「ぼくといぬ」
1
妙に星が綺麗な夜だった。
煮詰まっていた仕事は思っていたよりも早く終わって、久しぶりに公園に行って星でも眺めようかと思った。
ささやかな思いつきは寒さに吹き飛ばされてしまうことなく、頭の中で徐々に具体的な計画になっていく。
意気揚々と帰っていたまさにその時に、コートのポケットの中でスマートフォンがメッセージの受信を知らせた。
メッセージアプリには、高校時代の同級生、ミホから結婚式の二次会の案内が届いていた。
約十年ぶりに届いたメッセージの文末には、猫でもうさぎでもなく、何故か犬の絵文字がしっぽを振っていた。
すごく、嬉しそうに。
ミホがどんな意図で犬の絵文字を使ったのか、ぼくにはわからない。
案内メッセージ自体はコピーアンドペーストで送ったようなテンプレート通りの文面で、彼女が特別な意図を持ってこの絵文字を選んだと考える根拠になりそうな箇所はどこにも見当たらなかった。
とはいえ、人間はこの手のちょっとした絵文字一つで期待をしたりする生き物だ。
本当にただの記号でしかないはずなのに、何百光年先の天体から届く光よりも不確かな何かを読み取ろうとする。
そう思うと、このメッセージは頭上のどんな天体よりも遠くから送られてきたような気がした。
こんなのは、久しぶりだ。
自然と思い出した感情のおかげで、ぼくの胸はちくりと痛んだ。
2
「心に星って書いて、ミホって読むんだ?」
最初にそうやって声をかけたのは、高校一年生の五月、クラスのアンケートを回収する時に、彼女のフルネームを漢字で見た時だった。
多くの女子高生達がそうするように、彼女が所持するノートや教科書に書かれた名前は、カタカナかローマ字表記だった。
「そうだよー。珍しいでしょ?」
同じクラスとはいえ、会話するのはほぼ初めてというぼくに、ミホはずいぶん柔らかい声で答えてくれたと思う。
「お父さんかお母さんが、星に詳しいとか?」
「んー、お父さんが昔天体観測好きだったって聞いたことはあるけど、よくわからないや。」
天文部に所属していたぼくは、会話のきっかけをつかめたかもと思って意気揚々と声をかけたのだけれど、「わからないや」という雰囲気で少し首を傾げた彼女の顔を改めて見ると、それ以上会話を続ける自信はあっという間にしぼんでしまった。
「そうなんだ」
素敵な名前だね、というたったそれだけの言葉さえも飲み込んでしまうほど、彼女はかわいかった。
実際、魅力的だった。
中学生のころからテニスをやっていた、というミホは入学早々テニス部に入部届けを出したらしい。
そんな彼女目当てでテニス部に入った男子が複数人いる、という噂はぼくも聞いたことがあった。
それでいて、いつも明るくクラスメイト達と楽しそうに話をする様子は気取ったところがなくて、誰からも好かれていた。
ぼくは一人で本を読んでいる時間が多かったので、あまり会話に加わることはなかったけれど、ワイワイと楽しそうに話をする声の中に彼女の明るい声が混ざっているのを聞くのは心地よかった。
そんなミホが、名前に関する会話をきっかけに話しかけてくれるようになったのは、正直嬉しかった。
「心に星って書く名前には、何か意味があるの?」
ぼくが天文部だと知って、彼女は聞いてきた。
「シンボシって、北極星のことなんだ」
内心すごく嬉しかったのだけれど、変に意識したら二度と会話ができなくなってしまうような気がして、なるべく平静を装って答えた。
「へー、初めて聞いた。物知りだね」
その時の彼女の表情を、ぼくは直視できていない。
「い、一応、天文部だから」
「君って、おもしろいね」
初めて言われるそのセリフに驚いて顔を上げると、彼女の笑顔があった。
それ以降、彼女はぼくのことを友達と認めてくれたらしい。
夜になると星を見上げ、昼は本ばかり読んでいて、ぼくには友達と呼べる友達が本当に少なかった。
それでも、高校に通うのはそれほど嫌でなかった。
今にして思えば、高校三年間同じクラスになった彼女がぼくを友達として認めてくれたおかげで、ぼくの居場所ができたのだと思う。
「犬を飼ってるんだ?」
あるとき、ぼくの携帯電話の待ち受け画面を見て、ミホは言った。
「うん。ミホは犬派なの?猫派なの?」
それは、何の気もなしに、とっさに出た質問だった。
「私は、そうだねぇ、どっちも好きかなぁ」
彼女は少しだけ考えた後、そう答えた。
「でも、君って確かに犬っぽいよね」
そう言ってちょっといたずらっぽく笑う彼女の表情が、犬っぽいのか猫っぽいのか、ぼくにはよくわからなかった。
高校二年生になった時、となりのクラスの古瀬がぼくにミホを紹介してくれと言ってきた。
古瀬は小学生の頃からの数少ない友達の一人で、ぼくは彼のことを当時からフルと呼んでいた。
「でも、彼女は人気者だから、フルの思い通りにはいかないかもしれないよ」
「いいんだよ、最初は話をするだけでも」
聞くところによると、体育祭かなにかで彼女を見かけて以来、一目惚れをしたらしい。
ぼくが度々彼女と話をしているのを見かけて、紹介してくれ、という訳だ。
最初、ぼくはあまり気が進まなかった。
何故気が進まないのか、自分でもよくわからなかったけれど、なんだか億劫だった。
とはいえ、フルは誤解されやすいけれど良い奴だ。
彼は水泳部で、プールの塩素にやられて少しだけ髪が茶色い。
しかも、顔が整っていて人懐っこい印象を与えるから、どうしてもチャラい不真面目な奴だと思われがちだ。
けれど、小学生のころから読書ばかりしていて、よくからかわれていたぼくを庇ってくれたのはいつもフルだった。
中学生の頃、修学旅行でぼくがどのグループにも入れずにいた時に、「オレらのグループに来いよ」と誘ってくれたのもフルだった。
結局、ぼくは友達の頼みを聞くことにした。
「なんだか、ミホと知り合いになりたいっていう友達がいるんだけど、もし良かったら会ってみない?」
フルとの約束を守って、そうミホに話したとき、彼女はなんだかぽかんとした表情をしていた。
その表情はなんだか初めて見るような気がして、少し見とれた。
「んー、なんだかよくわからないけど、私で良いならいいよ」
彼女は、しばらく考えてからそう答えた。
ぼくはなんとなくざらりとした感覚を味わったのだけれど、そんなことは忘れて、約束を守れそうだと安心することにした。
二人が付き合っているらしい、という噂を聞くようになったのは、それから一カ月くらいしてからだった。
ぼくはフルに、おめでとうと言った。
3
美男美女のカップルということもあって、ミホとフルのことは校内でも有名だった。
実際、制服姿で二人仲睦まじく下校しているところが度々目撃されていた。
ただ、フルは確実に誤解されていた。
顔が良いうえに、誰に対しても優しく話しかけるから、端から見ていると片っ端から女の子を口説いているように見えるのだそうだ。
どうやら、ぼくが二人をくっつけたらしい、ということになってからは、男子からも女子からも、度々「どうして?」と非難されることになった。
ぼくはその度にフルにかけられた誤解を解こうとしたけれども、あまり効果はなかったようだ。
とはいえ、そんな風評のことは気にせず、ミホとフルの二人は楽しい時間を過ごしていたらしい。
二人はほぼ毎日一緒に下校していたし、昼休みも一緒にいることが多かった。
フルは露骨に
「オレは友情より恋愛をとるよ」
と言って、ぼくと過ごす時間は本当に少なくなった。
ぼくは少しだけ寂しい気もしたけれど、ある意味自分の時間が持てるから良いか、と勝手に諦めた。
そうはいっても、時にはフルとつるむこともあった。
「今日はぼくと一緒にいていいの?」
ぼくが意地悪く言ってやると、フルは不機嫌そうな顔をして「テニス部が試合前だから」とか、「遠い親戚が遊びにきているらしい」だとか、ミホと一緒に居られない理由を忌々しげに話すのだった。
でも、それはフルが彼女と一緒に居たいという気持ちの裏返しで、一通り言ってしまうと、後は必ずいかに自分がミホのことを好きなのか、という惚気話になった。
周囲からは誤解されてしまっている分、そういう話をできるのはぼくしかいなかったらしい。
ぼくはそうだね、そうだねと聞きながら、こんなに純粋に誰かのことを好きになれるフルのことがうらやましいと思った。
そうやって想ってもらえるミホは幸せだろうと思った。
遠い遠い世界の物語のような気がした。
特別な二人、幸せのまっただ中にいる北極星とカシオペヤ座ゼータ星の二人を、いつまでも祝福していたいと、心の底から思った。
そんな二人のデートに出くわしたことが、一度だけあった。
ぼくは、飼い犬の散歩で近所の公園に来ていた。
休日の公園は人もそれほどいなかったし、紅葉が綺麗だったのでぼくは犬を連れてぼんやりとしていた。
「あっ、君も来ていたんだ」
聞き覚えのある声にはっとして見ると、近くのベンチにミホとフルが仲良く座っていた。
「ここらへんは、オレらの地元だからね」
そう言うフルの左手は、ミホの右手と絡まるように繋がっている。
別にぼくの前で恥ずかしがるつもりもないらしい。
「ああ、ごめん。犬の散歩の途中で、すぐ行くから」
ぼくの方が気を遣って、さっさと退散しようと思った。
「いいじゃない、少しくらいゆっくりして行こうよ」
フルのとなりで「いいよね?」と微笑むミホのその表情は、ぼくが知らないそれだった。
ぼくはその申し出を断る言い訳を見つけられなかった。
結局、ぼくは二人が座っているベンチの、となりのベンチに座ることにした。
「その犬、ハスキー?なんて名前なの?」
ミホが無邪気に聞いてきた。
「ハスキーに似ているけど、アラスカン・マラミュートって犬なんだ」
ぼくは答えた。
ミホに話かけるのはなんだか気まずくて、フルに話かけることにした。
「フルは猫派だったよね?」
「そうだよ。今は猫を三匹飼ってる」
「あれ、一匹増えたんだ?」
「ああ、こんど見に来いよ。そういや、ミホは犬派なの?猫派なの?」
「私は、どっちも好きかな」
それまでぼくらの話を黙って聞いていたミホは、やっぱり少し考えるような時間をおいて、そう答えた。
ミホとフルは、お互い見つめ合って微笑んでいた。
それから、犬っぽい、猫っぽいという話で楽しそうに盛り上がる二人を眺めた。
となりのベンチとはすぐ近くのはずなのに、どうしてか距離を感じて、その感覚はなんだか心地の良い目眩のようだった。
「誘ってくれてありがとう、ぼくはそろそろ行くね」
ぼくは立ち上がると、犬を連れてその場を後にした。
二人はやっぱり微笑んで、手を振ってくれた。
4
時は流れて、ぼくたちは高校を卒業して、大学生になった。
ぼくとフルは、進んだ大学こそ違ったけれど、二人とも東京の大学に進学したから、故郷を離れて一人暮らしをすることになった。
「ほんと、腐れ縁だよな」
それぞれの引っ越しが終わったその日、ぼくとフルは近くのファミリーレストランで一緒に夕飯を食べた。
ミホとフルの関係は、その時もまだ続いていた。
ただ、ミホは地元の大学に進学したから、二人は遠距離恋愛になってしまっていた。
「毎日メールしてるし、ついこの間はこっちに遊びに来てくれたし、大丈夫だよ」
ぼくとフルは、大学こそ違ったけれどよく一緒に遊んだ。
そんな時、フルが話すのはいつだってミホの話だった。
東京と故郷との間の距離をものともせずに二人がいつまでも繋がっている、というのは良いものだと思った。
おかしくなり始めたのは、大学二年生の冬以降だったと思う。
何となく雰囲気が変わったフルのその背後には、ぼくが知らない誰かの気配があった。
ミホの話を振ってみても、何だかはぐらかすような、嫌な違和感があった。
ぼくは何となく察して、フルもまた、ぼくが何かを察したのに気付いたのだと思う。
ぼくに後ろめたさを感じたからか、フルはぼくと距離を置くようになった。
一度だけ、ミホの友人である女の子から、フルとミホがどうなっているのか、探りを入れるような連絡があった。
探りを入れる、というより、フルに対する非難と言う方が適切だったかもしれない。
そして、その行間には、二人を引き合わせたぼくに対する非難めいた雰囲気も感じられた。
遠い故郷の地でひたすらにフルの事を待っているミホの事を思うと、胸が痛んだけれど、ぼくにはどうすることもできなかった。
ぼくはその次の四月から、念願かなって天文学科に進んだ。
遠い遠い宇宙の果てを考えて、そこにある物質を想像して、理論を組み立てて、ぼくの心はずっとずっと追い求めていた世界のことでいっぱいになった。
しばらく帰っていなかった故郷の事も忘れて、学ぶもの全てが愛おしくなって、いつしか昔の出来事は、四百光年離れた星よりも遠い出来事のようになっていった。
疎遠にしていたはずのフルから、突然連絡が来たのはぼくが大学院に進学して二年目になった時だった。
その時に取り組んでいた課題がなかなか難しかったから、正直気は進まなかったけれど、結局ぼくとフルは近くの居酒屋で会う事にした。
「久しぶり。お前は思っていたより元気そうだな」
本当に久しぶりにあったフルは、明らかにやつれていた。
社会人になったフルは、ぼくよりもよっぽど多くのストレスにさらされているのだろうと思った。
でも、本当にフルをやつれさせたのは、そんな事ではなかった。
「ミホと別れなくちゃいけなくなった」
ぎこちない世間話をしてぼくとの距離を測った後、フルはぽつりと告白した。
「まだ、別れていなかったの?」
正直、最初の感想はそれだった。
あきれて二の句が継げなかった。
だけどその一方で、見た目以上に優しすぎるフルは、ずっとずっと、一人で悩んでいたのかも知れない、とも思った。
「ほら、ちょっと前から、よく二人で飲みに行ったりする女の子がいたんだ。
で、遅くまで飲んだりすれば、男と女だし、色々あるって分かるだろ?
で、そんな事を続けていたら情だって湧くし、その結果どうなるかなんて、お前も想像できるだろ?」
何も言えないでいるぼくに向かって、フルは溜め込んでいたものを一気に吐き出すようにしゃべった。
分からない訳じゃない。
想像できない訳じゃない。
ストレスにさらされた人間が、わかりやすく「傍にいて」「受け入れてくれる」誰かに弱いなんて事は、いくらぼくだって、知っている。
けれど、それでもぼくが思ったのはミホの事だった。
「大丈夫だよ、そういうの、ぼくも分かるよ、仕方がないよ」
そんな言葉は、どうしても言えなかった。
「ごめんな、突然呼び出して、しかも、お前にしかこんな事言えないなんて」
最後までフルは謝っていた。
「今まで誠実じゃなかったとしても、これからは誠実に、本当の事を話して全員が前に進むしかないよ」
結局、ぼくが言えた事はそれだけだった。
本当は色々と言いたかった。
でも、何を言ってもフルを追いつめるだけだったろうし、ぼくの自己満足でしかない誰かの幸せの話なんて誰も望んじゃいないと思って、たくさんの言葉を飲み込んでおく事にした。
その後、ミホとフルは別れた。
フルは当然、元同級生の間で完全な悪役に仕立て上げられ、ぼくもまた、A級戦犯として同様の扱いを受けた。
もとからあまり誘われる事はなかったけれど、同窓会や元同級生達で集まる会には、完全に呼ばれなくなった。
完全に高校時代のコミュニティーからは孤立してしまったけれど、フルだけはぼくに年賀状を送り続けてくれた。
年賀状の写真の中で、フルは少し太ったようだ。
けれど、太っていると言う事は彼が幸せで、元気にやっている証拠だった。
ぼくにとって、彼に関することでそれ以上に知りたい情報は何もなかった。
5
メッセージアプリに表示された案内には、二次会に出席するか欠席するか返事をするためのサイトへリンクが張ってあった。
ぼくにとっては、高校時代の同級生からくる最初の招待状だ。
あれからの月日を考えて、ミホが乗り越えなければならなかった悲しみを思う。
彼女がきっと苦しんでいた時、ぼくはずっと遠い世界の事を考えていた。
今にして思えば、それは逃げていただけだったのではないか。
本当にぼくには、何の役割もなかったのだろうか。
でも、この招待状が答えてくれている。
結局、それはぼくの役割ではなかったのだ。
北極星を見つける方法は、一つじゃない。
例え、カシオペヤ座が見えなくなってしまっても、もう一つの方法が残っている。
その人は、北極星を見つけたんだ。
心の底から、二人を祝福してあげたい。
ぼくは天文学者だ。
手に取ることができないものの美しさを、力強さを、かけがえのなさを信じる事ができる。
もちろん、未来の事なんて分からない。
だけれども、ぼくはやっぱり信じている。
だから、君は大丈夫だよ。
玄関をあけると、目の前に犬が待っていた。
ずっとそうして待っていたかのように、忠実そうな表情で、ぼくを見つめている。
散歩に行こうよ、と誘っている。
今飼っている犬は、あの時の二人を知らない。
あの時のマラミュートは、ぼくが大学院を卒業する前に、亡くなってしまった。
もう犬なんて飼わないと思っていたけれど、あまりにもそっくりだったから、即決で飼う事を決めた、シベリアン・ハスキーだ。
ペット可の物件を探すのは本当に大変だったけれど、この犬と一緒でなければ今のぼくは生きていられない。
名前は、あの時のマラミュートと同じ。
ぼくにとっては、特別な名前だ。
それは、図らずも彼女と同じ意味の名前。
例えどんな夜でも、進むべき道を過たないための、大切な名前。
「いくよ、ポラリス」
ポラリスは、あの絵文字に負けないくらい、嬉しそうにしっぽを振った。
読んでくださりありがとうございます。