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夢を見ていた。
夢。将来の展望のことではなく、睡眠中に見る夢のことだ。睡眠中に大脳皮質や辺緑系が刺激されることによって再生される、記憶の映像。
彩度の薄い、モノクロームのフィルタ越しのような映像が、私の記憶を映し出す。古ぼけた映写機で投影される映像のように、記憶はしきりにぶつぶつと途切れ、ザアザアという雑音が情報量を落とす。
私はスクリーンの前に座っていた。その映像から目を逸らすことはできない。しっかりと開かれた瞼は小さな瞬きすら許されず、そこで私は「ああ、この映像は夢なのだ」と気が付いた。気が付いたからといって、私にはどうしようもない。私は眼前で再生される映像を、抗いもせずにじっと見ているしかなかった。私がまだ七歳だった頃の映像を、二つの瞳がじっと見つめていた。
昔の記憶は覚束ない私だが、この映像は私が七歳のときのものだと確信を持てる。
理由は単純で、記憶に出てくる私が晴れ着を身に纏っていたからだ。東洋の血をその身に引いた、私たちのような一部の人種のみが受け継いだ風習。或いは年中行事とでも言うべきなのか。
その催しがどういったものかなど、今となっては最早どうでもいいのだけれど。
ただその記憶に出てくる私の姿が、最初で最後の晴れ着を身に纏ったものであったから。そう確信できるというだけなのだ。
慣れない着物姿で親族に囲まれ、居心地の悪い思いをしながら愛嬌を振りまいている少女。幼いアルバムの一ページが、私の意思とは関係なく捲られていく。
私は、その記憶の映像を眺めることしかできない。
記憶の少女は、その見た目とは裏腹にいかにも不機嫌そうだ。いや、これは私だからわかることなのか。
どちらにせよ、お世辞にも年相応の可愛さと言ったものは見受けられない。ただ、馬子にも衣装とはよく言ったもので、仏頂面が板についた私であっても、可愛らしい着物の間だけは年相応の少女のように見えた。
思えばあの頃から私は捻くれていて、それでいて嫌に賢しい子供だった。
窮屈な衣装に見慣れない大人たち。早く家に帰りたいと願いながらも、両親とその親族の機嫌を損ねないよう、精一杯の引き攣った笑顔で振舞う子供の画がそこにはあった。
記憶の中のその少女は、棒状の飴を手にぎこちない笑顔を作っていた。自然に出たものではない、引き攣った笑み。張り付いた表情があまりにも不細工で、私は呆れて笑ってしまう。もしこれが映像作品なら、私は酷い役者だろう。
少女が手にしている飴。あれは確か、千歳飴という名前の棒状の飴。ゆうに三十センチはあろうかというその細長い棒状の飴を、私を含めたその場の少年少女は、年頃の子どもらしく皆がにこにこと――少なくとも表面上は笑顔で――頬張っていた。今となってはそんな光景は考えられないが、当時はまだ、多少は社会が寛容だったということなのだろう。
その中で、親戚の少年のひとりが飴の先端を尖らせて遊んでいた。髪を短く切りそろえた、いかにも活発そうな少年だ。残念なことに、彼が誰なのかまではわからない。私が記憶していないのか、あるいは存在しないのか。
彼は誰だろう。そんな疑問への答えは当然ない。ただただ淡々と、少年少女が砂糖の塊を頬張る映像が続く。
唐突に私の目が、それを捉える。唾液で濡れた先端が艶やかに光を反射し、少年の無邪気な笑顔とは裏腹に、突き出された矛先に私は恐怖する。冷えた汗が、つう、と背中を伝うのがわかった。
飴。
舌で研磨され、唾液によって形成された凶器。人ひとりくらいなら簡単に刺してしまえそうな、鋭利な槍。
私はその先端から目を離すことができない。
心臓が音を立てて私に警告する。
子供という小さな社会において、その遊びは簡単に伝播した。少年が口内でこしらえたそれを披露すると、親戚の子供みんながこぞって真似をした。
口を切るのでやめなさい。
子が各々の親に叱られているとき、映像の中の少女も同じように槍を作っていた。
がり、という音がする。
口腔内で発生し、頭蓋に響いたような音がする。
何かにせかされるように奥歯で飴を削り、粗削りに打製された小さな凶器。
その時の私は、子供の輪に溶け込もうとしていたわけではなく。
ましてや、飴で槍を作りたい、なんて。そんな純粋さに支配されたわけでもなかった。
いや、純粋ではあったのかもしれない。
純粋な好奇心ではあったのだけど。
それは子どもらしい腕白で純真な好奇心さではなく。
もっと原始的で。
猟奇的で醜悪な好奇心。
ぶつり、という感触とともに鉄の味が滲む。鋭利な先端が舌に食い込み、赤い雫が飴を伝った。嫌悪感を催す生臭いにおいが口全体に広がって、喉元に突き付けられた刃の硬さを、柔らかく舌が感じ取る。これ以上の力が加われば、咽頭程度なら容易く貫くであろうことも。
血と砂糖の味を感じるように。
暴力と死を感じ取れた。
唾液で鈍く照り返す槍が頸椎を貫通し、脳幹に傷をつける。そんなイメージが、脳裏に浮かぶ。
イメージは花火のように、ちかちかとまぶたの裏を焼いた。私の背筋を、何かが駆け上がる。
子供の握力で、こんなちっぽけな刃がどこまで届くかわからない。ただ、その先に待つものを想像する。
その先に待つものを。私は想像する。
もし、仮に。
誰かがぶつかってきて、勢いのままに、事故が起きたら。
飴を手にしたまま石畳に躓いて、飴が喉奥を押す感触を。
何かの拍子に、手元が狂って。
人間は、本当にそんなに簡単に。
そんな考えが頭をよぎる。
私の両親は、きっと知らない。考えもしない。
そんなことを、私が考えていることを。
両親だけじゃない。親戚も、周囲の子供も、友達も、知らない大人も、子供も。
この世界の誰もが。
私は舌の上をなぞる飴を持つ手に、ゆっくりと力を込めた。
垂れた雫が、飴を伝って爪を濡らした。灼けるように熱いその雫を、私は拭わない。
遠巻きに私を眺めていた両親が、不思議そうに手を振った。画面越しの私は、曖昧な笑みを返すだけ。
私はそれ以上手を動かすことができずに、力なくだらんと腕を下ろした。槍の先が、それ以上肉の壁を貫くことはない。
温度を失った雫は、そのままぽたりと落ちる。鈍い色の小さな染みは、地面に吸い込まれるとすぐに消えた。
私ははたと、口がカラカラに乾いていることに気が付いた。夢の中では、唾液すらうまく呑み込めない。
喉の鳴る音だけが、嫌に大きく耳に響く。
映像は徐々に歪み、はじめに匂いが、そして音が消えた。最後に映像がぐにゃりと歪み、そこで世界が消えた。ぼうっとした意識の中、定まらない視点で地面を見つめると、未だにそこに、あの鈍い染みがある気がした。
結局のところ、こんなイメージを私が最後まで実行できたことは、一度だってない。
それはこの私の存在が、一番の証明になっているのだけれど。
でも未だ、そんな考えだけは捨てられないでいて。
こんな風に、夢にだって見る。
私は思う。
私はこのときからずっと、何も成長していない。
間違っていたのは、ずっと私の方なのだ。