ひとりぼっち
その日の季節は秋、雨上がりのぬかるんだ道を私は走っていた。靴や服に泥水が跳ね返っても気にせず前を見ていた。少し走った先に薄い茶色のトレンチコートにいつもの赤い傘を持った後ろ姿が見えた。
「お母さん!」
叫んでその背中に抱きついた。母は固まったようにその場に佇んでいた。そっと振り返り私を抱きしめる。背中に回された手は震えているようだ。茶色の髪が頰に当たりいつもの香りでいっぱいになる。
「ごめんね……幸、母さんを許してね。多くの人を幸せにしてあげて、あなたの名前のようにね」
立ち上げるとそのまま目の前のタクシーに乗り母は消えた。私を残して──。
幸は目が覚めた。いつのまにか泣いていたようだ。重い体を起こし濡れた頬を手の甲で拭う。
冷蔵庫を開けてお茶で喉を潤す。
まだ夜中だ──窓には雨の雫たちが付いている。いつのまにか雨が降っていたようだ。
……長くこの夢は見なかったのに。
幸が幼い頃、突然母が出て行った。
父は詳しくは話してくれなかったが、色々聞かせたくないことが多かったのかもしれない。それでも父は目一杯の愛で私を包んでくれた。
『幸、すまない……寂しい思いをさせて──』
鍼灸院を開院していたので、思う存分遊んでやれないことを父親は気にかけていたようだ。
幸はにっこり笑い首を横に振る。
『幸ね、大丈夫だよ! 父さんはたくさんの人を幸せにしてあげてるもん。幸も幸せだよ』
そう言うと父親は私の肩を抱きしめ、しばらくそうしていたことを思い出す。
この夢を見たのはきっと、今までそばにいた見張りがいなくなったこと、そして……組長が治療に来なくなったからだろう。一気にみんな居なくなり、一人ぼっちになってしまった。
寂しくてまた見るようになったのだろう。みんながいてくれた間はこの夢は見なかった事に気が付いた。
楽しかったし、寂しくなかったんだよな……。
奥の部屋にある小さな仏壇に手を合わせる。位牌のそばに父親の笑顔の写真が飾られている。
いいか、幸。この院を守っていくんだ。そして多くの人たちを笑顔に、幸せにするんだよ。お前にはその力があるんだ……そして、幸お前も幸せにな……。
「父さん、幸せって何かな? なんか……よくわかんないや、私の幸せって……どうすればよかったのかな……」
写真立ての父さんにそっと触れてみる。笑顔の父さんは静かに微笑んだままだ。幸は流れてくる涙を拭うと置いてあった掃除道具を手に取ると仏壇を磨き始めた。
体を動かしていると気が紛れる気がした。
幸は日が昇り明るくなっても部屋を掃除し続けた。心のモヤモヤも一緒に消えればいいのに。




