Ⅳ 想いの行方
王立病院には竜の医師と人間の医師が常駐している。竜の国であるチャロアイトとは言えども、チャロアイトには同大陸にある人間の国で迫害された人間や竜人も移住してくる。そうして自然と、少数であるが人間の医師の需要も供給も増えてきたのだ。
人間の国を追い出された素振りをして、人間の身ながらアマリィジュの従者となり、人間の国の者と組んで彼女を拐かそうとしたカヌエ。彼は恋人か親友か、ある名前を出されてから心変わりしたらしく、元の仲間を裏切って竜の国側についた。アマリィジュを無傷で奪還できたのは彼の働きが大きい。しかし、どんな理由があろうとも、プラタノはこの男が許せなかった。
カヌエは親しい仲であったらしい敵方のヨハンという男との交戦中、兜で素顔の見えない白の剣士に胸を貫かれた。プラタノは将軍マーシャの命で王族とその従者を王城まで送り届けた後、ブラウに任されてカヌエを王立病院に運んできた。アマリィジュは強い従者たちを連れている彼女の兄姉の元に置いておくか、カヌエに寄り添わせておくかと周囲が戸惑ったが、アマリィジュが後者を望んだ。彼らはカヌエの行く先を察していたのだろう、アマリィジュにそれを悟らせないために、カヌエのそばの付き添いを渋った。
「安全第一なら軍部でしょうが、エイブラハム様のお叱りを受けると思います。王立病院の方が安全が確保に出来るかと」
アマリィジュ見るに見かねて、プラタノはそっと口出しをした。あの裏切り者カヌエを未だにアマリィジュが思いやっているのがプラタノには釈然としないが、アマリィジュのために行動したかった。プラタノと似たような心持ちであるらしいヴェルデアスルは眉を顰めたが、ブラウとスミュルナは頷いた。ヴェルデアスルの薄い肩に手を置いたのはノワール。ヴェルデアスルも渋々了承した。その場にいた王族四人の中で、最も強い決定権を持つのは王位継承権第二位を持つヴェルデアスルだからだ。どれだけ聡明でもブラウの発言はアマリィジュの要望以下の権威しか持たない。プラタノは王族の歪んだしきたり以前に、血統や生まれた順番で上下をつける仕組みが大嫌いだった。アマリィジュに動かないカヌエを任せて背中に乗せるのは不安だったので、アマリィジュとカヌエを腕に抱えて飛び立った。
王立病院は王城と殆ど変わらない強度を持つ石造りの建物だ。壁は無機質な石が剥き出しだが、床には絨毯が敷かれている。医師の診察は短時間で終わった。あまりに短すぎるその時間は、診断結果には充分だった。プラタノは察した。医師は二つ三つの言葉で結果を幼い姫君とお付きの軍人竜に報告した。その結果にふさわしく、カヌエは一人部屋に回された。うんざりするほどの斜陽が部屋に入るので、プラタノはカーテンを閉めた。アマリィジュはベッドに顔を埋めている。カヌエは元から眩しいほどに白いだけの男だった。ただ、目だけが、狂気や恐怖さえ感じるような、作り物じみた、緑がかった空色だった。目を閉じているその顔から血色は失われている。アマリィジュは動かない。段々と日も傾いていく。
「カヌエ、眠ってるだけだよね? 明日になったら、起きるよね?」
アマリィジュは突然顔を上げて、白いカヌエの顔に語りかけた。
「マリィここで寝るから、まえみたいに起こしにきてね?」
プラタノは目を見開いた。気付いたのだ。彼女は、本当に、本当に、知らないだけなのだ。無知が医師の言葉を信じさせなかった。
「ううん、カヌエも疲れちゃうから、明日だけはとくべつにマリィが起こしにきてあげる!」
アマリィジュの笑顔は無邪気そのものだった。作り物でも何でもない。知らないということは、目の前に横たわる事実を盲信するしか出来なくなる。プラタノは奥歯を噛み締めて目を閉じた。
確かにこれは、人間と相対することを期待されていない、竜の姫君という立場なら仕方のない知恵の欠如なのかもしれない。それでも、その欠如がここまで痛ましいものになるとは。目を開いて、アマリィジュを見る。
「お聞き分けください、アマリィジュ様」
アマリィジュがプラタノを振り返る。言わなければ駄目だ。知らないままでは彼女は一生このままで生きる。命に対峙しても、何も知らず、何も分からず、目前の事象を噛み砕き理解し受け入れることさえ出来ないで生きることになる。プラタノは意を決して口を開いた。
「人間は竜と違い、死んでも体は消えません」アマリィジュの目が見開かれる。「彼は、死にました」
見開かれた目にじわりじわりと涙が浮かんでくる。溜まりに溜まった涙はぽろぽろと粒のように頬を流れた。アマリィジュはカヌエの顔を向く。震える小さな手がカヌエの顔に伸びる。右手が頬を撫でる。
「カヌエ……カヌエ、つめたい」
死んで尚そこに存在する。死んで尚手に触れられる。しかしそこに生前の笑顔も温もりもない。アマリィジュはカヌエの顔を覗き込む。大粒の涙が白い顔を濡らした。
この男が死んだら自分に従者の役が回ってきたりはしないのだろうか。プラタノはそんなことを考えたこともある。しかし、きっとアマリィジュの従者はああいう男にしか務まらなかったのだろうとも考えた。斜陽が少女と騎士を照らす。プラタノは陰からそれを見守っていた。
世界の魔素をかき回す使命を負う風女神。彼女を守る風女神近衛騎士団は、軍を持たない代わりに自衛のための騎士団の中でも、より抜きの若者から選ばれる。彼らが歩むのは栄光に輝く誇りある道の筈だった。
近衛騎士団員は八人。騎士団員随一の強さを誇るランドルフ、その親友で騎士の名門出身のアレクサンダー、東方出身を自称するサムライのトヨワカ、アレクサンダーの従兄で策略家のギディオン、ランドルフに憧れ同じ剣を使うカルティア、カルティアの親友で怜悧なヨハン、そして風女神メアリーの私生活まで支える女性騎士であるプリムローズ、ギディオンの妹で風女神メアリーと同い年のミリアム。その内、カルティアは竜の国に寝返り、ランドルフとヨハンははマシューに『貸し出』され、現在は五人となってしまった。
王竜の子竜五兄妹を引きつけ、全員殺害か捕縛する任務に失敗したランドルフとヨハンは、手ぶらで帰った。カルトの王城の会議室で、一言も発さず守護神の帰りを待った。紫紺で統一された空間に、長い大机と椅子だけが並ぶ。当然、すぐ帰ってくる筈はない。ヨハンが席を立つと、ランドルフは椅子の上で膝を抱えた。両膝に顔を埋める。
俺は、ルティを殺した。
ヨハンがどれだけルティを好いていたか知っている。
そんなルティを、ヨハンの目の前で殺した。
正常な判断力をしていたとは思えない。俺は剣を握ると人格が変わるとか、そういう障害の持ち主なのだろうか。アレクに言われた。俺はいつも本気を出していないと。俺は人を殺すことを怖がるから、対人戦で本気を出すことがないと。振り返って考えてみる。魔物に襲われたときは大半を一人で片づけられた。班員を守りたかった。魔物だってもとは野に生きる動物だった。容赦なく殺せたのは、身体を突き動かした衝動は、死ぬ、殺される、という恐怖だったのかもしれない。
あのとき、俺はルティがヨハンを殺してしまうことを恐怖したのだろうか。どちらも怖い。ルティがヨハンを殺してしまうのも、ヨハンがルティを殺してしまうのも。どちらも見たくないと思った俺が、俺という第三者を加えることで、別の結末にしようと思ったのだろうか。マシュー様にも、カルティアが裏切ったらああしろと言われていた。渋っていた俺を最終的に突き動かした衝動の正体が、分からない。
どちらにせよ、俺は友達を殺した。騎士道よりも、メアリーちゃんを守りたいという不埒な慕情と、マシューに逆らえない臆病な心に屈してしまったのだ。こんな男にメアリーちゃんの元に帰る権利はない。思わず口が裂けた。嗚咽がこぼれる。自嘲か悲哀か分からない。自分の本性が分からない。俺はどうすればいいのか分からない。分からないことだらけだ。ドアの開く音がした。ゆっくりと顔を上げてドアを見る。
目が覚めるような銀髪。アラートだった。頭に包帯を巻いている上、銀髪が赤黒く汚れている。軍服も脱いで、ワイシャツに黒いスラックスの状態だった。汚れ一つない服に着替えているということは、軍服はそこまで汚れたということだ。ランドルフは絶望の底に突き落とされた気分だった。アラートが俺から目を逸らし、視線を落とした。
「……撤退してきました。ゲイルが戦死、フォズが腕を落とされました。問題がマシュー様です。治療に手間取っていまして……錯乱も酷いので、クレハ様とヒヅキ様がついていらっしゃいますが」
「マシュー様が錯乱……? それに治療って、あのヒト、殆ど不死身なんじゃ……」
「続きは明日、ここに召集されるでしょう。それより、ヨハン君をどうにかしてください」
アラートは眉を顰め、ドアの向こうを顎で示した。
「ヨハン……?」
「酷かとは思いますが、手が空いている者の中で彼と親しいのは君だけですから。突き当たりの男子トイレ」
ランドルフはおもむろに椅子を立ち上がり、アラートに言われた通り男子トイレに向かった。ランドルフを見送ったアラートは会議室に一人になる。
「クソッ!」
怒りに任せて壁を殴る。へこみもしない。ただ拳が痛いだけだ。くらりと目眩がして、その場に座り込んだ。竜人は確かに人間よりは強い。しかし個体差があまりにも激しい。クレハ様はあんなに強いのに、私には足しかない。かき集めた魔刀も、あんな空間では味方側にまで被害が出る。竜を相手に後れをとった。クレハ様の足を引っ張った。そのせいでマシュー様やフォズが前線に出てきて、怪我をしたのかもしれない。炎の魔刀を手にしても、火力の調整ができないからマシュー様の止血の役にも立たない。
人間より秀でたところで、竜を相手にするあの方たちを支える力には成り得ないのだ。
「死にたい。……貴方のために死にたい」
クレハ様の役に立ちたい。クレハ様の愛する者全てを支えたい。願いはそれだけだ。
「ヨハン?」
カルトは何から何まで進んでいて、男子トイレは全て個室で水洗式だ。閉まっている戸がなかったので、一つずつ見ていく。一番奥にヨハンがいた。
「……何だ」
奥の棚に手をかけて前かがみになっていたヨハンがゆっくりと振り返る。ランドルフは違和感を抱く。朝見たヨハンはこんな不健康な顔をしていなかった。原因など言われなくとも分かっている。ランドルフに、ヨハンを気遣う権利などない。それでも、ランドルフにとってヨハンは友達だった。
「大丈夫、か」
「どの口がほざく」
ヨハンが鼻で笑った。酷く歪んだ微笑だ。ヨハンを直視できなくて、ランドルフは目を泳がせた。そこでヨハンの背後の袋に気付く。棚の上に置いてある袋。中から覗く白い粒。ランドルフの心臓が跳ね上がる。鼓動が早くなる。世界が揺れる。
「……ヨ、ヨハン、それ」
声が震えた。ヨハンは背後にあるものを振り返ってから、ああ、とだけ返事をした。ランドルフに向き直り、ヨハンは右手を見下ろす。
「こうでもしなければ竜に太刀打ちは出来ないからな」
ヨハンは元々皮肉屋で、鼻で笑うような、嘲笑が多かった。しかし、現在の彼の自嘲じみた歪んだ笑みはランドルフの心を突き刺すものと化していた。
「安心しろ、ランドルフ。僕は君を恨んじゃいない。薬を飲むのも君を殺すためじゃない」
それだけ言って、ヨハンは目を見開いた。口元を手で押さえたかと思うと、やはり便器に向かって嘔吐をした。
竜の魔力を抽出した薬。様々な身体能力を上げる種類ごとに細々と分かれているが、その代償の身体への負担は計り知れない。シャムニエは錯乱して自我を失う発作が度々起き、眠る時間が増え、身体が動かなくなった。カヌエは色素に変化が起き、痛覚が麻痺し、薬なしでは錯乱を起こすため、常に薬を飲んで高揚状態だった。そんな二人を間近に見せられたというのに、この男までが薬に手を出してしまった。
吐き気が収まったのかヨハンはそのままの姿勢で低い声を絞り出す。
「ルティを誑かしたあの少女をなぶり殺すためさ……! そのためには、あの過保護な兄たちも殺さなければいけないからね……」
ヨハンはランドルフを恨んでいない、など、嘘だ。これは、自分を追いつめ、周囲を恨むことで、暗に、ランドルフを自責に追い込もうとしている。
「ヨハン……! あ、あの娘は俺が殺す! お前が殺したいなら俺があの娘を連れてくる! きょうだいたちも欲しいなら俺が一人ずつ縛って連れてくる!」情けない涙声しか出ない。ランドルフはすがる思いだった。「だから、それだけはやめてくれ……! 死んじゃうぞ……?」
「無為に生きるなら死んだ方がましだ!」
「エストちゃんと婚約してんだろ……! エストちゃんを一人にするつもりかよ!」
「黙れ! 黙れッ!」
ヨハンが怒鳴る。即座に俺に踵を返す。左手でランドルフの胸ぐらを掴む。ヨハンの顔は壮絶な怒りを滲ませている。目元にはうっすらと涙さえ溜めている。
「ルティを殺したくせに! 何が近衛騎士だ! 何が友達だ! 君がいつも語っていたものなんて、全て保身と慕情で壊せる程度のものだったんだろ? 薄情者! 人斬り!」
ヨハンを再び吐き気が襲う。ランドルフを捨て、再び彼は便器に向かった。ランドルフは壁に叩きつけられる。力なくその場にヘたり込む。言い返せることは何もなかった。ひたすら嘔吐を続け、もう胃液しか出ないヨハンを眺めながら、ひたすらその場に座り込んでいた。
「落ち着きましたか」
自室のベッドで上体を起こしているマシューに湯気の立つコップを持っていくクレハ。ベッドのサイドテーブルにホットミルクを置き、クレハもマシューのベッドに腰掛ける。
「死ぬかと思った。息子の方があれを持ってるとはな」
マシューの顔の右半分は包帯に覆われている。その下にはケロイドが遺った。目も当てられない荒療治だった。マシューも細身で小柄とは言え、竜だ。竜の腕力に勝てるのはクレハしかおらず、彼がマシューを羽交い締めにした。帰ってきた当時に城にいた中で最も腕の立つ対応属性が炎の魔術師を連れてきて、マシューの顔の右半分を何度も何度も焼いた。彼もマシューを崇拝している。激痛に絶叫するマシューの顔を焼くのは、大層気が引けただろう。
「半分切り落として元通り再生したら便利だったでしょうね」
「その辺正直なんだよな、完全に元通りにするから」
審判の崖での決闘の時、エイブラハムがマシューにつけた腹の傷は上から皮膚を被せて縫いつけることで止血をした。マシューはチャロアイト王城にて体を再生したが、その傷も、縫った跡もしっかり残っていた。どう足掻いてもエイブラハムが己に残した傷からは、過去からは逃げきれないと言うことだ。
「マシュー様」自分の方に顔を向けたマシューを、クレハは、真っ直ぐに見つめる。「全てが終わっても、我々の上にいてくださいね」
王城に進入した際、王座の間の直前で、マシューはおかしなことを口走った。明言が躊躇われる内容の時、カマをかけるような、言葉遊びをさえ交えた、隠語めいた表現を用い、おかしなことを言うのがマシューの癖だ。それに慣れたクレハには、マシューはエイブラハムと刺し違えようとしているように聞こえた。マシューは困ったように笑って目を逸らす。
「それが、我々を拾い、カルトの守護神と成り、人間の国を操って、たくさんの人民をここまで導いた方の責任です」
「……あのときの寒村の貧しいガキが、こんな偉そうなことを言うようになるとはな」
「貴方が通りすがらなかったら、私は罵声への反抗として舌を噛みちぎっていたでしょう」目を逸らされても、クレハはマシューを真っ直ぐに見据えて話し続ける。「我々が発見しなかったらヒヅキはあのまま砕かれていたかもしれません。我々が対峙しなかったらアラートは女王直属の騎士団に袋叩きで始末されていたでしょう。フォズは頭角を現さずに一生を終えたかもしれません。ゲイルだって、宴を楽しむことを知らなかった」
マシューが視線を落とす。ゲイル、と力なく呟くのを見て、クレハは更に続ける。
「討つべき仇が増えましたね。貴方は王竜を殺すだけでは終われない」
「……ああ、そうだな」俯きかけたマシューが顔を上げる。はは、と耳に聞こえて笑った。「こんな立派に育つガキがリンゴ一個で拾えるんだもんな、この世界の物価はおかしい」
クレハは肌に浮き出た竜人の鱗を気味悪がられて寒村で迫害され、重労働を強いられていた。竜の母はクレハを産んですぐに死亡し、父も間もなく心労か何かで病死したらしい。幼いくせに死んだ目をしていた。手元にあったリンゴを渡してやったら懐いてしまった。寒村を旅立つときに、家宝とかいうでかい大刀を腕いっぱいに抱えてついてきたようなかわいい少年だった。俺が代わりに持ってやった大刀も、肩から下げて楽々と振り回している。
ヒヅキはインジェリットの王都に向かう途中の森の中で凍っていた。正確には、水の魔素が凝縮して出来た水の晶魔導結晶に閉じこめられていたのだ。とにかく水の魔素を使う古代魔術を何度も使って氷を溶かして救出した。彼女も竜人であり、膨大な魔力を村人に恐れられて封印されたらしい。救出した直後は人間不信になっていた彼女も、今やクレハと並んでカルト軍のアイドルとして君臨し、軍人たちだけでなく国民までも魅了している。
アラートは魔刀(クレハや彼が持っている特殊な能力を秘めた刀のことである)集めの旅をしつつ、己の力を試すために辻切りをしていた。愚かにもクレハに挑んだ彼は返り討ちに遭い、クレハに惚れ込んだらしい。勝手についてきた。後から聞けば竜に強姦された娼婦の身ごもった子であったらしく、母が病死するとそのまま家を出、辻切りをしたいたそうだ。紳士ぶった裏でただの快楽殺人者だったが、今や面倒見の良さも加わり、軍人の間で話題の歌姫と好き合っていると聞いた。フォズとは犬猿の仲だが、根底では信頼し合っている筈だ。
フォズはただの人間だ。カルトで軍部を設立した際に、駆け込みで志願してきた。インジェリットで騎士団に所属していたが、戦闘では敵を殺すだけでなく、武器の性質上仕方ないが、いろんな物を壊してしまうため、戦闘に駆り出されることは減っていったらしい。そのため階級も上がらず無駄に年を喰うことに嫌気が挿し、カルトに来た。やはりただの人間なのだが、あれで頭もキレるのでアラートに匹敵するほどの能力を持っている。薬を使用せねばならなくなるほど力不足では、決してなかった。
ゲイルは軍部の隠密部隊のために育てられたような男だった。黒装束を脱ぐと結構な多弁だが、友人付き合いなどは特になく、暇を与えられると困惑するほどだった。初期から目を付けていたアラートに目をかけられ多用するところとなり、自然とマシューたちとも親しくなった。目に見えて変わったわけではないが、いつの日かの宴会で、「楽しいってこういうことなんだなァ」と口にしたのは、明らかな変化であった。
復讐のために準備した地位。手駒。それらは復讐のために準備されたのだから、復讐のために使われ、復讐のために捨てられなければならない。マシューはぼんやりと手を見つめる。初めてこう感じたのは、一か八かの運だめしで、息子に嫁を……彼の母を殺させたときだった。愛するものに愛するものを殺させて、歪ませて、その心に残ったのは後悔と虚無感だった。
「復讐のためにかき集めたものが失われるなら、俺はどちらを取るんだろうな」
マシューの口から自嘲が漏れる。直後、ノックが聞こえた。フォズだ。マシューは短く許可を下す。クレハもドアに目を向けた。
「お体の具合は如何ですか……」
「どうってこたぁねえよ。それよりお前だろうが! もう歩いていいのかよ」
フォズはにへらと微笑んで頷いた。ドアを閉めて部屋に入ってくると、マシューと立ったまま話そうとしたため、マシューはベッドを叩いた。フォズは遠慮がちに、ベッドのクレハの反対側に腰掛ける。軍服を脱ぎ、黒いアンダーシャツに黒いスラックスと黒ずくめな服装だが右の袖の半分は空っぽだ。
「義手をね、スタテイラちゃんに頼んできたんですよ。仕事増やさないで、って怒られましたけど」フォズは左手で空っぽの右袖をいじる。肩を落としてため息をつく。「……皆さん、トンデモ人間のオンパレードじゃないですか、あのアラートでも、俺じゃ到底追いつけないし。早死にするの俺だけなんで、なんつか、死ぬまで、ここにいたいんで、捨てないでください」
マシューもクレハもこの優秀な男を手放すつもりはない。バカか、と言葉が喉まで上がってきたが、クレハは呑んでマシューの様子を見た。マシューもとんでもない、といった顔で唖然と口を開いていた。
「バカか、お前。その程度で捨てるような奴なら元からあんなとこに連れていってねえよ」マシューはフォズの背中に向かって声をかけたが、フォズはマシューを直視しない。それよりも、とマシューはため息混じりに続ける。「何で薬なんか飲んだんだ。お前にあれは必要ないだろ。それに、只でさえ短い寿命を更に短くするんだぞ」
フォズは頭を垂れた。言葉を紡ぐまでに決心の時間がいるようだ。しばらくの沈黙の後、口を開く。
「せっかく表舞台に立てたんだから、最後まであんたたちと肩を並べていたかったんです。竜が相手だから、エルフが相手だからと、置いてけぼりにされたくはなかった」
フォズの声が震える。薬を使ってさえも、自分は役に立たなかった。あそこで王子の首を折れていたら、少しは変わっていたのかもしれない。結局、フォズは何の手柄も上げず、手ぶらどころか、右手を失って帰ってきた。
「……全員竜だと、ああなるわけだ。まともに戦えてたのはクレハしかいねえ。竜を相手に出せるのはクレハと、キレさせたヒヅキくらいだろ」マシューは重苦しく口を開く。「お前だけじゃない」
再び沈黙が降りる。しかし、すぐに耐えかねたらしいマシューが、あーと声を上げた。ぐしゃぐしゃと頭を掻く。その後丁寧に整えると、すっきりした面もちで頭を上げた。
「魔導機だ!」
マシューは両手を広げてクレハとフォズを交互に見る。二人の部下は不思議そうな視線を返した。
「やっぱり、力の差を覆すのは魔導機しかねえ! 銃、あっただろ! ああいうの量産するんだよ! フォズ、スタテイラの義手にすんげえ機能付けてもらえ! 明日の会議でスタテイラも呼び出すぞ!」
「そうですね」クレハが相槌を打ち、立ち上がる。フォズも呼応して立ち上がった。「では、私が連絡して来ましょう。フォズ、お前は部屋に戻って安静にしていろ。すんごい機能もスタテイラに言っておく」
フォズは渋々頷いた。クレハは頭を下げてから退出したが、フォズは部屋を出る最後まで顔を上げなかった。クレハはそれを横目に見て何も咎めなかった。進もうとした道が団体で塞がれていたので、俯きながら歩もうとしたフォズを止めはしたが。
「クリス様、ステラ様……。ず、随分な大所帯で」
入室の機会を伺っていたらしいクリストファー王子とステラ王女。マシューの実子である二人には二人ずつ護衛がついており、その護衛までくっついてきていた。クリストファーの後ろにいるふわふわとした亜麻色の髪の陽気なハーフエルフのアンドリューと、無造作に切りそろえた銀髪の実直な竜人のサイモンは、これでもクレハの年上なのに一向に落ち着きが出ない。マシューを崇拝している彼らもそわそわとしていた。ステラの後ろにいるのは編み込みショートの金髪に真っ赤な目が印象的な小柄な白衣の女性スタテイラと、銀髪の縦ロールにおっとりとしたたれ目の長身で豊満な女性ブリジット。二人はどちらかというと、マシューを心配しているステラを心配しているようだ。
「入室するのはクリス様とステラ様だけにしろ。マシュー様もお疲れだ」
「えー……、」不満を垂れたのはアンドリューのみだ。しかも無意識に漏れたらしい。サイモンに肘でつつかれる前に手で口を押さえた。「あっスミマセン何でもないっす! ここで待機します!」
アンドリューを一睨みしてからマシューの部屋のドアを開きクリストファーとステラを入れる。静かにドアを閉めてから、フォズをエレヴェーターに乗せて部屋に帰す。廊下で待つ護衛たちの元に戻ると、武勇伝を期待して目を輝かせたアンドリューと再び睨みつけた。