嗤う男
昔から人でないものをよく視た。
いや、人でないもの、と言うより。人だったものとか人であることをやめたものなど。
漫画や小説でよくあるような、会話をしたりお札で追い祓ったりなどはしない。というより接触しようものなら良くない事が起こる気しかしないのでなるべく視ないようにしている。
そんな僕は昨日雨で濡れた階段で滑って転んで足を折った。思ったより重傷で入院する事になった。
「ねえ、サトル。この病院って出るらしいよ」
「はあ?」
着替えを持ってきてくれた姉がそう小声で言った。
姉は昔からそういうオカルトものが好きだ。
僕が本当に視える人だと知ってからは落ち着いたと思っていたけれど気の所為だったのか。
「やめてくれよ、怖いから」
「だって視えるんでしょ? 視えない私の代わりに視てみてよ」
あまりに自分勝手な発言に僕は姉を睨み付けた。こっちは骨折までしていて大変な思いをしているというのに。そんな時に更に嫌な気分になれとでも言うのだろうか。
「そういうのは、いいものばかりじゃないんだよ。
お願いだから馬鹿な事言ってないで着替えちょうだい」
「ええ~、サトルのけち~」
いい歳してぶうたれる姉を放っておいて僕はベッドの隣に着替えが入った紙袋を置いた。
暫くして仕事があるから、と帰って行った姉をベッドの上から見送った。昼間だからかざわざわと騒がしい。担当医の方も看護師さん達も優しそうだったし、病院内もとても綺麗で清潔感の溢れる場所だ。とても『出るらしい』病院とは思えない。
まぁ少なくとも、『出る』には『出る』んだろうが。それほど害のないものなんだろう。オカルト好きを拗らせてその辺りの知り合いが多い姉の耳に入るほど『悪いもの』が『出る』病院とは思えなかった。
☆
消灯時間。
寝返りの打てない僕は何の変哲もない白い天井を眺めながら昼間の姉の言葉を思い出していた。
『この病院って出るらしいよ』
……。馬鹿馬鹿しい。
昔から心霊番組などを見ている時に驚かせてくる姉の事だ。身内が入院すると聞いてありもない噂話を言ったに違いない。
僕は目を閉じてゆったりと眠りに入った。
「ササハラさん、ササハラさん」
苗字を呼ばれた。
この声は今日のリハビリの際に話し掛けてくれた看護師の声だ。しかしおかしい。今は深夜のはず。
夜勤の看護師が巡回をしているのは知っているが眠っている患者に話し掛けてなど来るだろうか。
そこまで考えて僕はまた姉の言葉を思い出した。
『この病院って出るらしいよ』
僕は心の中で身震いをした。
やはり病院という場所ではどこでも『出る』ものなのだろうか。
「ササハラさん、リハビリの時間ですよ」
そんな訳ないだろ。今何時だと思ってるんだ。
耳元を擽る看護師の声に身を捩りたい気になったが聞こえる事がバレてしまってはどうなってしまうのか検討もつかない。必死で耐えた。
看護師の声は暫く続いて聞こえなくなった。
やはりそういう類のものだった。しかしそうだと認識してしまえば不思議と寝付けなくなるものだ。
僕は観念して目を開けて。
後悔した。
ニタリと口の裂けた男がこちらを見て笑っていたのだ。
風貌は普通の…、口裂けを除けば何の変哲もない男だ。しかし僕はヒ、と音のない引き攣りを感じた。
これはやばい。危ないやつだ。目を、逸らさなくては。
〈視タな? オれを視たナ?〉
目が逸らせない。身体が動かない。
笑う男の口の端から血の固まったものが滴り、僕の頬へ落ちた。酷い、鉄の匂いだ。
耳元でぴちゃん、と何かが落ちる音がした。
〈怖ガってイルな…? オレを視テ怖がッていルナ?〉
いきができない。
めがそらせない。
からだが、うごかせない。
このままじゃ――しぬ。
いやだ、しにたくない。
しにたくない……!
〈…………イいだロう、見逃シてやル〉
笑う男はふん、と鼻を鳴らして消えた。
途端に身体も軽くなって汗が吹き出た。
あれはダメなやつだ。面白半分では視てはいけないやつだ。姉の言う通りだった。オカルト好きを馬鹿にしてはいけないな。いや、綺麗で清潔感があろうとも『病院』である事は忘れてはならないと僕は肩で息をする中、心に刻み込んだのだった。
「何だか騒がしいわね」
翌日。
仕事の合間を縫って見舞いに来てくれた姉はそう言って病室の外を見遣った。
「患者が亡くなったらしいよ」
「まあ…」
姉は痛ましそうな顔をして声を漏らした。
僕は気が気じゃなかった。
あの笑う男が関係している気がして。
「亡くなった人、貧血で倒れて様子見の一日入院だったんだって」
「え? 死因は?」
「さあ、そこまでは」
もし。
もしあそこであの男に見逃して貰えてなかったら死んでいたの自分かもしれない。僕は途端、男の笑い顔を思い出して怖くなった。
「やっぱりやめた方がいいかもね」
「何の話?」
「ほら、この病院出るって昨日話したじゃない。
実は知り合いの話では毎日死人が出るっていうの。あんまり信じてはなかったんだけど…」
姉の言葉を聞いて僕は病室の外を見遣る。
ならば、昨日視たのは…。
僕は慌てて姉に昨夜の出来事を話した。
すると姉は普段ならば気持ち悪い程食いついて来るのに今回ばかりは顔を真っ青にして別の病院に移ろうと言い出した。
どうやら知り合いの話が本当だと確信する前から別の病院を探してくれていたらしい。オカルト好きでも家族は大事らしい。…当たり前か。
「ちょっと担当医の人と話してくるわね」
姉はそう言って病室を出て行った。
一気に全身の力が抜けた僕は天井を見上げ、目を閉じた。ふぅ、と深く長いため息を吐いた後に声が聞こえた。
深い 憎しみに 溢れた 楽しそうな
〈残念ダ。次ハお前にシヨうト思っタのニ〉
STORY END.
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