「ぼくとあざらし」
1
たかだか七百キロメートル先のことだって想像できない。
手元の写真を眺めながら、ぼくはため息をついた。
何故だか妙に弱気になるのは、仕事がうまく行っていないからだけではない気がする。
シベリアン・ハスキーのポラリスが、そんなため息に気付いたのか駆け寄ってきて、構って欲しそうに尻尾を振る。
ぼくは写真を封筒にしまってから、ポラリスの頭をなでる。
舌を出し、嬉しそうな表情をするポラリスを眺めていると、少しだけぼくの気持ちも晴れるような気がした。
写真が届いたのは二日前。
差出人の氏名を見て、その名前を思い出すのに数秒かかった。
彼女と出会ったのは昨年の十二月。
ぼくの職場を見学したいといって、わざわざ片道五時間の距離を新幹線に乗ってやってきたのだった。
その若さ故の無謀とも思える行動力には正直驚かされたけれど、今回の写真にはさらに驚かされた。
あのとき、彼女が言った言葉が思い出される。
「それで、その兄が最近になって結婚することになったんです。兄にはもったいないくらいに、綺麗な人と」
何度も見返した写真はまぶたの裏に焼き付いていて、目の前になくても思い出せる。
その写真には三人の人物が肩を寄せ合うようにして写っていた。
中央に写っているのが「ヤエノさん」とぼくが呼んだ彼女で、見覚えのある高校の制服を着て、満面の笑みを浮かべていた。
左側に写っているのは面識のない男性で、タキシードに身を包んだがっしりとした体格が印象的だった。
穏やかな微笑みは何だか優しそうで、目元はどことなくヤエノさんに似ていた。
そして、右側に写っているのは純白のウエディングドレスに身を包んだ女性だった。
栗色の艶のある髪、オフショルダーのウエディングドレスを上品に着こなして、カメラの方を見るその女性の顔を、ぼくは知っている。
そのとびきり幸せそうな表情はぼくの知らない表情だったけれど、ぼくはこの人のことを知っている。
その女性のことを思い出すと、何故だかぼくの胸がずきりと痛んだ。
特別な関係だったことは一度もなかったはずなのに、その痛み方をどう表現していいのかぼくには分からなかった。
苦しいだけじゃない。
悲しいだけじゃない。
嬉しいだと大袈裟すぎるし、切ないだなんて言葉も似合わない。
ただ何となく、少し痛くて少し温かい。
こんな感情を、一言で表す言葉はあるのだろうか?
すこし、物思いにふけりすぎていたらしい。
ポラリスがもっと構え、とでも言うようにぼくの頬を舐めた。
「そうだね、ごめんね。そろそろ散歩の時間だったものね」
ぼくは立ち上がった。
今日は少し遠回りをして桜を見に行こう。
桜を見るとなんだか彼女を思い出してしまうみたいで、今まではつい避けてしまうような、それでも気になってしまうような不思議な気持ちになったものだった。
けれど、この写真が届いた今なら、もっと楽に桜を見上げることができるような気がした。
「おめでとう、ミホ」
ふいに口をついて出た言葉は、ぼくが彼女を忘れていなかった証だ。
2
職場である研究室の窓からは、毎年桜が見えた。
研究が一段落してコーヒーをすすりながら窓辺に立つと、風に吹かれて花びらが舞い散って、そんな吹雪みたいな映像はぼくの胸をざわつかせた。
それは、高校二年生の最後に見たワンシーンを想起させたからなのかもしれない。
春休みにどこにも行く場所がないから、ぼくは川沿いの喫茶店で気分転換がてら本を読んでいた。
その喫茶店の二階からは桜並木がよく見えた。
読書の途中でふと顔を上げれば、吹雪のように舞い散るピンク色の花びらが、ゆっくりと流れていく川面に舞い降りていく。
土手の新緑と、空と川面の水色と、そして桜色の色彩は思わずうっとりとする程に美しかった。
そうやってぼんやりと遠くを眺めていたぼくの視界に、彼女が現れた。
春らしいワンピースを着こなして、黒髪を揺らしながら歩いていくのは間違いなくミホだった。
彼女は二階にいるぼくには気付かない。
というよりも、何だか楽しそうな表情をしていて、周りが見えていないようだった。
これから、どこかに出かけるのだろう。
あるいは、この辺りで桜を見るのだろうか。
今は一人で歩いていても、これから会う人物の顔が想像できて、その想像は何故だかぼくの心を小さく揺さぶった。
それ以上はあまり考えないことにして、ぼくは彼女を眺めていた。
そうして、ぼくは見てしまったのだ。
それはちょうど彼女がぼくの真下を通った時だった。
風が吹いたからか、光りの具合がちょうどまぶしかったからか、彼女が一瞬だけ目を細めて、桜を見上げた。
あの一瞬の映像を、ぼくは今でも忘れられない。
あの表情を、あの髪を抑えようとする右手の仕草を、そしてゆっくりと舞い散る花びらの色彩を。
儚げに見えるようで確かな美しさを湛えたそのワンシーンは、そのまま切り取ってしまいたい程にぼくの心を鷲掴みにした。
窓ガラス一枚を隔てた向こう側がひどく遠くに感じられて、夢でも見ているような気分だった。
本当に陳腐な言い方かもしれないけれど、そのときぼくは一瞬の中に永遠を見たような気がした。
それからというもの、満開の桜を見る度に、ぼくはそこに彼女を捜すようになってしまった。
あの時ぼくの心を射抜いた表情を、瞬間を、ぼくは春になる度に思い出した。
それは少しずつ色あせたかもしれないけれど、確かな余韻を残して、毎年ぼくの心をとらえ続けた。
だから、彼女の喪失を知ったときにそれは痛みに変わった。
彼女に手を伸ばせないぼくの弱さを責めるように、ゆっくりと、ひらひらと、ぼくの深い部分にしみ込むように透明な悲しみが積み上がっていった。
3
公園にたどり着いて、ベンチに腰掛けて桜を見上げた。
さんざん歩き回ったポラリスも、今は大人しくぼくの足元で座っている。
桜はちょうど満開のピークを越えて、ちらほらと葉桜になりかかっている。
そんなタイミングだからこそ、舞い散る花びらも多かった。
ひらひらと揺れながら、ゆっくりと落ちてくる花びら。
その落ちてくる速度を考える。
こんなにゆっくりと落ちる花びらをつかむことすら難しいのに、ぼくは遠い世界のことを考えることを生業としている。
例えば、人工衛星を打ち上げるのに必要な初速は秒速7.9 km。
例えば、月に降り立つために必要な初速は秒速11.2 km。
例えば、太陽系を脱して外宇宙に乗り出すために必要な初速は秒速16.7 km。
けれど、ぼくらの想像力はそんな速度を超えて、遥か彼方を捉えることができる。
時には光りの速度だって越えて、何万光年先の世界にだって届くことができる。
その目で捉え、観測を繰り返し、その遠い世界を、手で触れることができなくても信じることができる。
それなのに、急に弱気になってしまったのは何故なのだろう。
どんな距離だって越えて、想像力の翼を広げることができると信じていたぼくはどこに行ってしまったのだろう。
手に取ることができないものの美しさを、力強さを、かけがえのなさを信じることができると言えたぼくがどうしてしまったのだろう。
今は七百キロメートル先のことも、窓ガラス一枚を隔てた先のことも分からなくなってしまったような気がする。
急にぼくの周りに無限遠の深淵が現れたかのように、ぼくの心は乾いていた。
目の前にはポラリスがいて、職場に行けばいつもの同僚がいて、街を歩けばたくさんの人間が歩いているというのに、ぼくにとっての決定的な何かが欠けているように感じていた。
書店に行けば大好きな作家の新作を手に取ることもできたし、iPodをタップすれば懐かしいベースの響きが蘇る。
夜空を見上げれば相変わらず星が瞬いていて、ぼくの生活の何が変わったわけでもないはずなのに、ぼくの周りに透明なベールがかかってしまったかのように、全てが遠く感じられる。
何故こんなにも脱力しているのだろう。
久しぶりに届いたミホからのメッセージを読んだときから、ぼくは悲しむ理由をなくしたはずだった。
それなのに、ここ数日は一体どうしたというのだろう。
深い眠りから急に目覚めて、見ていたはずの夢を忘れたまま戸惑うように、ここ数日のぼくは途方に暮れていた。
ちょうど、水面から顔を出して戸惑うアザラシみたいに。
その瞬間、ぼくの中で何かが繋がった。
そうだ、そんなことをぼくに言った人が一人だけいた。
ちょうど一年前の今頃、やっぱり桜が散り始める頃に。
4
ハルカは、高校時代の先輩だった人だ。
高校卒業後も何度か会うことはあったけれど、昨年の四月、ぼくの勤務先に近い職場に彼女が赴任したのをきっかけに、ぼくたちはまた再会することになった。
久しぶりに会った彼女は、少し疲れているようにも見えたけれど、新しい職場は比較的時間に余裕がある職場だったらしく、休日を利用して二人で出かけることになった。
本当は二人ではなく、彼女の弟も一緒のはずだったけれど、彼はなんだかんだと言って結局来なかった。
「タタラは相変わらずで、悪いね」
その日は車で移動することにしていたから、ぼくの家の前まで迎えにきてくれたハルカは、少しだけばつが悪そうにそう言った。
風にのってふわりと漂ってきた季節外れのキンモクセイの香りが、なんだかハルカらしいと感じたのを覚えている。
「いつものことだから気にしてないよ」
ぼくの家の前に停められた、赤いハッチバックの車を眺めながら答えた。
フロントグリルに輝く、翼を広げたようなエンブレムには見覚えがある。
「やっぱり、マツダの車に乗っているんだ?」
「そう、アクセラ。小回りも利くから気に入ってるんだ」
いわゆる外車や他のメーカーの国産車でもなく、マツダの車を選ぶところに、言いようのない親近感を覚えながら、ぼくは助手席に乗った。
密閉された空間だからか、キンモクセイの香りがより強く鼻腔をくすぐった。
ハルカが運転する車は、滑らかに首都高速湾岸線を駆け抜けて、横浜を目ざした。
控えめなボリュームで流れるTZ Arietisのメロディーは会話を妨げない。
仕事の話、東京での生活の話、お互い共通の知人の話。
不思議と会話が途切れることもなく、葉桜になりかけた桜並木の脇を通って車は目的地に到着した。
目的の水族館では、桜をイメージした春の催しが行なわれていたらしい。
先週までで終わってしまっていたことにハルカは少しだけ落胆しながらも、楽しそうにどんどん奥に進んでいく。
イルカを間近に見ることができるエリアを越えてさらに進んでいくと、アザラシが悠々と泳いでいるエリアにたどり着いた。
ハルカのお目当ては、このゴマフアザラシだったらしい。
鞄から大きなカメラを取り出して、その姿を撮りながらはしゃいでいる。
「ここからならガラス越しじゃなくて直接見られるから良いんだよね」
ぼくは、そんなものかと思いながら、泳ぐ哺乳類を眺めていた。
その時、一匹のアザラシが水面から顔を出した。
大きな目と半開きの口元が、どこかとぼけているようで、確かに可愛い。
まるで立ち上がって遠くを見ようとしているかのような表情。
またすぐに潜って泳ぎだすのではないかと思っていたぼくの予想を裏切って、そのアザラシはそのまま佇んでいた。
ハルカはそんなアザラシにカメラを向けてシャッターを切っていた。
「なんだかさ、彼、戸惑っているみたいじゃない?」
不意にハルカが言った。
彼女は、あのアザラシをオスだと思っているらしい。
「戸惑っている?」
「そう、水面から急に顔を出して、水中の世界と全く違う世界に顔を出したから、どうして良いのか分からず戸惑っている、みたいな」
「そういうものかな」
「きっとそうだよ、ほら、どこかカナタに似ている」
急にぼくに似ていると言われて、ぼくはドキリとした。
「ぼくに似ている?」
「似てるよ。遠くのことを考えるのをやめて現実にかえってきたときのカナタの顔にそっくり」
ハルカはクスクスと笑いながら、ぼくの方を向いた。
そして心底楽しそうな表情をして、言った。
「カナタは、アザラシに似ているよ」
5
ポラリスが一声吠えて、ぼくを現実に引き戻した。
今のぼくはどんな表情をしているだろう。
一年前のあの日を思い出しながら、ぼくは何が変わったのかを理解しはじめた。
あの日、ハルカが見せた表情を思い出して、記憶が引き起こす感情のさざ波の正体を確かめた。
目の前を桜の花びらが散ってゆく。
その情景の先に今のぼくが思い出す人は、誰なのか。
ヤエノさんからの手紙が届いたのとほぼ同時に、ハルカから届いたメールがあった。
そこには色々なことが書いてあった。
無事にアメリカに着いたこと、着任早々研究に奮闘しているらしいこと、日本語が全く通じない環境に少しだけ戸惑っているらしいこと。
そして文末には、確かこんな言葉が書いてあった。
「カナタも、気が向いたらアメリカに星を見に来ませんか?」
確かに、人は手の届かない対象をいつまでも想い続けることができる。
決してその手に触れることができなくても、かけがえのない対象として抱き続けることができる。
それも確かに一つの想いの強さであることには変わりないはずだった。
その静かな輝きの尊さが失われたわけではない。
届かない憧れをいつまでも抱き続けることが、大切にし続けることが、悲しいことだとぼくは思わない。
その一方でぼくは気付いてしまっている。
ただ想い続けるだけでなく、その想いを届けたいと願ってしまう相手がいることを。
少しずつ積み重なっていた日々の果てに気付いたこの感情を。
ぼくは、ちゃんと届けることができるのだろうか?
また、何もできずに想い続けるだけで終わってしまうのだろうか?
そして全て終わってから、言いようのない少し痛くて少し温かい感情にもだえる事になるのだろうか?
そんなことはない、とぼくは思う。
想像力の翼をどこまでも伸ばせるのと同じように、ぼくたちは想いを届かせることができるはずだ。
人工衛星の打ち上げ速度よりも早く、月へのロケットを打ち上げるよりも強く、外宇宙探査機よりもしっかりとした足取りで、ぼくの想いはどんな距離も越えてみせる。
かなたのぼくから、はるかのきみへ。
「ポラリス」
手始めに、ぼくは彼に声をかける。
彼はぼくの方を向き、嬉しそうに尻尾を振った。
その表情は何となく、「大丈夫」と言ってくれているような気がした。
「アメリカに行ってみようか」
舞い散る桜の花びらを眺めながら、ぼくは自分に言い聞かせるように言った。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。