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「何読んでるの」


タブレットの文字を追っていると、背後から声を掛けられた。椅子に座った私の右肩から瞳が覗き、揺れる金髪が頬をくすぐる。


「あ、紫藤アマネの伝記? 懐かし」


昔授業でも読んだよね、とアトは私の持つタブレットに手を伸ばす。


「善性を嫌った孤独の天才」


「なあに、それ」


冗談を笑うように息を吐き、私は首で振り返る。しかし、そこに想像していたようなアトの表情はなかった。普段の明るさは鳴りを潜め、空虚な視線はタブレットのその先、どこか遠い場所へと向けられている。


私は何と言葉を返せばよいのかわからずに、湿度を失った笑みを続けた。


「私から見た、紫藤アマネというその人。その感想、とでも言えばいいのかな。私、学生の頃のゼミで、紫藤アマネについて論文を書いたことがあって」


初めて聞いた話だった。ただ、紫藤アマネについて論ずるというのは、別段珍しいことでもないだろう。


近代史の中では最も人気があり、最もテーマになりやすい人物だ。


「私、紫藤アマネのファンだったから。彼女の伝記、彼女の書いた論文、手記、手帳、日記。当時はあらゆる手段を使って読み漁ってた。読めば読むほどに好きになってた」


映像や音声のメディアも集めてたんだ。ほとんどは検閲されてて見られなかったけど。


当時を懐かしむように目を伏せぽつりと呟くと、彼女の長い睫毛が瞳に影を落とした。


伝記や論文は一般にも公開されているはずなので、一部を除けば誰でも読むことができるはずだ。ただ手記や手帳、日記なんかはそうはいかないだろう。そもそも、そんなものが残っていることさえ私は知らなかった。


ふと、ジェフとの会話を思い出す。


古本屋オールド・ストアね」


人差し指を立てた私に、そうだね、とアトは微笑む。


その笑みには、私の正解に対する感情とは別に、よく知ってるね。というニュアンスが含まれているようにも取れた。


「今は結構潰れちゃったけど、ちょっと前はそこら中にあったから。あとは有志のグループがあって、PALSに引っかからないように紙の本(アナログ・メディア)で配ったりもしてたんだ」


当時を思い出してか、照れくさそうに笑うアトを見て、私はほっと胸を撫でおろす。


彼女にはこちらの方が似合っている。


彼女には笑顔の方が。


「それで、善性が嫌いっていうのは」


「紫藤アマネは、人が嫌いだったみたい。正確には、人の親切心とか、そういうの。他人が他人を思いやらなければ成立しない世界、みたいなものが嫌いだったんだと思う」


私が言うべきではないが、その考え方は理解できる。ただ、そんなことを表立って発言することはできなかったに違いない。他人に相談もできなかったはずだ。そんなことを相談した人間がどうなるかなんて、私たちは嫌というほど知っている。


「それでも紫藤アマネは人間。いや、人類は好きだったんだ。だからPALSの研究に人生を捧げたんだって。そう、日記や手記に書いてあった。そんな紫藤アマネが、私は好きだったんだ。まるで私みたいだなって」


今考えると、私も思春期だったなって思うけど。


憧れの人物と自分を重ねるなんてさ。


そう言うと、アトは微かに微笑んだ。その表情に、思わず私も笑みを溢す。



「ところで今回の事件、何かを思い出しませんか」


いつの間にか、背後に立っていた新堂がそう口を開く。


アトが「わお」と声を出して驚く。私もいくらか驚いたけれど、ここは人間観察課のオフィスだ。新堂がいても、何も不思議ではない。


それよりも、今の新堂の発言に、引っかかる点があった。


不特定多数の人間が意図的に昏睡させられる事件。


PALSを悪用される危険性が浮き彫りになり、BASSが設立される契機になった事件。


私とアトは、同時にある名前に辿り着いた。


「紫藤アマネね」


「……大自殺スイサイド


私とアトが、ほぼ同時に口を開く。


その事件を引き起こした張本人と、その事件の名前を。


私はちょうど、手にしていたタブレットでページを開く。


紫藤アマネによる、史上最悪の大犯罪を。


「ええ、PALSと脳《brain》を利用した最初で最後の大規模テロ事件です。死亡者こそ出なかったものの、PALSの本質的な危険性が認知された事件でもあります」


大自殺スイサイド。PALSの育ての親とも言える偉大な技術者、紫藤アマネによる、多数の人間を自殺未遂に追い込んだと言われる前代未聞のテロ事件。


紫藤アマネはこの事件の動機や意図に関して一切を語らなかったが、研究者としての好奇心に抗えずに引き起こされた人体実験だったのではないか。或いは、神の領域への挑戦であったなどと、様々な説がまことしやかに囁かれている。


またその手法については、PALSを用いてノルアドレナリン神経作用を低下させることによって、意図的に自殺衝動を生み出したのではないか。など、真実味を帯びるものから冗談にも取れないようなものまで、様々な説が提唱されているが、真実は明らかになっていない。


この事件に関しては、紫藤アマネ一人によって行われた事件であることや、紫藤アマネ本人が拘束直後に急逝してしまっていることなどが絡み、全容が闇の中なのだ。


この死に関しても、自殺や秘密裏に処刑されたなど、さまざまな憶測が飛び交っており、何一つ正確な記録が残っていない。当時はまだ記憶ログを保存していなかったため、本人が死んでしまってからは何も調べようがなかったのだという。


この事件をきっかけに、脳《brain》による市民の記憶ログの保存と、その管理が行われるようになっていった。


表面上は、市民の更なる安全のため。精神状態、健康状態の管理のため。


その実は、市民の監視と、管理のために。


優しい世界を守るために。


「でも事件が起きたのは20年近く前でしょ。それに、当時のことを知ってる人間は、一般市民はもちろん、国際福祉監査機関《IAWA》の人間にも多くないはずだけど」


私も、人間観察課《BASS》に着任して初年度の研修で初めて聞いた事件だった。紫藤アマネの名は、教科書に載っている近代で最も有名な偉人というイメージしかなかったため、大きな衝撃を受けたことを覚えている。


今読んでいた紫藤アマネに関する伝記だって、一般には流通していない状態のものだ。国際福祉監査機関《IAWA》でも、権限がなければ閲覧できない。それを無理言って、ジェフに貸してもらった。


「身内に、紫藤アマネの模倣犯がいるということかしら」


「そういう訳ではないですが、紫藤アマネの意思が生きていないとは限りません。IAWAの中には、紫藤アマネを崇拝している人間も少なくないですから」


私はちらりと目だけで隣の少女を見る。意識してか、無意識にか。彼女は私からも、新堂からも目を逸らした。私の視線は新堂に気づかれることなく、彼はそのまま話を続ける。


「或いは紫藤アマネに後継者がいて、その人物が彼女の代わりに何かを実行している、ということは十分あり得るのではないですか」


「まさか」


有り得ない。


アトが即座に否定する。


「もしかしたら、紫藤アマネが生きているのかも」


「ええ、リアンちゃん……。主任もそっち側なの」


アトは半ば呆れ気味に、肩を竦めやれやれと首を振った。


半分冗談、半分本気といった具合に。


「別に幽霊の存在を信じているわけではないわ。だけど、紫藤アマネが作った遺伝子プログラムが生きている可能性はあるってこと。PALSは彼女が育てたのだし」


はあー、と大きく息を吐きながら、アトが椅子へともたれかかった。


新堂も、疲れた顔で頬を掻く。


いやまあ、半分は冗談ですよ、と彼は力なく笑った。


「今日はここまでにしましょう。明日は解析されたデータから、何か手掛かりがないか、地道な作業ね」


と。


そこまで言いかけ、ふと一つの閃きが頭をよぎる。


ハンマーで後頭部を殴られたような衝撃に、思わず額を抑え込んだ。


「どうしたの、リアン。大丈夫?」


「主任、やはり最近無理をしすぎなのでは?」


心配そうに顔を覗き込むアト。


やや呆れ気味に顎に手をやる新堂。


そんな中、金色の双眸が、私の瞳を覗き込む。その瞳の中に、私がいる。


私は小声で、彼女にだけ聞こえるように、小さく囁いた。


「アト、紫藤アマネの手記や手帳ってまだ持ってる?」


「多分持ってるけど、なんで?」


不思議そうなアトを前に、私はなんとか唾を飲み込むと、ふらつく頭を起こす。不審がる新堂に、いつものことよ、と笑って場をごまかす。


私の考えが間違っていなければ、そこに答えがあるかもしれなかった。


「今日、アトの家に行ってもいいかしら?」


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