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いつも通りの朝。
いつものように起床し、いつもの通りに準備をし、いつもの通りに車に乗り込んだのだが、いつもと違うところが一か所だけ存在した。
違和感が。
サンドイッチからはみ出したレタスの端を指で摘み、捨てるか捨てないかで逡巡していた時のこと。
浅黄色のスーツを着た、司会者が今日はいない。
私は大抵、毎朝をルーチン通りに過ごしている。――いや、大抵の市民は生活アドバイザーによる生活指導を受けていることもあり、ルーチン通りの生活をしているのは私に限った話ではないのだけれど――、私が朝の通勤時、車内で見るパブリック・ショウのチャンネルは、いつも通りの同じもの。いつものニュース番組、その司会者が見当たらない。
指先で弄んでいた菜っ葉をトラッシュ・ケースへと放り、PALSを起動する。
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「事故、病気……。情報は特に出てこないわね、休み……? 上長なら何か知っているかしら」
司会者についての情報は何も出てこない。急な休みの可能性はあるが、それならば何かしらのアナウンスがあってもおかしくないのだけれど。最近はメディア方面には携わっていなかったので直接情報は入ってこないが、職場の誰かに聞けばわかるだろうか。
それとも。
保温容器の口を捻ると、暖かい珈琲の香りが車内を満たす。小さく息を吐けば、緊張した体からゆっくりと力が抜ける気がした。別にそこまで気にする必要はない、ここ数日トラブルが続くせいで、多少の違和感に敏感になっているだけだ。
そう考え、唇を湿らせる。舌に広がる渋い苦みが、歪んだ思考のベクトルをリセットしてくれるような気がして。
「おはよう」
「主任、おはようございます」
オフィスに着くと、そこには既に新堂がいた。いつもの光景だ。
「おはよ、主任」
その隣にはアト。小さく手を挙げて挨拶を返す。
「主任、お客様が」
「お客……?」
思わず首を傾げる。こんなところまで来る客に心当たりはないが。
「|青少年観察・及び支援課(Juvenile Observation and Support Secttion)のグエン・トーア主任です」
新堂の陰、事務椅子から立ち上がる影があった。
スラっと伸びた長身に、赤みがかった長髪。つい先日あったばかりのトーアだ。
ただし、表情からは昨日のような飄々とした態度はない。予め新堂から名前を聞かされていなければ、よく似た別人だと思ったかもしれない。その目は腫れて瞳は充血しており、何かがあったことだけが明白だった。
「知ってることがあればすべてを教えてくれ」
「どうしたの、藪から棒にッ……」
彼女の大きな手に、肩をがっしりと掴まれる。見た目に反してその力はか弱い。私が言葉を続けられなかったのは、彼女と目が合ってしまったからだ。
深い哀しみと焦燥。目が充血しているのは、泣き腫らしたから……。
「ジェフが倒れた。朝から起きてこないんだ」
「倒れたって」
おそらくではあるが、ジェフも昏睡を。
「ジェフの状態は」
「息はしてる。意識だけがない、昏睡状態なんだ」
新堂は、トーアの態度からおおよその状況を察していたのだろう。二人は伏し目がちに俯いた。
そう、とだけ答え、私は唇を噛んだ。私は嫌に冷静だ。諦観、と表現するのが一番かもしれない。
私や新堂よりも先にジェフが昏睡したのには、おそらく理由がある。そして、その理由もなんとなくわかってしまっていた。
私は努めて冷静に。少なくとも、周囲からはそう見えるように口を開く。
「そんなに心配することではないわ。数日もすれば、目を覚ますから」
「他人事だと思ってッ……」
「そういう訳じゃないのよ。昏睡した人たちは、徐々に回復してるの。ジェフも言ってたでしょう。だからジェフも、きっとそのうちに――間違いなく回復するわ」
そう私は断言する。脳(brain)に接続し、PALSを介して生活する人間は、必ず。
「……何か。何か、わかったんだな。昨日、紫藤アマネについて質問してたけど、関係あるんだろ?」
「そういう訳ではないわ。ただ、脳(brain)とPALSの本当の機能について知っただけ……」
私は力なくそう答えた。それ以外、何と答えればいいのかわからなかった。
新堂は、どういうことです、と席を立つ。声こそいつもの様に落ち着き払っているが、私を向いたその表情からは、少なくない動揺が読み取れた。
アトは、何も言わずにただ、椅子に座っている。背もたれに体を預け、静かに耳を傾けているだけだ。
「PALSはね、人類の管理システムなの。人類が存続するための」
「それはそうでしょう。そういうものとして設計されているんですから」
困惑したように、新堂が口を開く。
私はゆっくりと、首を横に振った。
「そういう意味じゃないわ。もっと根源的な部分の話よ。PALSと脳(brain)は、文字通り人間を管理するための装置なの。人間ひとりひとりの記憶、意思、行動を管理して、効率よく維持するための装置」
「私たちがそうしているようにか」
私はその言葉には応えず、言葉を続けた。
「例えば、愛する家族を傷つけてしまった。他人から心無いことを言われて、精神的ショックを受けた。毎日が楽しくない。閉塞感を感じる。こういうとき、人間ってどういう行動に出ると思う?」
「そんなの」
トーアはそこまで口を開いて、困ったように固まってしまった。口を何度かパクパクと開閉し、続く言葉が出ずに、口を閉ざしてしまう。
「いろいろあるだろ。それこそ、家族と話すとか」
「家族に問題があっても?」
「趣味だってあるだろ」
「最も一般的な趣味って、何か知ってる?」
「それは」
トーアも知らないはずがない。今を生きる人類に、趣味などないということを。
規制の下、優しさの下。
制限されすぎた世界に、娯楽などないことくらい。
「主任、そろそろ。主任の知った、PALSの本当の機能について教えてくれませんか」
新堂のその言葉は、トーアのことを気遣ってというよりは、単に話を先に進めたかったからだろう。
私は小さく頷くと、ゆっくりと口を開く。
PALSについての、真相を。
「追い詰められた人間が真っ先に取る行動は、死ぬことなのよ」
「そんな馬鹿な。そんなこと」
有り得ない。そう言いかけたトーアに割って入るように、私は口を開く。
「それが十分、あり得るのよ。現在における死因の一位は、圧倒的に自殺なのだから。人類はもう、そういう段階に入っているの」
だから、と私は付け加える。
「その将来的な自殺を食い止めるための装置、社会システムこそがPALS、そして脳(brain)の本懐」
人類の減少を防ぐため、絶滅を防ぐため。自殺を未然に防止するためのシステム。
PALSは人類をスリープモードにし、脳(brain)がバックアップから人類を復元する。
「つまり、自殺を防ぐため。ひいては人類を効率的に管理するために、定期的に人間をバックアップする社会システムなの。定期的に人類を昏睡させ、その間に脳(brain)に保存されている記憶や人格、その中からネガティブな要素を排除したモノだけをバックアップし、再起動する。そうすることによって、社会には常に幸福な人間のみが誕生する」
人類の人類による人類のためのシステム。
それはきっと、世界や時代が違えば、理想郷と呼ばれる類のモノ。
その話が正しければ、とトーアは言う。
「ジェフは自殺しようとしたから昏睡させられたっていうのか。ジェフはそんな奴じゃない。そんなことで死ぬような人間じゃない」
「多分もう、自殺を考えているとか、いないだとか。そういう次元の話じゃなくなっているのでしょうね。昨年まで偶発的に発生していた昏睡こそが、自殺の防止と考えるべきだった。自殺者数が増加し続ける状況を見て、全人類をアップデートするべき段階に入ったとでも言うべきなのかも」
実際のところはわからない。
ジェフが自殺をまったく考えていなかったかどうかなんて、誰にもわからないのだ。
それこそ、PALSと脳(brain)以外は。
私だって、これまでの人生。一度だって死にたいと思ったことがないかと聞かれれば、おそらくそんなことはないのだから。
「だとしてもだ、人類を守る? その結果がこれじゃ、意味ないじゃないか。人を守るために人そのものの意思を無視するなんて」
「確かにそうかもしれないわ。でも、もうそんなことを言っている状況では、言っていられる社会ではなくなってしまったということなのかも。あるいは」
その価値観自体が、古いものになってしまっている。
人間が自動車を運転することがなくなってしまったように。
人間が自身の健康を管理することがなくなってしまったように。
次に人間が機械にコントロールを委ねるものが、人生になってしまったというだけの話。
「だからジェフは、別に死んだわけではないの。数日後には目覚めるのよ」
PALSによって再生された、ジェフリー・ガブラという、人類と社会の一部として。
そしてそれは、私も例外ではない。
明日の自分が記憶だけを受け継いだ別の私になっている可能性は、ゼロではない。
それを確認する方法はない。それは別に、今までもそうだったのだけれど。
睡眠による精神の連続性と明確に異なるところは。
哲学ではなくシステムである、ということだ。
つまりそれは思考上の解釈や、言葉遊びなどではなく。
いずれ必ずわが身に起きることであり。
例えるならば、いつ執行されるのかわからない、死刑を宣告されているようなもの。
「昨日まで、笑って、泣いて、愛していたのに。明日からは機械に再現された別人です、なんてことを、受け入れろっていうのは無理がある」
トーアの言うことは理解できる。一緒に生活していた人間が、明日から急にイミテーションへと変わっているかもしれないのだ。
誰しもいずれその日が来る。トーアの場合は、それが今日だったという話。
「一応、記憶や肉体、思想から思考までもが全く同じ人間よ。逆に、同じじゃないところを探すのが難しいくらいだと思う。ただ、人間の脳が、一個人が、魂が。喜怒哀楽を電気信号として肉体に与えるのと、PALSが電気信号を通じて肉体に喜怒哀楽を伝える。それだけの差……。それだけの違いなの」
「わかってるさ。アタシだって。でもそれはもう、人間じゃない。人間だったモノだ。記憶や過去の行動、経験から仮想的な人格を与えられた人形だろう、それじゃあ」
「わたしたちがそうじゃないという根拠は、最初からどこにもないのよ。私たちだってそう。自分で決めて、考えて、行動してる。そう思い込んでるだけの人形じゃないっていう根拠はどこにもないのだから」
「詭弁だよ、それは」
トーアは哀しそうに嗤う。一筋の雫が頬を伝った。
彼女はまだ、泣くことができた。
「アンタは、どうするんだ」
「どうしようもない、と思うわ。この一連の騒動は別にテロでもなんでもない。もちろん、今から脳(brain)やPALSを停止する、という考えもなくはないでしょうけど、それこそ明確なテロ行為になってしまうし」
これは言うならば、システムのアップデート。
人類Ver1.2
人類は苦しみや哀しみから解放され、感情に悩まされることはなくなりました。
今後、人間が自ら思考する必要はありません。
人間がより幸福に生きるため、思考や感情はPALSが制御することになりました。
なんて。
あるいは進化と呼ばれる類のもの。
または麻酔か。
人類の死を防ぐため、意思を遮断する拮抗薬。
「人類の幸福を守る立場の私たちが、独断でどうこうしていい問題ではないわ」
私たちは、今まで通りに生きるだけよ。
私がかろうじて、彼女に絞り出すことができたものは、その言葉だけだった。