後編
世川さんがこの世界に別れを告げてから、数年が経った。
あの時の彼女の言葉も表情も、僕の心の奥底深くに沈殿して溶け切ることはない。今でも、他に何か言うべきことがあったのではないかと、繰り返し繰り返し考えることがある。
世川さんを惜しむ声は多くあったけれど、彼女の言葉通り、代わりとなる程の能力を持つ人は幾らでもいた。彼らはすぐに代役を見つけ出し、そちらに注目する。要するに、彼らの求めているものは「天才」であって、世川さんではなかったのだ。
そしてやがて、あの父親でさえ世川さんについて何も言わなくなった。
僕は普通に卒業して、普通に就職して、ごく普通に、家庭を持った。
整髪料が落ちてきて、前髪が鬱陶しく目にかかる。そう言えば、この強力な黒染め薬は切れかかっていたのだった。生え際の緑を電車の窓で確認したのを思い出し、僕はため息をつく。相変わらず、僕の髪色は原因不明のまま元気に緑である。元気なだけまだましだ。毛根死滅しろと思っていた過去の自分に今では少々ぞっとしている。
スーパーのレジ袋が両腕を圧迫する。しゃらしゃらと軽快な音に似合わない、えげつない重さだ。
「……たく……一気に買わせ過ぎだって……」
仕事帰りの精神的な疲れと物理的な重さによる腕の疲れでへろへろになりながら、僕は自宅に帰る。
ドアを開けると、暖かで美味しそうな香りが頬を撫でた。
「あ、お帰りなさい」
「ただいま」
奥から出てきた妻に通勤カバンを渡し、腕や指を殺しにかかってくるレジ袋はキッチンのそばの机まで運ぶ。
やっとのことで指に食い込むビニールから解放された僕は、ほっと息をついた。カバンを置いた妻が戻って来る。
「お疲れ様ー、いやぁ、ごめんね?いつも」
「買ってくるのは良いですけど、一気に頼まないで分割してくださいっていつも言ってるじゃないですか……」
「いやだってさ、作りたいメニューが一週間分ばって思い浮かぶんだよ。その熱意が続くうちに材料揃えないと料理に対するモチベーションが上がらなくてさ」
「本当、独特のルールで生きてますよね。職人気質……芸術家気質?」
ため息をつくと、彼女はむっと口を尖らせた。
「というか。また敬語になってますけど、周太くん?」
「あ」
指摘を受けて、僕は口を閉じる。
「どうして抜けないかなぁ。というかそもそも、同い年なんだから初めから敬語なこと自体おかしいんだけど」
「ははは、ずっとこうだったからつい癖で……だって怖かったし、りんねさん」
「うっ」
自覚があったのだろう。りんねさんは僕から目を逸らす。
「あの時は、天才ぶろうと必死でさぁ……きひひ」
「りんねさんこそ、直りませんね、その笑い方」
今度は僕が指摘をする番だった。
「うー、癖ってなかなか直らんのよさ……この笑い方とは長い付き合いだったし。今はもう厨二じみてて恥ずかしいんだけどね」
落ち込んだように俯くりんねさんに、僕はふと悪戯心が湧いた。
「へぇ、りんねさんでも恥ずかしいって思うんですね」
「ちょっと、人を人外扱いしないように!私にだって人並みの感情はありますぅ」
むくれるりんねさん。僕は彼女の顔を覗き込むようにかがんで、その頭に手を置く。
「……わかってるよ。それだけ僕は信頼して貰ってるんだな、って嬉しかっただけ」
軽く笑いながら囁くと、りんねさんは赤くなった。
「……なんか、周太くん意地悪になった……。あー、高校の時の私に怯えまくってた周太くん可愛かったなぁ!どこに行っちゃったんだろ!」
「なかなかサドだ」
「君に言われたくないから」
戯れるように会話して、くすくすと笑い合う。今の僕たちは、あの頃の僕が聞けばショックで卒倒してしまうような、幸せな生活を送っている。
りんねさんはあの頃のように天才ぶるのを辞めた。あの頃繰り返していたぶっ飛んだ言動の数々は、その殆どが自分の本心を隠し守るためのパフォーマンスだった。彼女曰く「周りの期待にお応えして」いたそうだ。今の僕なら、皮肉屋で小心者の彼女らしいと笑って納得できる。
今も中々本心を言ってくれないことの方が多いけれど、それでも随分と甘えてくれるようになったと思う。
あの時。フェンスを離そうとしたあの瞬間、僕は叫んでいた。「嫌いじゃないです」と。
もっとまともな、それこそ好きだとか言えれば良かったのだが、その時の僕にはとりあえず彼女の勘違いを訂正しようとしか考えられなかったのだ。
それでも効果はあったようで、世川さんは驚いた拍子にこっち側へ倒れて来た。幸い僕が彼女の下敷きになる事で難を逃れたが、今でも向こう側に倒れていたらと思うと背筋が冷える。
そしてそれから、僕は必死に世川さんについて回った。世川さんを失うかもしれない恐怖に勝るものはないと気付いたその時の僕に恐れるものはなかった。それまでと全く逆の態度をとる僕に、初めは戸惑っていた世川さんも、徐々に心を開いてくれるようになった。数々の障害と紆余曲折を経て、彼女の両親を気合で説得した。そしてついに、夫婦となるまでになれたのだ。
彼女は特に何を成すでもなく、専業主婦をしている。傍ら、趣味で研究を行っている。僕の髪を染める用の強力且つ無害な薬は彼女の実験の成果である。本当にそれでいいのかと聞いたところ、元々そこまで研究に執着していたわけではないとのことだった。今はもっぱら僕の役に立つことが楽しいとのことだ。僕としては、また彼女がプレッシャーに潰されそうになるのは嫌なので正直ほっとしている。
「……りんねさん、もう一人で抱え込まないように、な」
少し肉がついたが相変わらず細い体を抱き締める。その柔らかさ、温かさに安心する。
「……うん。周太くんが私の居場所になってくれる限り、私はもう一人で勝手に判断したりしない」
りんねさんは怯えていた。世界に居場所がないと思い込んでいた。大きすぎる才能と、それに比例するように増える妬みや嫉妬。そして、罪悪感。りんねさんはその才に驕るには弱すぎて、優しすぎた。周りからの嫉妬に怒るでもなく、ただ押し潰されていった彼女は、どんどんその感情を閉ざしていった。相談する相手はいない。相談しても、大抵自慢だと思われて軽く流される。心から理解してくれる人が周りにいなかった。孤独に耐えられなかった。ごく普通のことだ。
そして何より、僕に嫌われることに怯えていたらしい。あの時の告白は本気だったようだ。怯えて逃げ回りながらも僕が彼女に妬みや嫉妬の視線を投げかけることはなかったこと。彼女が天才だと自称するときすら何も言わなかったことが好印象だったらしい。ただただ彼女の奇行を恐れていたあの頃の僕、よくやった。
僕に避けられたことや、父親に蔑ろにされている場面を見られてしまったことで精神的に追い詰められ、あのような行動をとってしまったらしい。
ひっそり死ぬつもりが僕が追いかけて来て焦ったと言っていた。日々を怯えて暮らしいていると勘も冴えてくるものである。
そして、僕は今もりんねさんに怯えている。
彼女が再び世界を、僕を見限ってしまう未来に。
あの冷たい瞳に戻ってしまう可能性に。
余りにも幸福な現在に、調子に乗って彼女を蔑ろにしてしまわないか。
この先ずっと、二人で人生を歩んで行けるのか。
怯えてしまうこと、怯えていなければいけないことは山積みだ。
しかし、だからこそ。
僕はこの先も、りんねさんに怯え続けることになるのだろう。
この幸せを守るために。
ジャンル恋愛なので、恋愛エンドです。メインテーマは恋愛ではないのでもしかするとジャンルを変えるべきなのか……。
天才もそうでない人もむしろ劣っている人も、幸せを得る権利はある、と、思います。多分。