前編
近頃、僕の心休まる時間は少ない。
それというのも、一日の大半を過ごさねばならない学校に、恐ろしい人がいるからだ。
二つ隣のクラス。ろくに授業を受けないながらそれをなんと学校側で黙認されているほどの才女。
「あああー、い、た!」
息を呑む。嫌になるほど耳慣れた声だ。
「……せ、世川さん」
「きひひっ!りんねって呼ぼうよさ!周太くん?」
独特の笑い声をあげながら、首を痛めそうなほどに捻って僕の顔を見る世川さん。彼女が、僕の日常を恐怖に染めている張本人だ。真っ白な歯をむき出しにして笑っているのに、その瞳の奥は冷えている。この笑っているのに全く笑っていないような顔が、僕は酷く苦手だった。
「あ、あの、な、なにか、用事ですか……?」
「用事ぃ~?決まってんじゃん、サ・ン・プ・ル!とらしてー!」
きひ、と奥歯の横から息を吹き出すような笑い声をあげながら、世川さんが僕の髪の毛に触れようとする。そう、彼女が僕に絡む理由。それは、僕の髪が限りなく黒に近い緑色をしているからだ。原因はわからない。特に病気を患っているわけでもないし、医師にもさじを投げられてしまった。
そのせいで幼い頃から散々いじめられ、自分の気が随分弱くなっている自覚はある。まあ、警戒心を持ち怯えることは世界を生き抜く上ではときに必要な能力であると思うので、今後治す予定はない。……勿論自分の情けなさから目を逸らすための言い訳であるけれど。
ところで世川さんだ。研究好きの彼女はこの珍しい僕の髪を研究したいそうだ。髪の一本くらいあげてしまえば良いのではないかと人は言うかもしれない。けれど、まず髪の毛だろうが自分を研究されるということ自体なんだか怖いし、髪の毛一本あげてそれで世川さんが止まるとは思えない。自ら差し出してしまえば要求がエスカレートしていくに決まっている。さらに、髪の毛に対する執念が怖い。にわかに櫛を差し出される程度なら毎日のようにやられているし、それはまだいい。しかしその程度で済むならそれはりんねさんではない。気が付けば教室の僕の机の周辺に這いつくばって床にはめ込まれたタイルの隙間をほじっている。ガムを偶然を装って髪に貼り付けてきて採取されそうになる(それは速やかにゴミ箱に捨てた)。鋏を持って恍惚とした表情で眺めてくる。果ては実力行使で抜かれそうになる。ここまでくるとストーカーレベルの行動の数々。
そんな彼女に怯えずにいられるだろうか。クラスメイトや教師でさえ彼女にドン引きである。ましてや路上で列をなす蟻にすら怯える僕である。得体の知れない彼女は僕にとって恐怖の塊だ。
僕は世川さんの少し白すぎる魔の手から逃げ出した。
「あ、もー逃げない逃げないー」
「ひいっ!や、やめてください!他をあたってくださいぃ!」
「ほかにないから調べたいんじゃないのさあ」
僕はまた自分の髪の毛を嫌う理由を見つけてしまった。両親には申し訳ないが、こんな目に遭うくらいなら今すぐ毛根を死滅させてしまいたい。髪を染めようと試みても大体次の日にはきれいさっぱり落ちてしまうのだ。髪質もきっと特殊なのだろう。心から黒髪が恋しい。
世川さんは、黙っていれば美人、の典型だ。僕が求めてやまない黒髪を三つ編みにして後ろに流し、少し色素の薄い瞳は二重まぶたの下できらきらと輝く。胸囲は少々寂しいものの、すらっとした理想的なモデル体型だ。
けれど、そんな彼女に惹かれた人間は大抵その恐ろしい程の好奇心と行動力にそっと目を逸らすことになる。
僕としては目を逸らす側の一人になりたいところだが、彼女の興味の矛先がこちらを狙っている限り無謀な願いなのだろう。
天才肌。天才となんとやらは紙一重。偉人は得てして奇人なのだと、見ているだけの人間は無責任なことを言う。振り回される僕の身にもなって欲しい。クラスメイト達は最早日常となってしまったこの光景に、止めるでもなく面白そうに見守っている。
「ほ、ほんと、どうしてそう滅茶苦茶なんですか……っ!」
いっそ泣きたい位必死な僕の発言を、世川さんはきひひと流す。
「まぁ、わたしって天才だからさぁ」
その瞳の奥は、相変わらず冷えている。
いつものように世川さんに鋏を向けられる恐怖に震えながら下校する。
「ねっ、おねがぁい。先っちょだけ、先っちょだけでいいからさ!」
「い、いやですって!語弊のある言い方はやめてくださいよ!」
世川さんはいやらしい目つきで両手をわきわきさせて近づいてくる。いつもの笑い方ではなく、うへへ……と変態じみた笑い声をあげている。冗談だとわかっていても怖い。
「周ちゃあん、おじさんとイイコトしようねぇ」
「ひっ!?いやっ、おかしい!おかしいです色々と!」
世川さんはおじさんでもないし、そもそも目的は髪ではなかったのか。
青ざめて首を振っていると、えいっという掛け声と共に全身が重くなる。
「きひひっ、つーかまーえたっ」
心臓がひっくり返ったかと思った。
世川さんが、僕の首に両手を回し、抱きついてきている。その体は細さの割に意外な程柔らかい。微かだが確かに弾力のある膨らみの感触。耳元に感じる息遣いと、ふんわりと香るいい匂い、いつもより甘く感じる声に、思考が白くなる。
ぎゅう、とまるでしがみつくように両腕に力が籠められる。世川さんの頭が僕の胸あたりにあり、ぐりぐりとこすりつけられている。何が起こっているかもわからないまま無意識に抱きしめ返しそうになり、僕は我に返った。
「……周太くんと、りんね。どっちもぐるぐる回る名前だよね。周太くんはひろーく自由に回ってるイメージだけど、りんねは縛られた絶対のめぐり。……どうしてだろうね。似てるのに違う。面白いね」
囁くように、静かに声が落とされる。面白いねと言う世川さんの声は、全く面白そうに聞こえなかった。僕は何と言っていいのかわからず、ただ困惑する。
「世川、さん……?」
「ねー周太くん?採取はできなくていいからさ。私の、恋人になってよ」
息を呑む。
世川さんの声のトーンは低いまま。甘い甘い声で、とんでもないことを言う。
「なに、言って」
「…………」
その顔を覗き込もうと、細い肩を軽く押す。驚くほどすんなりと離れた世川さん。不意に合った目は、とても澄んだ色をしていた。
「……きひっ、なーんてね!驚いた?どきどきしたぁ?」
ふっと雰囲気が緩み、世川さんはいつもの笑顔でからかうような言葉を吐く。
「え、あの、世川さ」
「あれ?本気にしちゃったぁ?まぁ嘘だよね!わたしと周太くんとか、住む世界違い過ぎーってね」
グサリと刺さる。
当たり前のことだ。世川さんの興味の対象は常に僕の髪にある。僕自身にはない。分かり切っていること。ずば抜けた才能を持ち、成績は校内どころか国内トップクラス。そもそもこの学校に通うことすら疑問に思われている正真正銘の天才。大した才能を持たない僕とは住む世界が違うのだ。それに、僕は彼女を恐れている。僕自身に興味を持たれていないことに傷つく理由がない。理由が、ない、のに。
もしかすると、笑っているようで笑っていない彼女をどこかで哀れんでいたのかもしれない。天才と自称しつつ誇らしげでない彼女に、髪色の異質さで周りから線を引かれていた僕を重ね合わせて、勝手に同情していたのかもしれない。彼女と僕は全く違うのに。
「そう、ですよね」
僕は彼女から逃げ出した。
もしかしたらと思っていたのだ。彼女が僕の髪に興味を持って、付きまとい始めてから暫く経つ。もしかしたら、彼女はほんの少しでも僕に心を許してくれているのではないかと思っていた。人から奇異の目で見られても決して己を曲げない彼女。強くて、けれど、どこか脆い雰囲気のある彼女。僕はそんな世川さんに、怯えながらも憧れていたのだ。いつかその本音を聞かせて欲しいと、そう、思い上がったことを考えていたのだ。
それから、僕は今まで以上に世川さんを避けた。
世川さんはそんな僕になにかを感じたのか、徐々に僕に絡むことをやめていった。少し意外だった。世川さんは僕の事情などお構いなしにちょっかいをかけてくるだろうと思っていたからだ。世川さんが僕をからかうのはいつものことだし、あれも僕にとっては重大でも彼女にとってはそうでないと思っていた。彼女は一体何を考えているのだろうか。
僕は思った以上に彼女を知らない。そんな事に落ち込むくらいには、あの日々を楽しく思っていたのかもしれなかった。
驚いた。
久方ぶりに見た世川さんは、いつになく硬い表情をしている。買い物を頼まれて出た先の、人気のない公園の片隅に彼女はいた。一人ではない。きっちりとしたスーツ姿の、強面の男が彼女の前に立っている。どことなく、世川さんに雰囲気が似ている気がする。父親だろうか。
「成果は出たのか。お前が調べたいと言うから態々あの学校に通わせたんだ、くれぐれも金の使い損にはさせるな」
「……そのことですが。彼の髪の研究は、やめようと思います」
「なに?」
思い当たる節に、僕は少し動揺した。世川さんは僕の髪の研究のためにあの学校に入ったのか。しかもそれを、やめようと思っている?
「彼はあの髪をコンプレックスにしているようです。これ以上付きまとって迷惑をかけるわけには……」
「……なんだと?」
刺すような声色に、世川さんの肩が跳ねる。先程から意外なことばかりだ。世川さんが僕のコンプレックスを気にしていることも、世川さんに怖いものがあったということも。
「ふざけるな。それこそ金の無駄だ。そいつの精神が貧弱なのはこちらには関係のないことだ。私が、今までお前のために幾らつぎ込んだと思っている。私はお前の頭脳を買ってやっているんだ。私の娘なら娘らしく、貢献したらどうだ。それともなんだ、天才だなんだと持ち上げられて有頂天になっているのか?その才を伸ばしてやったのは誰だと思っている。お前はそれに見合う結果を出すべきだとは思わんのか」
「……ですが、」
「口答えするな!……ったく、少し頭が回るからといって調子に乗って……親を言い負かして良い気になるような性格は一体誰に似たんだ」
「……」
世川さんは、唇を噛んで俯いた。そんな彼女を見る父親と名乗る男は、とても娘を見ているとは思えない憎々しげな瞳をしている。
僕は、恐ろしかった。
世川さんの父親らしき人の考え方がこれっぽっちも理解できなかった。娘に恩を売って才能を買い取る。そこには愛情は一滴も含まれていない。娘を娘ではなく、「天才」と名のついた道具として扱っている。そんな風に考える父親は、僕とは全く別の生き物のように感じられて、どうしようもなく恐ろしい。
そしてなにより。
そんな父親に対して何も言わず俯く世川さんが。常の、笑っている時のものよりさらに冷たく静かな眼を伏せる世川さんが。まるで、まるで全てを失くしてしまったような世川さんが、僕には恐ろしくてたまらなかった。
僕は、恐怖のあまり走った。
「世川、さん!」
ぱっと顔を上げる世川さん。駆け寄る僕を視界に入れ、その瞳が揺らいだ。やっと世川さんの感情を見つけた僕は、幾分か恐怖が和らいだ心地がした。
「なんだね、君は」
突然走り寄って来て息を整える僕を訝しげに見るスーツの男。僕はなんと言えば良いかわからず、結局言葉を探すのを諦めた。外出の時にはいつも被っていた帽子を取る。現れた髪色に、彼は目を瞬かせた。
「そ、その……はじめ、まして。彼女と同じ高校の高瀬周太です」
宜しくお願いしますという言葉は、社交辞令だとしても全く宜しくしたくないために口に出さなかった。
「ほう、そうか……君か」
にやりと笑むその顔は清々しい程に欲が表れている。子供相手に隠す必要はないと思ったのだろう。
「……はい、その、研究の件でお話していらしたようなので、もしかすると僕も関わりがあるかもと思いまして……」
「ああ。君はどうやら研究を嫌がっているらしいが……」
男は懐に手を入れる。膨らんだ財布がちらりと見えかける前に、僕は言葉を発する。
「いえ、大丈夫です。研究は、続けてください」
かすかに息を吸い込む音が聞こえてそちらに目をやると、世川さんが目を見開いている。それを確認して、改めて目の前のスーツに向き直る。
「なんだ、そうか。君は素直な性格なようだ。君が娘のような頭脳を持っていれば良かったのだがな」
良かった?都合が、だろう。
どうやら彼はデリカシーという概念自体持ち合わせていないらしい。ふつふつと煮え滾る何かを感じながら、僕は笑顔で言葉を続けた。
「それは、光栄ですね。ところで、僕は少し彼女に話があるのです。お時間を頂いても宜しいでしょうか」
「ああ、丁度話も終わったところだ。私は仕事に戻る。自由にしてくれ」
「ありがとうございます」
僕は、世川さんの手首を掴んで、その場を辞した。本当なら会釈の一つもするところなのだろうが、正直あの男に下げる頭はないと思っている。自分がここまで怒ることが出来たとは思わなかった。自分の心の動きに困惑しながらも無言で歩き続ける。
「……おっどろいたー」
不意に、世川さんが声をあげた。僕は足を止め、その細い手首を離す。
「す、すみません……余計なことをしました」
「んー?別にー?」
解放された手首をぐるぐる回し、世川さんはいつもの調子で返事をする。
「……アレさ。父親なんだよねー、残念なことに。いやぁ、面白いぐらいにクズだよね。でもああいう奴ほど上手いことお金を稼ぐんだぁよ。やっぱね、才能ある奴って、反対にどっかしら欠けてるんだよなぁ」
僕は、飄々と話すその言葉に何か含むものを感じ、思わず彼女をまじまじと見る。世川さんはきひひっと笑うと、首をひねって僕を見る。
「で、別に話はないんだよね?じゃあわたし、いくとこあるからさ。ここで解散して良い?」
「あ……は、い」
頷くと、世川さんはくるりと踵を返した。
「じゃあねぇ周太くん」
遠ざかる華奢な背中。
僕は。
……僕は……。
「……なんだろ、今日は周太くんに驚かされデー?」
語呂悪っ、と笑いながら、世川さんは足をぶらぶらと無造作に動かす。
「何、やってるんですか」
嫌な予感がした。世川さんの言葉が何故か妙に引っかかった。単にそれだけの理由で、僕は彼女の後を追いかけた。
彼女は、適当な足取りで、適当に選んだ様子の建物に入り、適当に階段を登って。
今、屋上のフェンスの上に腰掛けている。
彼女の座る丁度真下あたりに揃えられた彼女の靴が置いてある。僕の視線に気づいた彼女は、「あぁ、これってテレビの創作らしいけど、分かり易くて良いよねぇ。警察に真犯人探させるような無駄骨折らせないですむしさ」と笑う。
僕は、何を言えば良いのかわからなかった。言いたいことは多すぎるほど多いのに、その中に彼女に影響を与えられるような言葉は何一つないような気がした。
暫く、彼女は空を眺めていた。沈黙は穏やかなのに、僕の心臓は苦しい程に音を立てている。
「何で来たの?」
彼女はもう笑っていなかった。
「……なんとなく、嫌な予感がした、から……」
僕の方を振り向かずに、彼女は首をかしげる。
「嫌な予感?んー、万が一、私がこうすることを分かっていたとして。それって周太くんにとって嫌なことなの?」
「……え?」
「だって周太くん、私のこと嫌いでしょ?」
静かな、静かな声だった。あの時と同じ。僕と世川さんの名前について話していた時と同じ声だ。単なる事実を淡々と語っているような、その実奥底にしまいこまれた激情が染み出しているような声。
「コンプレックスにずかずか割り込んで、気持ち悪いほど髪の毛に執着して、ことあるごとに絡んで、告白したかと思えば嘘でした!いやぁ、我ながら引くほど嫌な奴だわ。これで好きとか言ったら周太くん変態だよ。いや、ほんと引くレベル」
世川さんは、足をぶらぶらさせる。ブランコを漕ぐように、確実に体を揺らすように。
「……私ってさぁ、ほら。天才だから。すっごい恵まれてるらしいよ?父親はクズだけど金持ちだから好きなように研究させてくれるし、母親はクズだけど美人で家事もきちんとやるし子供に手をあげないし?そうそう、両親とも揃ってるしね。一人っ子だから甘やかされてるし?おまけに私自身は母親に似て美人だし他人が妬むほどの頭脳の持ち主。こんなん文句言ってたらバチが当たるよねー。世の中には、もっと恵まれない人達がいぃっぱい居るんだからねぇ」
他人事のように、自分がいかに恵まれて居るかを語る世川さん。自慢のように紡がれる言葉は、どんどん彼女自身を蝕んでいるようだった。
「天才ってだけで何でも許されんだって。恵まれない人達にとっては私は何でも持ってる人なんだって。私が話す言葉は全部彼らを哀れんだ同情だって。私は天才だから傷つかないし、飄々としてるから常に人を馬鹿にしているんだって。そうだよねぇ、私って天才だからさぁ」
足を前後に揺らすのにあわせて、彼女の体はリズムを取りようにぐらぐら揺れる。楽しげに揺れる。軋んだフェンスが彼女の笑い声のようにきししと音を出す。
「私は死んだら駄目なんだってさ。国家の損失だってさ。きひっ、私が死んだら皆が損する。私の頭は皆のためのものなんだってよぉ」
すごいすごい、プレッシャーがすごい、と彼女は笑う。
「いや、居るでしょう。私位の頭なんて、どっかに居る居る。国家って。私死んでも国は滅ばないよ。いやいやいや。世界見てみ?世界広いって。今の時代それこそ国のトップが亡くなった所で世界は回るわけですよ。いやぁー大げさ」
だからさ。
彼女はこちらを振り返ってまた笑った。
「だぁれも私を仲間に入れてくれないこんな世界なんて、別に見限った所で誰も損しないよね?」
きしっ、とまたフェンスが軋む。
「それどころか、もしかすると周太くんにとっては得になるか?煩い奴が居ない静かな生活が待ってるよ!」
彼女が少し前に上半身を傾ける。
その時の僕は怖くてたまらなかった。
今までの比ではない。勿論、彼女の父親に対する恐怖なんて可愛いものだ。
終始笑顔で独白する彼女。彼女の心は、今までの人生の中で既に限界までぼろぼろになって居たのかもしれない。冷えた目で笑って、天才だと自称して居た彼女。それこそ、それは自傷でもあったのかもしれない。
僕には彼女の気持ちがわからない。
天才と崇められる気持ちも、それを疎む気持ちも。疎まれ蔑まれていた僕に皆から褒め称えられ妬まれる気持ちは分からない。彼女にも、きっと僕のような人間が人を妬む気持ちが分からないだろう。
それでも、僕も彼女も傷ついていた。それは同じだ。
そして、「持っている」人間に同情する人は酷く少ない。分かり易く可哀想な僕と違って、彼女はどんなに訴えようとも、その悲しみを自慢としか受け取られなかっただろう。天才が故の悲しみは凡人にはわからないと初めから線を引かれる。僕だってそう思っていた。彼女は天才だから僕とは違うと線を引いた。
怖い。
怖い、怖い。
握りしめた拳は見た目にもわかるほど震えてしまっている。
彼女は笑っている。
「目の前で、ってのは優しい周太くんには刺激が強いかなぁ。まぁでも、迷惑かけたお詫びってことで。受け取ってよ」
そうして世川さんは、手を。