第四話 ヒーローと捕らわれし姫君
ヒーローとは、弱きを助け悪をくじく正義の象徴。
もし一般人に悪の魔の手が忍び寄ろうものならば、その身を犠牲にしてでも守り抜こうとする。そんな勇気ある存在として描かれることもそれなりにある。
しかし、全てのヒーローがそうである保証はどこにもない。
「これで五百個目だな。よーしよし」
KTHの円卓にて、永山はちまちまとした作業を行っていた。
奴の監視役である美江はというと、その姿を冷ややかな眼差しでじっと見ていた。
「ねえ、KTHまで来て何やってるわけ」
「内職だ。自転車のベルを作るのって、結構美味しい仕事なんだぞ」
永山はご機嫌な様子で言うと、手元にある完成したばかりのベルをチリン♪ と鳴らした。
「何が美味しい仕事よ。ヒーローやっててそれなりの給料をもらってるくせに。そんなバイトとか内職とかの掛け持ちまでして、一体いくら稼いだら気が済むのよ」
「いくら稼いでも気は済まねえなあ。いいか? 金と空気はどれだけあっても困らねえものなんだ。てことで、俺はこれからもずっと稼ぎ続けるのさ。はっははは!」
「……」
この、金の亡者め。
美江は、心の中で軽く毒づいた。
永山は雇われ者であるとはいえ、この地域を守るヒーローなのである。だがこの男、言動はいちいち汚い、発想が外道がかっている、おまけにとんでもないくらい金銭欲が強いという、正義の象徴感ゼロな人物なのだ。数少ないヒーローらしい部分といえば、比較的端麗な容姿と並外れた運動神経くらいのもので、そこを加味すると余計に物悲しい。はっきり言って、こんな男の監視など破格の高給がなければやっていられない。
「いいか、世の中金さえあれば大体の物は手に入るんだよ。金さえあれば、お望み通りの人生が手に入るんだ。どんなものでも、何でも手に入る」
手を休めぬまま永山は語るが、奴は得た金を何かに使っているところを一度も見せたことがない。服も新しい物を買わずに高校指定のジャージを着回ししており、持ち物も内職の道具か安物ばかり。さらに言えば、金の亡者にありがちなギャンブル好きという要素や、色恋沙汰にうつつを抜かす様子さえ全く見受けられない。
永山が稼ぎまくっている金が一体何に使われているのか。それは、美江にとっては学校の七不思議などよりも気になって仕方のない謎であった。
「ふふふ、甘いよ永山君。世の中にはね、お金では手に入れられないものもあるんだよ」
事務机の方から、何やら重々しいトーンの声が聞こえてくる。
声のした方を向くと、そこには画用紙を持った黒沢がどんよりとした表情を浮かべる姿があった。その暗い面持ちのせいか、心なしかいつもよりどっと老け込んでいるように見える。
「どうしたんですか黒沢さん。乙姫様からもらった玉手箱でもうっかり開けちゃいましたか」
「違うよ。どっちかというと、パンドラの箱を開けた感覚に近いかな。はあ……」
黒沢は永山の軽口にすかさず切り返し、手の中の画用紙を見つめながらやけに湿っぽい嘆息をついた。
「お金さえあれば手に入るってものも、そりゃあたくさんあるさ。でも、いくらお金があっても、離れていってしまうものだってあるんだよ」
暗い。あまりにも、今の黒沢は暗過ぎる。普段の軽い感じはどこへやった。
明らかにおかしい様子に困惑した美江は、原因を突き止めようと黒沢にそっと近づき、彼が持っている画用紙をのぞき込んだ。
「あ……」
その瞬間、一連の事情の察しが嫌でもつくこととなった。
画用紙には幼い子供が書いたと思われる少々拙い字で、こう記されていた。
『パパへ。ゆかりのうんどうかいにきてくれるっていってたのに、おしごとできてくれなかったね。ゆかりは、パパといっしょにおやこつなひきにでたかったです。ママもおこっています。はっぴょうかいにもきてくれなかったし、いっしょにおでかけもあんまりしたことがないのでさみしいです。パパは、ゆかりのことがきらいなの? ママもおこっています。ゆうきおにいちゃんも、パパといっしょにあそびにいきたいっていってたよ。ママもおこっています』
おそらく、黒沢の子供からの手紙だろう。普段仕事ばかりで遊んでもらえない子供の不満が、ここまでかというくらいにぎっちり詰まっている。
……『ママもおこっています』というフレーズがやたらと出てくる部分については、かなりの悪意が感じられるが。
「これ、娘さんからの手紙ですか」
「あー……うん。今日、仕事に使う書類を出したらそれが混ざっててね。多分、香織が……いや、何でもない。運動会だとか、学習発表会だとか、親としては当然行きたいよ。家族とレジャー施設みたいなところに行って、思い出作りに時間を使いたいさ。でもこの仕事、全然休暇が取れないんだよ。まあ、その分高給だけどもね。うう、このままだと家族の心が僕から離れていっちゃうよ。特に、香織の気持ちは確実に……ああっ! こっちだって好きで子供達との約束を破ってるわけじゃないのに。地域の平和がなんだ。僕の家庭の平和はどうなる!」
黒沢はヒステリー気味に叫ぶと、豊かな頭髪をバリバリとかきむしった。
いくら地域の平和のためであるとはいえ、犠牲になっているものがあると思うと何だか切ない。
「はいはい。黒沢さんの家庭のヒーローは俺じゃなくて黒沢さん自身なんですから、せいぜい頑張って下さいよ。ま、黒沢家がどんな結末を迎えようとも俺の知ったことじゃないですけどねー」
永山が内職を続けながら適当に答えると、黒沢の頬がピクッと引きつった。どうやら、彼の心の地雷を踏んづけてしまったらしい。
「ずいぶんと他人事みたいに語ってくれるね。永山君」
「だって、俺にとっては他人事ですもん。仕方がないじゃないですか」
「あのねえ、僕の仕事がやたらと増えてるのは誰のせいだと思ってるんだい。君が怪人をとんでもない手段でばかり倒しまくるもんだからね、KTHの存在を知る極一部の自治体や団体から大量の苦情が来るんだよ。僕はね、日頃の雑務に加えてそういった苦情への対処とかも全部一人でやってるの。わかる? この苦労。残業とか、休み返上が当たり前な状態まで追い込まれちゃってるわけだよ。君をヒーローとして雇ってしまった僕にも多少は要因があることも百歩譲って認める。でも、君自身にも問題はバッチリあるんだからね!」
「そんな長ったらしい台詞を、よくもまあ噛まずに言えましたね。そこだけは称賛に値しますよ。んー……じゃあ、黒沢さんの家庭不和の原因となってしまっている罪滅ぼしに、家庭の平和を守るためのアドバイスを一つ。子供の運動会に参加できないなら、夜の運動会には積極的に参加した方がいいですよ。手を抜かずに全力でやれば、奥さんの心は戻ってくるんじゃないですかねえ」
「う、確かに最近はご無沙汰だったかも……って、何の話をさせるんだい。そういう話は」
「ちなみに、一番力を入れるべき競技は組体操ですよ。愛の力で大技を決めればですねえ」
「だから、もういいって!」
多分、永山が言っていること自体はそこまでえぐい部類のものではないのだろう。だが、その言い回しが妙にねちっこく、嫌でも卑猥な方に向くように聞こえてたまらない。耳と脳が実に不愉快だ。
美江がこのやりとりに対し眉間に深いしわを作った直後、黒沢のパソコンから甲高い電子音が流れた。もはやお馴染みとなった、怪人出現の合図である。
「あ、出たね。怪人……」
黒沢は気苦労からすっかり意気消沈しながらも、いつもと変わらぬスピードでパソコンを操作する。瞬く間に、画面に怪人に関する情報が映し出された。
「永山君、ちょっと」
「はい?」
永山は渋々ながら作業している手を止め、パソコンまでけだるそうに歩いてきた。
「言うまでもないことだけど、怪人が出たよ。場所は、B区のショッピングモール前。さ、KTシーバーを使って変身して。転送装置で、怪人のところまで送るから」
「は?」
「変身」というワードが耳に入るなり、永山の眉がつり上がった。
「は? じゃないよ。めずらしくここにいる時くらい、ちゃんと変身して出動してよ。ほら、早く」
黒沢は変身を促し続けるが、永山はいつものように不機嫌そうな顔を作る。そこまで拒絶するほど、変身に抵抗があるのだろうか。
「だから、あの格好だけは死んでもしたくないんですってば。しかも、今回怪人が出たのはショッピングモールの前だって言いましたね? めっちゃ人通り多いじゃないですか。つまり黒沢さんは、俺にあの格好を大衆の前にさらせとおっしゃりやがるわけですか。冗談じゃない。それは、パラシュートなしでスカイダイビングしろって言ってるのと同じですよ」
「いや別に、僕は君に間接的に死ねと言った覚えはないんだけど……」
永山は普段からありとあらゆる暴言を吐くが、ヒーロースーツの話となると言葉に含まれる猛毒がさらに強みを増す。その要因は例のスーツが尋常ならざるくらいにダサいところにあるらしいのだが、いまだにそれを見たことがない美江には、いまいちピンとこない話だったりする。
「このままだと本当に着せられかねないですからねえ、とりあえず早急に現場には向かいますよ。てことで、何か乗り物を貸して下さい。この辺、タクシー捕まりづらいんで」
「あのね、だから変身して転送されたらすぐに」
「ほーう。黒沢さんは、俺に水を張っていないプールに向かって高飛び込みをしろと」
「だから、間接的に死ねだなんて言ってないから。乗り物って言われても、僕が通勤に使っている自転車くらいしかないんだけど」
黒沢はチャリ通勤。すごくどうでもいいことを、美江は初めて知った。
「それで充分ですよ。貸して下さい」
永山は至極真面目な口調で催促をするが、今度は黒沢がいい顔をしない。何やら疑わしそうにしながら、表情をこわばらせている。
「それ、本気で言ってる?」
「この期に及んでジョークをかますほど、俺は明るい性格はしてませんよ。ほら、早く鍵貸して下さい。大丈夫ですよ、借りた自転車を勝手にリサイクルショップへ売り飛ばしたりなんてしませんから」
「それがあっさりと口から出るってことは、ちょっとでも考えたことがあるってことだよね。そんなことしたら、直接的に死ねって言わせてもらうから。……まあいいや、わかったよ」
黒沢は不毛な討論に疲れてしまったらしい。投げやりな口調で言うと、事務机の引き出しから自転車の鍵を取り出して永山に手渡した。
「どうも。じゃ、さっさと行ってきますね」
永山はニヤッと笑うと、駆け足でKTHから出ていった。
「ったく、人から自転車借りて怪人倒しに行くヒーローって。あ、花咲君」
「あ、はい」
今まで黙りっぱなしだった美江だったが、しばらく振りに声を発する機会を得た。
「外道君が何をやらかすかわかったもんじゃないから、いつもみたいに監視をお願い。特に、自転車が無事な姿で戻ってくるように」
「わかりました。じゃあ、今から向かいます。でも……」
美江は悩ましげに眉根を寄せ、口元に手を当てる。それを見た黒沢は、つられるようにして首をかしげた。
「でも?」
「あいつが運転する自転車を、どうやって追いかけたらいいものかと」
「あ……」
馬鹿みたいな身体能力を持つ男がこぐ自転車に、平凡な女の身でどうやって食らいつけばいいものか。きっと、猛スピードでまかれてしまうに違いない。
「そっか、そうだよね。花咲君に転送装置なんて使ったら、確実に怪我してしまうだろうし。うーん、今度本部に連絡して、何か発注した方がいいかな。あ、そうだ。本部から手違いで届いたローラースケートがこの部屋のどこかに置いてあったような」
「……」
どこをどうやれば、手違いで本部からローラースケートが届くのだ。このKTHという組織、時々耳を疑うような話が飛んでくるので驚き呆れてしまう。
「いいです。大丈夫です。気合で走るか、タクシー捕まえるかしますから」
「あ、そう。じゃあ、ちゃんと外道君が怪人を倒すかを監視してね。最悪、自転車はどうなってもあきらめるから。頼んだよー!」
美江は黒沢からの喜ばしくない声援を浴びながら、KTHを後にした。
B区のショッピングモール前にある通りは、大都会のものとは比べ物にならないものの、大変賑わっていた。多くの店が立ち並ぶ道を、老若男女が行き交っている。
「はあ……はあ……」
そんな活気のある中、美江は一人設置されたベンチに腰かけて息を切らしていた。
「どこに行ったのよ、永山……!」
ショッピングモール周辺までは、ほぼ問題なく辿り着くことができた。だが、肝心の監視対象である永山が全然見つからないのだ。
「この地図、いまいち役に立たないんだから」
そう言って睨むのは、携帯電話の画面である。そこには黒沢から送られてきた永山の位置情報が映っているのだが、いかんせん詳細なものとは言い難い。どうにも使い勝手が悪く、あまり役に立たない。
「はあ……」
溜め息をつきながら、小さくうつむく。聞こえるのは、車が走っていく音と人々の雑踏くらいのものである。
美江は長いこと歩き回ったせいで早くも疲れ果ててしまい、軽く目を閉じた。
「こんなにたくさん人がいるところで、一人を探し出すなんて無茶よ。もうっ」
「おい」
「大体、怪人はどこに行ったのよ。せめて怪人が見つかれば、目星くらいはつけられるのに」
「おい!」
「あっ」
周囲の雑音をかき消すような特徴的な声がようやく耳に入り、美江は顔を上げた。
そこには、どうにか無事な状態のままの自転車と、仏頂面で仁王立ちをする永山の姿があった。
「これだけ人が声をかけてやってんのに、聞こえてなかったのか? 耳遠いんじゃねえの。あ、さてはお前も黒沢みたいに若作りして、外見だけ取り繕ってんじゃねえだろうな。こう見えて実は……五十三歳だとか」
出会って早々、ぶちかまされたのは暴言だった。
走り回って上昇していた美江の血圧は、さらにカッと上昇した。
「は? 失礼ね! 私はれっきとした二十四歳よ。何なら、保険証見せましょうか?」
「そうムキになるなよ。軽い冗談だろうが」
「あんたが軽い冗談だと思っていても、他人にとってはかなりの猛毒なのよ。いい加減気づきなさいよね。で、ずいぶんとのんきにしゃべっているようだけど、怪人はどうしたの。見たところ、とっ捕まえた様子でもないみたいだし」
「あー……怪人か?それがさ、また間に合わなかったみたいなんだよな」
「は?」
また? 以前にも怪人が現れた際にヒーローが間に合わなかったという大変情けない事態になってしまったことがあったが、それをまたやらかしたというのか。
「それ、どういうこと」
「いや、厳密に言うとちらっとだけ怪人を見たんだが……ぷっ。くくく……」
「何急に笑い出してんの。私の顔見て笑ってるんなら承知しないわよ」
「誰がお前の地味な顔なんかで笑うかよ。くくくくく……」
「何なのさっきから。気色悪い」
「だ、だってさ。ひひひひひ……」
「……帰ろうかしら」
「勝手に帰るな。お前は俺を監視することで高給を得ているわけだろ? だったら、自分の職務くらいしっかり果たせ。ひいっぷぷぷ……今、何があったか話すからさ」
永山が大きく深呼吸をし、どうにかこみ上げてくる笑いを抑える。そして、落ち着いてから美江がショッピングモール周辺をさまよっていた頃に起きた出来事について話し始めた。
「今回の怪人の悪事がさ……ぷぷっ。お、お、女を口説きまくって……くくくく。お、悪い悪い。俺が駆けつけた時、ここの近くのベンチに迷惑そうな顔をした女と、頭のてっぺんにちょこんと角を生やしたホスト風のおっさんが座っててさ、そのおっさんが女をめっちゃ口説いてんだよ。内容はそこまでよく聞こえなかったんだが、あの甘い言葉を吐く姿といったら……ぶはははっ!」
「笑ってないで、ちゃんとしてよ」
「へいへい。で、面白いからちょっと陰からのぞいて見てたらさ、そのおっさん、女からビンタ食らって『キモい!』の一言と同時にフラれたんだよ。そうしたらおっさんさ、すっげえ傷ついた顔しながら霧になって消えちまって。その時の様子がまた……ひゃっはははは!」
この男、ちらっとどころか一部始終をがっつり見ているではないか。
美江は今にも笑い転げそうな永山に対し、並のブリザードよりも冷たい視線をぶつけた。
「まあ、その後周囲から聞いた話によると、そのおっさん怪人はここら辺でずっと女をナンパし続けていたらしいぜ。見た目が見た目だから、怪人じゃなくて角付きコスプレをしたホストだと思われてたみたいだけどな」
「ふーん。そう」
美江はKTHに雇われるまで、ヒーローや怪人などといった存在のことを全く知らなかった。
最初の頃は、何故こんなに目立ってしょうがない者達のことを今まで認識していなかったのだろうと疑問に思っていたものだったが、ここ最近になって何となくその理由がわかってきたような気がしていた。自分を含め、この地域に住む人々はヒーローや怪人を認識していなかったのではなく、そういった存在がいることを鼻っから信じていなかったばかりに目の前にいても見えたことがなかっただけなのだと。
まあ、現実世界のヒーローが外道であることや、現実に存在する怪人達が実にしょうもない悪事ばかりを働く奴らだと知れ渡らない方が人々も幸せだし、何かと都合がいいのも事実だが。
「おい。人のことをさっきからじっと見てんじゃねえよ」
「え、あ、いや」
永山から指摘を受け、美江は気がついた。
もう既に何度かやらかしてしまっていることではあるが、どうやら考え事をしている間、ずっと永山のことを見続けてしまっていたらしい。
「ったく、ちょいとばかし人より見てくれが良く生まれたばかりに。ジロジロ見られるってのもな、なかなか不愉快なもんなんだぞ。本当、お前俺に惚れたんじゃねえだろうな? やめてくれよ。俺、地味な女は好みじゃねえんだから」
「はあ⁉」
何故にボーっとしてしまったというだけで、上から目線かつ大変腹立たしい一言をかまされなきゃいけないのだ。
美江は憤慨し、怒りに任せて怒鳴り始めた。
「あんたみたいな最低な奴に、誰が惚れるもんですか。性格も悪いし、金のことしか考えてないし、変な声だし!」
「はあ? 声が変? わかった。お前さては、声フェチだな」
「うっ……そ、そんなことはどうでもいいでしょ。とにかく、私があんたに惚れるってことだけは絶対にありえないから。わかったわね」
「そういうことにしておいてやるよ」
永山が適当にあしらった直後、手首のKTシーバーから着信音が流れた。
「そろそろ鳴ると思ったんだ」
画面に指で触れると、そこに黒沢の曇った表情が映った。
美江は嫌々ながらも、通信内容を聞くために永山に近づいて共に画面をのぞく。
「永山君。怪人はどうなったんだい」
「ええ。今日はしっかり逃げられましたよ!」
「……」
永山の無駄に威勢の良い声に、黒沢は画面の中で思いっきりつんのめった。
「あのねえ、だから転送装置を使えって言ったんだよ。どうせ、いつぞやの怪人バンドの時みたいに間に合わなかったんでしょ」
「いや、間に合ってはいたんですけどねえ。じーっと観察している間に、怪人がいなくなってしまったというだけの話でして」
「この前よりも、もっと悪いじゃないか!」
黒沢のお怒りはごもっともである。
「まあまあ。そう怒鳴ると減りかけの寿命がさらに縮みますよ。今回の怪人は見たところ、そこら辺の女を口説きまくってるってだけなんで、そんな大した奴じゃないですよ。見ていて面白いですし、そこまで焦ることもないと思いますけど」
「面白いってねえ。何かあってからじゃ遅いんだよ。君にはそれなりの給料を払ってるんだからさ、その分くらいは働いて欲しいもんなんだけど」
「へえ、そうなんですか? 俺は、給料の分はしっかりと働いているつもりなんですけどね」
「?」
永山は何かを企んでいるような含み笑いを作った。KTシーバーのカメラ部分にはテープが貼ってあるはずなのだが、黒沢はそれを目視したかのようなタイミングで眉をひそめた。
「まさかと思うけど、給料上げろって言ってる?」
「ご明察。流石、聡明な黒沢さんは理解が早い」
「褒めても無駄だよ。悪いけど、君の給料を上げる気は全くないから。君がせめてもう少し真面目で、正義感が強くて、心持ちが良くて、外道を匂わせる要素がないような人だったら考えないこともないんだけど」
「それのどこがもう少しなんです? 不満ばかりじゃないですか」
「こういうことを言われたくなかったら、そんな風に言われないような人間になるように努力してね。ははははは」
画面の中で笑う黒沢だが、目だけは恐ろしいくらいに正直過ぎる。その瞳には、全くと言っていいほど情がこもっていない。
「ちっ……わかりましたよ。給料の話はまたそのうちということで。じゃ、今日の任務はこれで終了ということでいいですね。俺、そろそろバイトがあるので切りますから。以上」
永山は不機嫌そうにしながら通信を切ると、美江の方に顔を向けた。
「おい、一つ頼まれて欲しいことがあるんだが。いいか」
「な、何?」
「黒沢の自転車、KTHに返しておいてくれないか」
「は?」
何を言っているのだこいつは。何故に監視役が、そんなことをヒーローに頼まれなければならないというのか。
美江の表情は、あっという間に不快の色を示した。
「どうして私が。あんたが借りたんだから、自分で返しなさいよ」
「言っただろ、これからバイトがあるって。ここからバイト先に行ったら近くてさ、今から返しに行くのは面倒なんだよ」
理由が身勝手な上に、それはとても人に物を頼む態度とは思えなかった。
「知らないわよ、そんなの」
「今言ったんだから、ちゃんと知っただろ。ほら、これが自転車の鍵だ。じゃーな」
「あ、ちょっと!」
強引な屁理屈を置き土産に、永山は俊足を活かして人混みに紛れていってしまった。
あまりの速さに面喰ってしまったせいで、美江には文句をつける時間すら与えられなかった。
「あんな奴がヒーローとか、本当笑えてくるんだけど」
本日のヒーロー観察日記。地域に出没した怪人を見て腹筋崩壊。つまり、あいつは何の活躍もしていない。
一人ポツンと取り残された美江は、目の前に佇む自転車を一瞥してから溜め息をついた。
ヒーローに大笑いされた怪人の情報が再びKTHに舞い込んだのは、それから一週間後のことであった。
「ええっ!」
パソコンに届いた情報を確認するなり、黒沢はすっとんきょうな声を上げた。
「どうしたんですか」
いつものようにKTHに待機していた美江は、すぐにパソコンの元へと駆け寄った。
「出たんだよ、怪人が。ほら、あの一週間前の」
「ああ。あの、女性を口説きまわってたっていう……」
「そう。しかもそいつ、とうとうでかいことをやらかしたみたいだよ」
「で、でかいこと?」
美江が首をかしげると、黒沢は真顔を作ってからこう言った。
「その怪人、一般人の女性を一人連れ去ったらしい」
「えっ!」
女性を拉致するだなんて、今まで現れた怪人の中で一番大きな悪事を働いているではないか。
「あの時外道君が手を打たなかったのが全部悪いんだよ。全く……今回ばかりはきっちり責任を取らせないと!」
黒沢はパソコンを操作し、永山に連絡を入れる。
ヒーローの失態に腹が立っているのか、キーボードを叩く指の力がいつになく強い。
「永山君。聞こえてないとは言わせないよ」
「何スか、人のバイト中に。とうとう給料を上げてくれる気にでもなりましたか」
「そんなわけないだろう。怪人が出たんだよ。君が、一週間前に捕まえ損ねた奴がね」
「あーあの一週……ぶははははっ!」
どうやら永山は、まだあの怪人のことを思い出すだけで笑い転げることができるらしい。
「全然笑いごとじゃないんだけど。君が捕まえ損ねた怪人がさ、一体何をしでかしてくれたと思う? 拉致だよ、拉致。女性が一人、怪人にさらわれたんだ」
「拉致? あの怪人、女を強引にさら……ぎゃっはははは!」
何故このタイミングで、大笑いが飛び出すのだ。
その答えに察しがつく人間は、KTHには存在していなかった。
「ここ、笑うところじゃないから。ほら、KTシーバーに本部から届いた情報を送るからさ、さっさと向かって。さらわれた女性の身に何かが起こったら、それこそ取り返しがつかなくなる」
「まあ、それもそうですけれども。でも今、バイト中なんで」
「先に言っておくけど、今回はいくら頑張っても特別手当は一円も出さないからね。君があの時ちゃんと怪人を倒していれば、こんなことにはならなかったんだから。文句や苦情は一切受けつけないよ」
「まあ、俺も大人ですからそこは考慮しますけど。でも、特別手当なしかあ……やる気が出ないなあ」
「仕事っていうのは、やる気が湧かなくてもやらなきゃいけないものなの。君だって、この仕事をクビになったら困るんじゃないのかい」
「別に、そこまで困りませんけど。もしヒーローをクビになったら、ヒーローとして働いていた時間を別のバイトに当てて稼ぎますから。それに、俺がいなくなって困るのはKTHの方でしょう? この業界、人材不足なんですよねえ?」
「う……」
パソコン越しに聞こえた永山の嫌味に、黒沢は渋い表情を浮かべる。痛いところをつかれ、返す言葉もないらしい。
「ま、今回ばかりは俺に非があるのが明らかですからちゃんと仕事をさせていただきますよ。色々な意味でやる気は出ませんがね。以上」
この一言を最後に、永山との通信は一方的に遮断された。
「黒沢さん。大丈夫ですか」
胃の辺りを押さえて苦しむ黒沢に、美江は心配そうに声をかけた。
「な、何とか」
どうにか返事はもらえたが、その声は虫の羽音よりも弱々しい。
このままだとらちが明かないと判断した美江は、どうにか話題を切り替えようと、自分の仕事の話を持ち出した。
「あのー……私もその、監視役としての仕事に移った方がいいですよね。今回は、どっちに行った方がいいですか」
「ん? どっちって?」
「いや、私の出動パターンって、ヒーローとしての任務を果たすよう促すために永山のところへ行くケースと、怪人のところに先回りして、永山が任務を果たすのかを監視するケースの二つがありますよね。今日はどちらなのかな……と」
「うーん。今日は後者のパターンでお願い。外道君、あれだけ偉そうに言ってたし、多分今回くらいはちゃんと怪人のところに行くだろうから」
「わかりました」
話を終えると、美江はパソコンに映っている怪人の位置情報を確認した。
「ここに行けばいいんですね。では、今すぐ向かいます」
「あ、花咲君。ちょっと待って」
KTHを出ようとした途端、黒沢に呼び止められた美江はビクッと肩を震わせた。
「な、何でしょうか」
「またさ、タクシーとかを使って現場まで向かおうとしてないかい」
「ま、まあ。それしか移動手段がないので」
「ふっふっふ。花咲君、今日は転送装置を使って現場まで向かってみない?」
「ええっ」
この人は、私に怪我をしろとでも言っているのだろうか。
美江は頭に浮かんだ言葉を、つい口に出してしまいそうになってしまった。
物体を指定した場所に転送することができる、現代の技術ではとても考えられない機能を備えた装置がこのKTHには存在している。だが、その装置には転送した物体が転送先の宙に放り出され、床もしくは地面に叩きつけられてしまうという、とんでもない欠陥があるのだ。そんなものを安全対策なしで使えと言っているのであれば、血迷っているとしか思えない。
「何だか、不安そうにしてるね。でも、大丈夫。ちゃんと本部とかけあって、送ってもらったとっておきのアイテムがあるから」
黒沢は得意げにニコニコとしながら、事務机の引き出しを開けて何かを取り出した。そしてそれを、キョトンとする美江に差し出した。
「?」
黒沢の手の上にあるのは、シックなデザインの腕時計としか思えない物体だった。よく見ると、リューズの部分が押すタイプのスイッチとなっている。
「こ、これは?」
「変身グッズ。このつまみみたいな部分をポチっと押すだけであら不思議。一瞬でKTH開発のスーパースーツを着ることができるんだ。まあ、これはヒーロー用のスーツより質は劣るから、運動能力はほとんど上がらないけどね。でも、耐久性の上昇率だけはこっちのスーツの方が優れてるんだ。これさえ身につければ、高いところから落ちても全然痛くないよ。象に踏まれたって、へっちゃらなくらいだし」
「……」
そんな、外国の通販みたいなノリで語られたって。それに、異常な耐久力を持つスーツを開発するくらいならば、転送装置の欠陥部分をどうにかした方がいいのではないのか。
美江は心の中でツッコミを入れつつも、同時にあることが気になって仕方がなかった。
「どうしたの。花咲君」
「いや、その。どうしても一つ気になることがありまして」
「何? 遠慮なく聞いてくれて大丈夫だよ」
「じゃあ、お尋ねしますけど。そのスーパースーツのデザインを担当したのと、永山のヒーロースーツをデザインしたのって同じ人ですか」
「そりゃあそうだよ。スーツ製作の担当者は決まってるんだから。確か名前は……あれ?」
ヒーローにボロカスに言われるスーツを作り上げた人物がデザインしたものなんて、絶対にろくなものではない。それはさぞかし、イタい代物に違いない!
そう瞬時に判断した美江は、話を全て聞き終える前に逃げ出した。
うまいことKTHから逃げ出してきた美江は、任務遂行のために町外れの廃ビルまで足を運んでいた。
「何で怪人って、こういったところにいることが多いのかしら」
五階建ての廃れたビルを目の前にして思い浮かんだのは、実に素朴な疑問だった。
知っている限りでは、怪人は悪事を働く際には街中に出現し、永山にタコ殴りにされるということもあるにはあった。だが、いざ戦いとなると、何故かはわからないがこういった人気のない場所に怪人が現れるというパターンもちらほら見受けられるのである。
お陰で美江は、ヒーローの監視役を担うようになってからこの地域の人気のない場所についてやたらと詳しくなってしまった。
「たまにだけど、怪人と永山の戦いってアクション映画みたいにすっごいことになることがあるのよね。そうなったら、周囲にも迷惑がかかって……もしかして、怪人も気を遣って出現場所を考えてるとか? まさか。特撮ドラマじゃあるまいし」
余計な妄想をさっさと切り上げると、美江はビルの中へと入っていった。
案の定というべきか、中は静まり返っており、人の気配は全くしない。ほこりが舞う屋内は、くすんだコンクリートの壁に囲まれていて殺風景。あるのは床に散乱している、浮浪者が残していったと思われるゴミの数々くらいのものだ。
こんなところ、一刻も早く立ち去りたい。すぐに家に帰って、シャワーを浴びるか風呂に入るかしたい。そう思いつつも、仕事と割り切って我慢し続けた。
「それにしても、怪人が女性をさらうなんて。現実にあるものなのね」
辺りを警戒し足を進めながら、ふと呟いた。
創作の世界の話であれば、得体の知れない悪者が美女を拉致し、それをヒーローが華麗に救い出してみせる的なストーリーは腐るほど溢れかえっている。しかし、そんなことが現実において実際に起こってしまうとは。
「怪人にさらわれるってことは、その女性はさらわれるくらい魅力的だったってことよね。つまりは、やっぱり美女? さらわれるくらい美人っていうのも、何だか罪なような感じがするけど」
ブツブツ言いながらさらに発想を飛躍させようとした、まさにその時だった。
「おとなしくしろ。そなたは皇帝の妃となるのだからな」
「いやあ! た、助けてっ」
怪人のものと思われる男の声と、拉致された女性のものと思われる声がどこからか響いてきた。
大きさから察するに、声の主の居場所はここからそう遠くはないだろう。
「今のは……あっちね」
美江は声のした方に向かい、全速力で駆けていった。そして、その先で衝撃的な光景を目にすることとなった。
「……え、あ、えーっと」
確か物語の黄金パターンというものは、悪者が何らかの理由で美女をさらい、それをヒーローが救う。そんな感じではなかっただろうか。でも、これは……。
「何だお前は。地球人が何の用だ」
角を生やした怪人と思しき男は、総合的に見るとホストっぽい中年男性という雰囲気であるが、やや険しい顔立ちをしているため悪者に見えないこともない感じの風貌をしている。しかし、美江の困惑の対象はそれではなかった。
「えーっとお」
その怪人の腕の中で震えている女性は、文章ではとても表し難い……いや、厳密に言うと、文章で表すにはあまりにも忍びない容姿をしていた。
口に出して表現することはきっと簡単だろう。だが、美江はそれを実行したくはなかった。
それを行ったら最後、人として何か大切な物を失う。それくらいのレベルの暴言を吐くことになる気がしてならないからだった。
「用がないのであれば、さっさとここから立ち去ってはいただけないか。私は、彼女とゆっくり話をしなければならないのだ」
衝撃の果てに思考がぶっ飛びかけていた美江であったが、怪人の一言でどうにか現実に引き戻された。
「あ、あ、貴方ね。街で女性を口説きまくった挙句に、拉致までした怪人っていうのは」
「口説いた? 失礼な。私は、我が故郷であるナーゾノ星の皇帝にふさわしい、美しい女性に声をかけ、皇帝の妃になってくれるよう頼み込んでいただけだ。彼女を強引にここまで連れてきたのは事実だが、彼女の美しさであればきっと皇帝も満足してくれるはず。そう思い、場所を変えてじっくりと説得を試みているというだけなのだ」
どうやら、怪人が女性をナンパして回っていたというのは永山の勘違いであったらしい。しかし、気になったのはその部分ではない。
「う、美しいって……」
美江は自分の目がおかしいのかと思い、何度も拉致された女性の方をじっと見る。
……駄目だ。いくら見てみたところで感想は変わらない。やっぱりコメントに困る。
「助けて、お願い……」
女性は、悲痛な表情で訴えかける。不安と恐怖に襲われているせいか、美江の複雑そうな様子は気にも止めていないようだ。
「助けたいけど、私じゃあどうにも」
つい勢いで怪人の前に出てきてしまったが、今の自分にはどうすることもできない。
軽率な行為をしてしまったことに、美江は今更ながら気がついた。
そういえば、あれから結構時間が経ったというのに、まだ永山は現れない。一体、どこで何をしているのか。
「やっと着いたか。やれやれ」
「!」
一人怪人を前にしてオロオロしていたところ、靴音と同時にかったるそうな声が背後の方から飛んできた。この声は間違いない。だいぶ時間がかかったが、ようやくヒーローのお出ましのようだ。
「遅いわよ。今まで何やっ……」
監視役として、今日こそは何かガツンと言ってやろう。
そんなことを考えながら振り向いた美江であったが、その瞬間、再び思考が変な方向へとぶっ飛ぶこととなった。
「どうした、地味っ子。せっかくのヒーローのお出ましに、その顔はねえだろ」
永山は特に何事もないように、清々しさを感じさせるほど平然とした態度で言い放った。それがさらに、場の空気の不調和を増幅させる。
「だ、だ、だって」
これを見て、絶句しない人間を探す方が大変に決まっている。
のどまで出かけた言葉であったが、すんでのところで引っかかり、口から飛び出すことはかろうじてなかった。
美江が目にしたもの。それは、メイドが着るようなフリフリのエプロンやスカートを身につけた永山という、おぞましくシュールなものだった。頭にはヘッドドレスをつけ、顔には軽くではあるものの、化粧までしている。
「あ、あんたにそんな趣味があったなんて」
「馬鹿野郎。誰が好き好んで女装なんかするか。さっきまでオカマバーでバイトしててさ、着替える間も惜しんで駆けつけたもんだからこんな格好なんだよ。いい金になるから続けてるけど、やっぱスカートってのはヒラヒラしててうっとおしいなあ」
地域を守るヒーローよ。あんた、オカマバーでもバイトしてたんかい。
「あ、誤解されたくないから断っておくが、俺は普通に女好きだからな。全くもって、そっちの気はないから安心しろ」
「そう。わかったわよ」
非常にどうでもいい情報が二つほど手に入ったところで、美江は適当に返事をしてからひどく脱力した。
「何をさっきからごちゃごちゃとしゃべっている。さっさと立ち去れ、地球人」
先程から放置されっぱなしの怪人が、険しい顔つきで永山のことを睨みつけた。かなり苛立っているらしく、このままだと何かをやらかしかねないことは誰が見ても一目瞭然である。
「はあ? 誰がわざわざこんな恥ずかしい格好で駆けつけておいて、何もしないうちに帰るか。ヒーローとしての仕事をきっちりこなすまで、俺はてめえに背中を見せる気はねえよ」
めずらしくそこそこまともな台詞を言う永山であるが、普段の素行の悪さにメイドさんルックが相乗されてみじんも説得力がない。
しかも、ここでさらに事態をわけのわからない方向へと持っていく発言がぶち込まれた。
「ヒーロー? ほう、お前が仲間をあの手この手で痛めつけているという、ヒーローという奴か。噂には聞いていたが、まさか女だったとは」
「えっ」
怪人が真顔で言い放ったのを聞き、美江は自分の耳を強く疑った。
永山の容姿は、男として見れば良い部類に入る。だが、三白眼気味の目つきに精悍な顔立ちという中性的要素がゼロに等しいマスクのせいか、女装したところで全然女には見えないのだ。いや、むしろ女に見えないどころか、それなりに整っていると考えられる容姿を台無しにしていると言ってもおそらく過言ではないだろう。
拉致した女性を美しいと言い切るところといい、女装で現れた永山を本気で女と勘違いするところといい、この怪人には美的センスというものが存在していないのかもしれない。
「俺を見て女だって思った奴は、多分てめえが初めてだぞ。てめえの顔についてる、その目は飾りか?」
永山も呆れ返っているのか、眉を引きつらせながらきつめの毒を吐いた。普段ならば暴言レベルにも思えるのだが、今回ばかりは的を射ている。
「何を言う。もしこの目が飾りであったならば、私はこの美しき女性を溢れかえる地球人の中から見つけ出すことはできなかっただろう。街で多くの女性に声をかけてきたが、彼女が最も美しい。こうして、手荒な手段に打って出る価値があるほどにな。そんな彼女を見つけ出した私の目は、断じて飾りなどではない!」
飾りだ。その目は、絶対に飾りに違いない。果たしてナーゾノ星の皇帝とやらも、この女性を妃として勧められて納得するだろうか。
美江はもう口の中までこみ上げてきている言葉の数々を、残る数ミリの良識と理性で必死に抑えた。
「ぷっ……くく。はっははは! だ、だ、駄目だ。今まで耐えてたが、やっぱり笑える。ひいっ……ひははははは!」
永山にはそういったことに関して働かせる良識や理性は備わっていないらしく、とうとう腹を抱えて笑い始めてしまった。
一週間前に奴が何を見て、どういった理由で笑い転げていたのか。今となっては何となく想像がつくが、この場で大笑いするというのはいくら何でも非常識ではないだろうか。
「ちょっと! 笑ってないでいい加減ヒーローらしく仕事しなさいよ。あんまりひどかったら、黒沢さんに全部報告するからね」
「ヒ、ヒーローらしくったてさあ、俺はアレを助けないといけないのか? 普通ヒーローが助けるのってさ、とびっきりの美女ってのがセオリーだろ。そ、それが、実際にさらわれたのが……ぶははははっ!」
今回に限り、奴は自分に正直過ぎるというだけで間違ったことは言っていないのかもしれない。それでも、この態度は女性に対し失礼にもほどがあるのだが。
「助けて下さい……私このままだと、どこか遠いところに……うっうっ」
女性はとうとう極限に近い心理からか、すすり泣きをし始めてしまった。数々の無礼な発言や態度のせいで泣き出したのではないだけ、まだマシであるが。
「うはっははは!」
永山はというと、まだ大声で笑い続けていた。物事には、限度というものがある。ここまでひどいと、もはや下衆以外の何物でもない。
「……チクろっと。黒沢さんに」
流石に我慢しきれなくなった美江は、わざと永山に聞こえるように言いながら携帯電話を取り出した。
「わ、わかった。ちゃんとヒーローらしくするから勘弁してくれ。ただでさえ今回は特別手当なしだってのに、給料そのものまで減らされたらたまったもんじゃねえ」
永山は金の話がちらつくなり、ピタッと笑うのをやめた。ずばり、作戦成功である。
「ったく、ヒーローらしく、ヒーローらしくってしつこく言いやがって。さらわれた女ってのが、一番らしくねえってのによ」
言動の外道っぷりだけは、改善されないようであるが。
「む、ヒーローめ。彼女は渡さぬぞ」
「ひいっ」
怪人は決して放すまいと、なおのこと強く女性を拘束する。
これでは女性に当たる危険性があるため、うかつに攻撃を加えることができない。普通の精神の持ち主であれば。
「そうかよ。なら……」
色々な意味で普通の精神を持ち合わせていない永山は、口角を上げてから怪人に向かって走り出した。そして、途中でスライディングの姿勢をとり、怪人に足払いをかけた。
「うあっ!」
バランスを崩した怪人はそのまま、よろよろとしながらその場に尻もちをつく。
それと同時に怪人の手元が緩み、女性はするりと腕から抜け出した。
「きゃあっ」
勢いあまって床に倒れ伏してしまったが、どうにか怪人からは逃げられたようである。
「あのねえ! 彼女が怪我したらどうするつもりなのよ。少しは考えて行動しなさいよ!」
見かねた美江は一応注意を促したが、永山は聞く耳を持たない。
「当てなかっただけまだマシだろうが。お前はな、少し妥協というものを知れ」
無茶苦茶な台詞を吐き捨てると、怪人に向かって本格的な武術のかまえをとった。どうやら、本気を出して戦うつもりらしい。
「行くぜ。うらあ!」
威勢よく叫ぶと、永山は立ち上がりかけていた怪人に向かって得意の回し蹴りを放った。
「くっ」
やはり相手は仮にも怪人である。地球人よりも優れた動体視力でそれを見切り、後方に避ける。
「ひいっ!」
怪人がかわした蹴りは、ビュンという風を切る音と同時に女性の近くをかすめた。
わざと狙ったのではあるまいな。そう疑う気持ちも少なからずあったものの、真剣に戦っている以上、永山に追及するのは不可能であった。
「た、助けて。助けてっ」
乱闘に巻き込まれかけた女性は、命からがら這いつくばるようにして美江の元まで逃げてきた。
美江は「もう大丈夫です。落ち着いて下さいね」と言いながら彼女の背中を優しくさすり、ヒーローの戦いを見届け続けた。
「ちっ。なかなかやるじゃねえか。この、中年ホスト崩れが」
永山はメイド服のレースをこれでもかというくらいになびかせながら、怪人にパンチを繰り出す。
懸命に戦ってくれているのはいいのだが、汗で化粧がドロドロと落ち始めているせいで顔面が大変滑稽なことになっている。
「噂には聞いていたが、なかなかやるな。だが、ヒーローとはいえ所詮は脆い地球人だ」
「うっ!」
怪人の拳が永山の頬をかすめると、そこから微かに血がにじんだ。
めずらしく、ヒーローが劣勢だろうか。
「おとなしく彼女を引き渡していれば、お前も痛い目を見ずに済んだというのに。麗しい姫を救い出そうという、英雄気取りが仇となったな」
「あれのどこが姫だよ。てめえの価値観、どこまで狂ってんだ」
黙れ外道。これ以上言うと、間接的に彼女が傷つく。
「あとな、さっきからちょいちょい入るてめえの発言さ、いちいち気に障るんだよ。……そうだ。この腹いせに、冥土の土産を聞かせてやるよ」
まさかと思うが、冥土とメイドをかけてこんなことを言っているんじゃないだろうな。もしそうだとしたら寒い、寒過ぎる。
美江が勝手に色々と考えている間に、永山は一瞬の隙をついて怪人の胸ぐらをわし掴みにした。
「ぐっ……」
苦しそうに顔を歪める怪人を、永山はグイッと強引に引き寄せる。そして、カッと目を見開き、悪魔のような笑みを浮かべた。
「俺はな、痛い目を見るためにここに来たんじゃねえ。てめえに痛い目を見せるためにここに来たんだよ!」
頭文字にヤのつく職業の方も下手をすれば青くなりそうなお言葉をかますと、それと同時にマッハの如き突きが何発も繰り出された。
「うぐっあっべふっげっ……がはあっ」
額、目、あご、首、みぞおち……放たれた拳は、全て的確に急所をとらえていた。ある意味人間離れした技と言えなくもないが、恐ろしいことこの上ない。
「があっ……うっ……うっ」
怪人は尋常ならざる痛みにあえぎ、フラフラになりながら激しくうめく。
永山はそれを確認すると、数歩間をとってから営業スマイルに似た笑みを作った。
「それでは、最後にもう一発かますとしますか。では、おくたばり下さいませ。ご主人様♪」
その言葉でしめるんかい。
そう思ったのも束の間、世界で一、二を争うくらいに邪悪なメイドさんはスカートをはためかせ、中のトランクスを丸出しにしながら怪人の股間を蹴り上げた。
「あぎゃわおうがええ……」
男にとっての最大の急所を攻撃された怪人は、文字で表記するには大変難しい奇声を発しながらその場に倒れ伏した。
相手が怪人だからって、そこまでしなくても。
「はい、これにて一件落着」
ヒーローという名の加害者は、とてもご満悦な様子であった。
「本当に、このたびはありがとうございました」
廃ビルの前で、救出された女性は永山に向かって一礼をした。
「別に。仕事だから」
メイド姿のヒーローは、耳の穴を指でほじりながら適当にあしらう。礼を言われて謙遜しているというよりは、さっさと会話を切り上げたいようだ。
「仕事と言っても、貴方が私の恩人であることには変わりありません。あの……できれば後日、改めてお礼をさせていただきたいのですが」
女性はモジモジとしながら、上目づかいで永山のことを見つめる。
迷惑そうにしているヒーローの横で、そんな姿を見た美江は気づいてしまった。彼女がこの、容姿端麗なコスプレ男に惚れてしまったということに。
「あ? お礼? いらねえよ、んなもん」
いつもなら「じゃあ、礼なら現金でいくらかよこせ」くらい言いそうなのだが、今回はそれすらしようとしない。そこまでこの男は、彼女とつながりを持ちたくないのだろうか。
「そ、そうですか。流石は正義のヒーロー。そういった欲を持ち合わせていないのですね。素敵……」
さらに誤解を招き、余計に好かれてしまった永山は露骨に不愉快そうな顔をする。恋は盲目という奴か、相手にはそれがさっぱり伝わっていないようであるが。
「では、せめてお名前を聞かせて下さいませんか」
「はあ?」
そういえば、女性の前で永山の名を口に出していなかった。だから彼女は、奴の名前を知らないのだろう。
美江はビル内での出来事を回想し、納得した。
「名前?」
「そう、お名前です。ぜひ、聞かせて下さい」
「名前か。あーっと……黒沢」
こ、こいつ。他人の名前を勝手に使いやがった。
美江は仰天し、隣りの永山に軽蔑の眼差しを向けた。
「黒沢……さん。できればまた、お会いしたいです」
「俺はできれば、二度と会いたくないんだけどな」
「それってもしかして、私がもう変な人にからまれないようにと身を案じてくれているんですか? 嬉しい……」
おいおい、その発想はいくら何でもポジティブ過ぎるぞ。
永山の言葉の真意が痛いくらいによくわかっている美江は、奈落の底より深い溜め息をついた。
「あーっ! もういい。俺はそろそろこいつを連れて行かなきゃならねえから行くぞ。じゃーな」
永山は縄でぐるぐる巻きの怪人を乗せた荷車の取っ手を掴むと、ガラガラと押し始めた。
「あっ。待ってよ!」
妙に早足で立ち去ろうとする永山を、美江は小走り気味に追いかけた。
「何だか、歩くの早くない? いつもはもうちょっとのんびりしてるくせに」
「この場から一刻も早く立ち去りたいってだけだから気にすんな。あーあ、あんなもんのためにバイトを犠牲にして、命まで張らないといけないなんて。ヒーローも楽じゃねえよなあ」
「あのねえ」
二人の背中が小さくなってもなお、見送り続けてくれている女性に対して何のためらいもなく猛毒を吐く永山には、呆れる他はない。
「あんたってさ、どこまでもヒーローっぽくないわよね」
「うっせーな。ヒーローに甘い期待を抱く方が間違ってるって前から言ってるだろ。俺だってさ、今回は結構ショック受けてるんだぜ? だって、怪人から救出しなきゃいけない女がブ」
「あー!」
「何だよ急に、大声出しやがって。気が狂ったか」
「あんた今、女に対して言っちゃいけないことを言おうとしたでしょ。絶対言わせないんだから。女に対する、NGワードは」
例え自分が言われたわけではなかったにしても、男が目の前でそういったことを口に出すのは尋常ではないくらいに腹立たしい。それが事実であろうがなかろうが、その気持ちに変わりはない。
そんな心理から、美江は永山の声をかき消すような真似をしたのだった。
「じゃあ……おかちめ」
「あー!」
「それも駄目か。なら、不器りょ」
「あー!」
「それなら、ブサ」
「あーあーあー!」
「うるせえなあ」
こいつ、どうしてここまで次から次へと悪口を考えつくことができるのだひょっとして、天性の素質でも備わっているのか?
「じゃあ、どうすりゃあいいんだよ」
「もっと、オブラートに包んで表現しなさいよ」
「うーん。なら、救出対象だった女が、美人とは言えないタイプだったことに。これでいいか?」
「まあ、セーフね」
もとい、もうツッコみ疲れた。声帯を使い過ぎて、のどがヒリヒリして痛い。
「あーあ。せめてさらわれたのが美人だったらもう少しだけやる気が出たのになあ。ヒーローが救い出すのは美人のお姫様っていう鉄則は、一体どこに行っちまったのかなあ」
ヒーローの鉄則をさんざん破り倒している男が、偉そうに何を言うか。
「あんた、最低ね。女のことをそこまでボロカスに言って、良心は痛まないわけ」
「痛むか、んなもん。それに女だって似たような立場になったら同じようなことを考えるはずだぜ。例えば、女が怪人にさらわれたとして、そこにヒーローが助けに来たとする。もし、その助けに来たヒーローがブおと……コホン、美形じゃなかったとしたら。少なくともその女は、かなりがっかりするだろうよ」
「う……」
永山の理屈が、美江の心に突き刺さる。
悲しいかな、今の説を強く否定できない自分がいるのだ。
「その様子だと、返す言葉もないって感じか? はっははは! ま、俺に惹かれる気持ちもわかるが、やたらとつっかかってくるのはよせよな」
「は?」
ちょっと待て。今サラッとはらわたが煮えくり返りそうになる一言が飛んでこなかったか。
元々歪み気味だった美江の表情が、さらに曇り始めた。
「また言ったわね。あんたになんて、みじんも惹かれてないわよ! 前々からしつこいわね。どうして私が、あんたみたいな外道に惚れなきゃいけないの」
「違うのか? おっかしいなあ。この前の一件で、絶対惚れられてるって確信してたつもりだったんだが」
「はあ?」
この前の一件とな? ますます意味がわからない。
「とぼけんなって。ほら、この前のアレの時だ。変な怪人バンドが、じゃじゃじゃじゃーんってうるさかった時の」
変な怪人バンドというのは、おそらく少し前に地域を騒音地獄に陥れた三人組のことだろう。そのやからと、永山の勘違いに何の関連があるというのだろうか。
「まだピンとこねえのかよ。ほら、俺さ、あの時そいつらボコるのにライブハウスで熱唱しただろ。その時だよ」
それを聞くなり、美江の頬がピクッと引きつった。
あの、思い出したくもない絶望的な歌唱力。この世の物とは思えない、恐怖のメロディ。
想像を絶するひどさに、美江は頭痛に見舞われた上に失神したのだった。
「あの歌の時のこと? それとこれと、どういう関係があるっていうのよ」
「関係大ありだろうが。あの後お前、どうやってKTHに戻ったか。当然覚えてるよな」
「え」
失神していたということもあり、悲しいくらい記憶にない。
困り果てたまま固まる美江を見て、永山は軽く息をついた。
「まさかと思うが、本当に覚えてねえのか? 人にあんなことしておいて」
「な、何よ。あんなことって」
「……そうか。こればかりは俺の勘違いだったみたいだな。悪かった、悪かった。もういい」
何だその態度は。余計に気になるではないか!
煮え切らない態度に苛立ちを募らせた美江は、カッとなって追及した。
「ちょっと、私があんたに何をしたっていうのよ。事と次第によっては訴えるわよ」
「何で俺が訴えられなきゃいけねえんだよ。それに自慢じゃねえけどさ、俺は今の今まで法に触れるようなことは一切したことがねえんだよ。ま、強いて言うなら立ちションくらいはしたけどよ」
「汚いわね。女の前でよくもそう堂々と……って、そんなことはどうでもいいの。あんたが至上最悪の勘違いをした理由、早く言ってよ」
「どうしてもか?」
「どうしてもよ。こうなったら、あんたが真実を吐くまでしつこく問い詰めてやるんだから」
「わかった、わかったよ。特別にタダでしゃべってやるから、キャンキャン吠えるな」
永山はすっかり化粧がはがれ落ちた頬を指先でかきながら、渋々語り始めた。
「あのな、お前がどうやってKTHに戻ったかというと、この俺がおぶって運んでやったんだよ」
「え?」
こんな奴に、自分がおぶられた?
永山を心から軽蔑する美江にとっては、想像したくもない話であった。
「きつかったぞ、あの労働は。思い出すだけで肩がこる。お前と三匹の怪人を、俺一人で運んだんだからな。怪人どもをKTシーバーで出した大きめの荷車に乗せて、荷車に乗りきらなかったお前を、仕方がなかったからおぶって歩いた。あれは、下手な土木作業よりも苦労したなあ」
こいつ、一体どんな身体能力をしているのだ。体力が、人のものとは到底思えない。
ちらほら失礼極まりない発言が混じっていたような気もしたが、まず美江が気になったのはそこだった。
「でさ。お前をおぶってえっちらおっちら歩いてたらさ、急に後ろからギュって抱きしめられたんだよ。それも、何度も何度もだ。それで、寝たフリこいてここぞとばかりに俺のことを触りまくってんだなと思ったわけだが、あれはただ寝相が悪かっただけなんだな。やれやれ」
記憶にない。そんなこと神に誓って一ミリたりとも記憶にない。
できればこの話は永山の大嘘であって欲しい。だが、こんな嘘をついたって奴に得はない。それに、嘘を言っているようにも見えない。つまり、これは受け入れがたいが事実なのだろう。
恥ずかしさと情けなさがピークに達し、美江は耳を真っ赤にしながらうつむいてしまった。
「ずいぶんとショックを受けてるみたいだな。ま、でも……」
「でも?」
永山が、いつになく真剣な面持ちを作っている。一体、何を言おうとしているのだろう。
少しばかり緊張した美江であったが、その真顔がニタッとした微笑に変わるのはあっという間だった。
「花咲ってさ、地味なわりには案外胸はあるんだな。カップはCかDってところか?」
「……!」
おぶられるということは、否応なしに身体と身体が密着するわけで、胸もその例外ではない。だが、それをわざわざ本人を目の前にして、ニタニタと嫌らしく笑いながら言うか? 普通!
美江の中で、全身に備わるマグマというマグマが大噴出した。
「こ、こ、このドスケベ! 最低!」
「いっ!」
美江は素早く永山の後ろへ回り込むと、先程奴が怪人に対してそうしたように、つま先で男の最大の急所を蹴り上げた。
流石のヒーローもこれには耐えられないらしく、額から大量の汗を吹き出しながら悶絶した。
「ふんっ」
永山の無様な姿を一瞥すると、美江は眉をつり上げたまま先に進んでいった。
「まっ待て……この野郎っ……慰謝料払えっ……」
永山は死にそうな顔をしながらも、どういう思考回路を持っているのか甚だ疑問になる一言を投げかけた。
本当にこの男は、自身の無礼を詫びるどころか、金のことしか頭にないらしい。
「慰謝料ねえ」
とてつもない剣幕を放ちながら、美江はゆっくりと振り返る。そして、服のポケットから財布を取り出してからこう言い放った。
「あんたに払う慰謝料なんて、この程度で充分よ。馬鹿!」
「いってえ!」
美江は財布から十円玉を取り出すと大きく振りかぶり、永山に向かって全力を込めて投げつけた。
奴の額に十円玉が直撃するのを見届けると、今度こそ振り返ることなく歩き去っていった。