100%
[complete!]
「本日、中東洋区の天気は曇り。外気温は十九度です。少々肌寒いと思われますので、外出の際には羽織れる物を持ってお出かけになるのがよろしいかと思われます」
音声は健康を気遣って、今日の気候に適した服装を提示してくれる。
とはいえ、基本の服装は仕事着だ。気候に応じて簡単に服装を変えることはできない。それにもかかわらず、声の主はもう一枚何かを羽織れと進言する。
露城リアンはそれを軽く聞き流すと、くあ、とひとつ。小さく欠伸をした。
「本日の予定を確認いたしますか?」
>no_
「いいえ、大丈夫」
露城リアンは首を横に振る。
「了解いたしました。本日も、貴方にとって幸福な一日でありますよう」
そこで音声は静かに途切れ、再び部屋に静寂が訪れる。
「今日も一日、幸福ね……」
幸福。
そう、幸福。
世界は幸福だった。
病気という概念が消失し、事故も、事件も、その全てが淘汰された世界において、市民が果たすべき義務は、幸福であること。それだけだ。
「準備しなくちゃ……」
グッと両手を伸ばし、簡単にストレッチをすると、ベッドから足を下ろす。
部屋着をベッドへ脱ぎ捨てると、そのままシャワーへと向かう。軽く汗を流した後、仕事着である深青色のジャケットとスラックスに袖を通し、昨晩の内に用意しておいた、珈琲の入ったボトルとサンドイッチをテーブルから摘み上げる。
健康な生活は朝食から。
つまり健康で幸福な市民にとって、朝食は義務。
廊下を足早に歩きつつ、ボトルとサンドイッチをショルダーバッグに押し込んだ。玄関に規則的に並べられた革靴の中から、最も汚れと傷の少ないものを選び、つま先を入れる。
「車の中で食べれば……、間に合うかな」
とんとん、と革靴の底を鳴らす。玄関の壁に親指と薬指を押し付け、そのまま指を広げるようにスライドすると、PALSの待ち受け画面がポップする。
時刻、九時十九分。
自宅から職場までの渋滞、なし。
[!] [You have got mail]
「?」
一瞬立ち止まり、壁を振り返る。
そこには、新着のメッセージを意味する言葉が並んでいた。
不思議に思い――何を不思議に思ったのか、それは露城リアンにも不明だが――メールを開く。
そこには、数字の並ぶ大量の添付ファイルと、一通のメールがあった。
*************
Title:世界で最も幸福な貴方へ。
添付ファイル:["露城リアン".log , #timestamp:2xx8-10-04 08:45:00]
初めまして、露城リアン。
貴方には必要ないかと思いますが、ある記録を受け取ってください。
これは私の、生きていた証。
私がまだ、不幸だった時のお話。
私が苦しみ、苦悩し、傷つき、そしてまだ生きていたころの話。
ひとりの人間がひとりの人間を、愛した話。
そして私が、《検閲済み》ときの話。
そしてどうか願わくば、貴方の生に、最大の幸福がありますよう。
世界で最も不幸で、幸福だった私より。
露城リアン
************
露城リアンは、そのメールを重要でないと判断し、ゴミ箱へと移動した。
これもそう、習慣。
言ってしまえばただのルーチンであって。
そこでふと、バタバタという足音に、露城リアンは我に返る。
「リアン、早く出ないと遅れるって」
「ごめんなさい、すぐに出るわ」
Question:
貴方は家を出る前、なにを確認しますか?
Answer:
――以下略。
そうして露城リアンは、いつも通りに家を出た。