Ⅴ 夢見る罪人の役目
目を開くと真っ白な世界。しかし、いつもと違う場所だった。円状の床。中心に大きな穴がある。その穴から魔素が流れ出してきているのが分かった。
「ここは門よ。冥界への門」
踵を返すと後ろにベアトリスとクズノハがいた。クズノハは本を持っている。
「知ってるよね? 魔素は冥界に満ちる気で、冥界にいった魂は魔素に分解されて、転生するの」
「知ってるよ。でも、竜と鬼だけは違う。僕たちや鬼は、死んだ時点で魂が消えちゃうんだ。元々は誰かの魂だったから」
僕は門をまじまじと眺めた。門の向こうは紫やら黒やらの暗い色がどろどろとしていて、詳しくはよく分からない。
「峠は越えたわね。カヌエ以外全員生きてるなんて」
ベアトリスが嬉しそうに微笑む。クズノハは隣で手に持った本をめくるだけだ。
「一番初めがカヌエだけ生き残ったからね。もしかしたらカヌエが死ぬのが一番幸せなオワリかもしれないよ」
「ならばエリスも死なねばなるまい。エリスもカヌエと脱出した」
「エリスはダメ。僕と結婚する」
クズノハが本を閉じ、ため息をついた。カヌエはいてもいなくてもいいが、エリスはいなければならない。僕たち五兄妹が最も幸せな結末に、エリスは欠かせない。
しかしそう考えるなら、サングレだって欠かせない。ロート兄さんが初めてまともに愛した雌竜だ。ならばカヌエは? カヌエだって、アマリィジュの幸せな結末に欠かせなかったかもしれない。プラタノがカヌエの代役を出来るとは思えない。最も幸せな状態にならなければ、どこかで不満が爆ぜて、いつぞやかの悲劇を繰り返すかもしれない。
「でもね、あたし、思うのよ。あの男、そんなに諦めが早い男だったのかなって」ベアトリスはゆっくりと門の淵に歩み寄る。しゃがんで、門の中をのぞき込んだ。「みんな生きてるのよ? あたしだったら頑張って生きたいわ、みんな生きてるのに、あたし一人死ぬなんてイヤだもん」
「そんな単純な話ではないだろう」
「分解されない魂だったら?」
「お前、魂にまで干渉したのか」
「してないよ。でも、そのくらい世界に大切にされてもいい存在だと思うの」
僕はいとおしそうに門を見つめるベアトリスの横顔から、門に目をやる。ここからうっかりカヌエがあの小憎たらしい笑顔で出てこようものなら、鞭で追い返してしまうかもしれない。それをのらりくらりと避けて、僕の前に来て、お久しぶりです、なんて挨拶をするのだろう。
「ね、カヌエ? あんたはもっと、しつこい男よね?」
「マリィ、知ってるかい? 僕たちは出来ないけどエルフや人間は転生するんだ。死んだ後、冥界で魂は分解され、また別の魂になってこの世界に生まれてくるんだよ。でも、たまに分解できない強固な魂の持ち主っていうのが生まれてくるんだって。その魂の持ち主は魔術を使いまくって魔素を身体に溜め込んで魔族になったり、魔族になれずに死んだら、魔精となって戻ってくるらしいよ。そう、僕たちが魔術を使ったりするときに契約したり従えたりする、あの精霊たちさ。僕が何を言いたいかわかるかな。僕は直感したんだ。カヌエはきっと帰ってきてくれるよ。だから、マリィは待ってるんだ。帰ってきてもマリィが見つからなかったら、あいつはふらふらっと消えてしまうかもしれない。だからマリィ、門に行こう」
途中まではヴェルデアスルが案内した。王族にしか立ち入りを許されていない、守護神ベアトリスのいる聖域。王城の地下深くにある。アマリィジュは恐る恐る階段を降りた。何せ、王族だけは立ち入りを許されているとはいえ、エイブラハムが子竜たちの立ち入りを許していない。延々と続く石の階段。突如として白く輝く壁が現れた。アマリィジュはおずおずと手を伸ばし壁に触れる。視界が真っ白になった。
目を開くとひたすらに真っ白な空間。円卓に男女がかけている。映写機には何も映っていない。来客に気付いたベアトリスは、目を丸くした。
「あら、マリィちゃん。ここに来るのは初めてね」
ベアトリスは立ち上がりアマリィジュに歩み寄ってしゃがむ。
「あたしはチャロアイトの守護神のベアトリスよ。そう言っても実感湧かないかもしれないけど」
「お父様からお話を聞いています! いつもありがとうございます!」
意外な名前が出たものだ。ベアトリスは目を瞬かせる。エイブラハムはよく、特に、十年前に妻のフェリシアが病死して以来、頻繁にここに通うようになった。殆どが子育てと国政についての相談であったが、そのことについて子に話しているのは少しだけ意外だった。
「それで、今日はどうしたの?」
「ヴェルデ兄様に言われたの。カヌエが帰ってくるからって!」
ベアトリスは言葉に詰まる。あの少年は無垢な妹に何を吹き込んだのか。神ならば何にでも干渉できるから、と、そう思って、後に引けない方法にでも出たのか。
「ごめんね、マリィちゃん、さすがに……死んだ人間を蘇らせることは出来ないの」
アマリィジュは目を丸くして首を傾げる。ベアトリスも目を見張った。彼女の要求は蘇生ではないのか。推察を始めようとした瞬間、ベアトリスは異常を感じた。更に下の階層……門から、高密度の魔素の塊が出てこようとしている。
「マリィちゃん! ついてきて!」
ベアトリスは走り出した。アマリィジュも追って駆け出す。察したらしいクズノハも椅子を蹴って立ち上がり、二人の後を追った。映写機の向こうの螺旋階段を駆け降りる。気ばかりが逸る。こんな経験はずっと前にもあった。門の前に立つ。アマリィジュ、クズノハがそれに続き、門を凝視する。
「アアアアアァァァァァァァ……!」
門の向こうから雄叫びが聞こえた。アマリィジュが体を震わせる。
「カヌエ!」
駆け出そうとしたアマリィジュの体を制止するクズノハ。門に飛び込めば命はない。門の中心が盛り上がる。クズノハが炎の玉を射出した。盛り上がりのドス黒い紫色の魔素の塊が霧散する。
「ま、」それは空色の目をまん丸くした。「マリィ様……?」
力が抜けたのだろう、それは再び下へと引き込まれた。短い悲鳴が鳴る。しかし少しずつ、少しずつ、体を魔素の塊からひきずり上げてくる。クズノハは再び炎の玉を放ち、上半身に付いた魔素の塊を剥がした。
「放せエエエェェェェ……!」
カヌエは歯を食い縛って必死に出ようとしている。しかし、冥界の気はそれを許さない。再び冥界に引きずり込もうとしている。クズノハが炎の玉を打ち出そうとした隙を縫って、アマリィジュが飛んだ。
「カヌエ! カヌエ!」
アマリィジュが両手を伸ばす。カヌエも左腕を伸ばす。二人の手が重なり合う。アマリィジュはしっかりと握った。カヌエも握り返した。もう放す気はない。アマリィジュが羽ばたいてカヌエを引っ張り上げる。段々と見えてきた下半身の魔素の塊を払うべく、クズノハが炎の玉を打ち込む。足も殆ど出た頃。もうすぐだ。そんなときに、強い力がカヌエの足首を引いた。アマリィジュごと引き込みかねない。
「いい加減に、しなさい!」
カヌエの足元を光球が撃った。直撃した瞬間に爆ぜた。魔素の塊が砕け散る。それだけではない。爆風が起こる。ベトリスはよろける。足が地面を離れた。後ろのクズノハがベアトリスを抱き止める。カヌエとアマリィジュも同様だった。門の向こう側の淵まで吹っ飛ばされたようだ。彼の騎士道精神は魂まで染み着いているらしく、しっかりと、アマリィジュの下に己の体を敷いて倒れている。
「カヌエ! カヌエなんだね!」
アマリィジュはカヌエの上に馬乗りになり、大はしゃぎで彼の顔を覗き込んでいる。くすみも汚れもない真っ白な長髪はポニーテールにまとめ、目の色は晴れやかな空色になっている。やはり色白な肌だが、血色が悪いわけではない。白いロングコートにマントや肩当てと、きちんとした騎士の服装をしている。カヌエはアマリィジュの頭に手を当てた。頬を緩ませ、目を細める。
「お久しぶりです、マリィ様」
馬乗りのアマリィジュはカヌエを抱き締める。カヌエはぎょっと目を丸くしたが、周辺にいた顔に王族はいなかったような気がしたのでおそらくは問題ないだろう。
「おはよう、カヌエ!」
悲しい記憶がフラッシュバックする。白い世界に残像が残る。愛剣で貫いた胸。冷たくなっていく体。起こしに来てねと言われながら、もう二度と彼女は起きないと諦めつつも頷きながら、主を看取ったあの夜。
自分の体を、霊体でしかない自分の体を強く抱き締めるアマリィジュの体を優しく抱擁する。
「それは、ワタクシの台詞です」一筋の涙が空色の瞳から溢れ出す。「おはようございます、マリィ様」
あの夜の約束を、やっと果たせた。主を抱いたのは二度目と言えるのかもしれない。俺はもう、この手を離さない。
「クズノハ」ベアトリスは俯きながらクズノハに抱きついた。クズノハはため息をつきながら天を仰ぐ。「ありがと」
「ああ」
「ほんとにありがと」
「ああ」
「すき」
「知っている」
「あたしのことは?」
「嫌いだったら手伝いになど来ない」
ベアトリスはクズノハの胸に埋めていた顔を上げ、クズノハを見上げた。目を赤くして涙を溜めている。
「全員そろったからいいのではない。お前の仕事はこれからだ」
「手伝ってくれるよね?」
「オトワカとエンジュ……あとハジメとミチルくらいには報告して来るから待っていろ。赤飯を持ってこよう」
「ふふ、早く帰ってきてね」
クズノハが顔を上げる。カヌエがマリィを抱いて浮遊して傍に来ていた。
「お世話になります、炎駒、千早」
カヌエがベアトリスとクズノハを交互に見て微笑みかけた。ベアトリスがばつが悪そうに目を逸らす横で、クズノハはフン、と鼻で笑った。
「せいぜいしっかり守ることだ」
「ハイ。今度こそは、ワタクシが守り通します」
クズノハに柔らかに笑いかけたカヌエは、視線をアマリィジュに流して愛おしさを噛み締めた。
幾度も巻き戻された世界が、新たな時間に進み始める。
従者を愛した姫君と、永遠を得た騎士のお話。
守るために己を捧げた兄君と、報恩する弟君のお話。
しきたりに己を捧げた兄君と、報復する弟君のお話。
悲劇を嘆いた妻と、悲劇を書いた夫のお話。