一輪の菊
──武雄さん……もうよしましょう……これ以上は……
早苗の最後の声が聞こえた。爺が目を覚ますとそこはいつもの自分の部屋だった。
ゆっくりと体を起こし時計を見る。まだ朝日も登っていない時間だ。薄暗い薄墨で描かれたような世界で床の間に飾られた菊の掛け軸を見つめる。
何年たっても変わることのない美しい一輪に思わず笑みを浮かべる。
随分と前のことなのに未だにこうして夢に見る。後悔している……。手放さなければよかったと……。でも、どうしても連れ戻すことができなかった。あの時の選択が正しかったのかまだ分からない。
引き出しの中から調べさせた早苗の調査結果が書かれた封筒を取り出す。
早苗はあれから見合いをして結婚をした。
普通の会社員と結婚し、三人の子供にも恵まれた。都内に一軒家を構えて老後を穏やかに過ごしたらしい。
そして早苗は、一年前に病死した。
興信所に連絡した時にはもうすでに亡くなっていた。どちらにしてももう二度と会えなかった。
司と先生が結ばれた時にようやく自分の中で早苗の事を冷静に考えるようになった。そして興信所に依頼した。
幸せでいてくれてよかった。
自分と一緒にいれば穏やかな生活を送れたかどうかわからない。ただ、本当にこれでよかったのか? 変えることのできない過去に想いを馳せた。
数日後、屋敷にひとりの客人が現れた。
「どなたかな?」
「あ──万代、武雄さんでらっしゃいますか?」
そこには若き日の早苗そっくりの女性が立っていた。本当に生き写しのようだ。顔を見た瞬間もう何も言えなくなった。時が止まったようだ。
だって、そうだろう……二度と会えないと思っていた早苗がそこにいる。嬉しそうにこちらを見ている。こんな幸せなことが、あるわけない。
爺が涙を流すと、その女性も爺に歩み寄り、泣き出した。
「早苗は、私の母です」
「あぁ、分かるよ、本当にそっくりじゃ……この瞳も、鼻筋も……何もかも……」
「これを……」
早苗の娘は紙袋に入った封筒の山を爺に手渡す。随分と古い物のようだ。切手は貼られているが全て投函されていない。宛名は全て自分宛だ。
「これは……」
「母からの手紙です……亡くなるまでずっと書いていたようです。私たちは知らなかったんですけど、父親は母親に忘れられない人がいると分かっていたようです。両親は愛し合っていましたが、母はたまに遠い目で外を見ることがありました。庭に咲いた菊の花を見るときや、ペタペタと音を立てて歩く足音が聞こえるとよく振り返っていました……きっと万代さんを、思っていたのだと──」
封筒の山を受け取ると爺は頭を下げた。爺が封筒を見つめていると娘はそのまま屋敷を後にした。
爺はゆっくりと封筒の中身を確認していく。
他愛もない日常が描かれていた。そして最後にはいつも爺を労わる一文が綴られていた。
最後まで読むと爺は笑い出した。
早苗は手紙に、自分と別れた後の人生は幸せだったと書かれていた。これでよかったのだと思った。
何枚目かの封筒の中に菊の絵が書かれた紙が挟まっていた。それを取り出し床の間に置く。それとともに手紙が添えられていた。亡くなる少し前のものだろう。
私の愛した男 武雄さんへ
今までの人生幸せだったわ。
あなたのそばにいてもきっとそうだったかもしれないけれど、後悔はないわ。あなたとの思い出だけで十分よ。
あなたもそうであってほしい。
私はあなたの中にいるから、これからも元気でいてちょうだいね。
あなたと出会えて本当に良かったわ。愛してくれて、ありがとう。本当に心から愛してたわ。
次に生まれ変わる時はあなたのそばにいるわ。
追伸
いつまでもエロジジイでいなさいね。女の尻を追わない武雄さんなんて、何の魅力もないわよ。
私はそんなあなたを好きになったのよ
早苗
「最高の、女じゃな……」
爺は目尻の涙を拭った。
次の日ジュンちゃんが屋敷にやってきた。
最近元気がないのを心配してくれていた。ワシの顔見て何も言わずに縁側に座っていた。唯一早苗の事を知っているジュンちゃんにはお見通しだったのかもしれない。
「タケちゃん、大丈夫だ。今からでも風俗の予約キャンセルしようか?」
「いや、いい。ジュンちゃん悪いな。でも、早苗が俺を心配するから……元気な姿を見せねばな」
二人は肩を抱き拳を天に突き上げた。
「早苗ちゃんに見てもらおうか……俺たちの勇姿を……」
「ふ、ふふ、怒鳴り込んできそうじゃ。幽霊でも嬉しいな……」
二人はゆっくりと歩き出した。




