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Ⅲ 5人掛けの王座



 弟から王位継承権を剥奪し、拐かされれば救出のために少年部隊が一つ命を擲ったとかいう王子」青い刀だけを握り、振り下ろしてくるアラートの刃を受け止める。「どんな役に立たない富裕層の権化かと思いましたが……思っていたよりもまともですね」

 青い刃に触れた場所から剣が凍っていく。これでは使い物にならなくなる。アラートの剣を弾く。次の手が来る前に後方に下がる。床と剣を擦る。刹那の火花を見逃さない。

「燃えろ!」

 火花を魔素とし、簡素な魔術を発動する。膨らんだ火に剣を通す。氷は即座に溶ける。火もそのまま消える。俺を完全に見下しているらしいアラートは口の片端をつり上げた。嬉しそうだ。ご機嫌取りのための芸当ではないのだが。アラートが刀を構える。俺も剣を構え直す。クレハと違って顔がよく見える。端正な顔立ちが調和のとれたバランスで綻んでいる。この状況を喜ぶ顔だ。彼らにとって状況が好転しているか、或いは戦闘狂か。弟たちをこの部屋に入れなかったことを喜んでいるのか。役立たずと思っていた俺が意外にも戦える王子だったことを喜んでいたのか。

 睨み合いも終わろうとする頃。強力な魔素の流れを感じた。ドアからの流入ではない。この部屋からの放出だ。部屋の中心に視線を移す。マシューだ。彼はいつの間にか、床に奇怪な円を……ブラウに言わせれば『魔法陣』を、王座の間の中心に描いていた。膨大な魔素の流れ、否、魔素に働きかけようとする膨大な魔力の流れが、マシューから発生していた。

 魔術とは普通、詠唱によって魔素を己の体内に取り込み、分解し、魔術として発動する。魔素を取り込み分解し発言するまでの能力を魔力と呼ぶ。そして殆どの生物は、この世界に出現した瞬間に自動的に行われる誕生契約という儀式を済ませた精霊の属性一つしか魔素に働きかけられない……つまり、一つの属性の魔術しか使えないのだ。

 しかし目の前のマシューは、先ほど植物の魔術を披露していたにも関わらず、この大気という魔素に働きかけている。およそ一つの魔術で取り込めるとは思えない寮の魔素を相手にして。

「なんだ、あれは……!」

 マシューが発動しようとしているのが攻撃魔術ならば、この規模では自分たちはひとたまりもないことは俺でも判る。ブラウに教わった魔術の基礎講義。例外に直面した。下手に身につけた知識が俺の思考を阻害する。驚愕に体は動かなかった。

「そういうことか、マシュー……!」

 呻くような低い声。大槌男があっと声を漏らして手を伸ばしたが遅い。蔓の縄をどうにかして切ったらしいエイブラハムが駆けた。魔法陣の中心で両手を広げているマシューに駆け寄らんとする。エイブラハムに気が付いたマシューは目を見開いた。身体の動きが止まった。顔に浮かんだ表情は恐怖だ。エイブラハムは右腕を伸ばした。その腕はマシューに届かないどころか、ましてや彼を向いてもいない。伸ばされた指。その先から一直線に何かが伸びる。一筋の線は魔法陣の一端に触れた。目に見えて数本の筋を入れる。円が途切れた。魔力の流れが停止する。円と魔力を切った直線は爪だ。爪は縮み、元の長さに戻る。エイブラハムの発達箇所は爪であった。それをエイブラハム自ら語ったことはなかったように思う。大規模な魔術の発動が阻止されたらしく、ひとまずの安堵をしようとした。

 それは成されなかった。大気の魔素が魔法陣の元に集合した。マシューがエイブラハムに向かう。おぞましい形相で怒鳴るかという刹那。突風が起こった。そう近くなかった俺やアラートは少し怯むだけだった。クレハやグリューン、黒ずくめは体勢を崩したようだ。中心部にいたマシューとエイブラハムが飛んだ。マシューの飛んだ方向にいた大槌男は大槌を捨てマシューの飛んでくる方向に跳ぶ。身体を受け止めた。マシューを庇うようにして、王座に叩きつけられる。俺もだ。エイブラハムの飛んでくる方向に向けて跳ぼうとした。腹部に鈍い衝撃。アラートが体当たりをかけてきた。床に背中を叩きつける。呼吸が詰まる。天井を見ながら、何かがぶつかる音を聞いた。エイブラハムを助けなければ。しかし俺に乗りかかっている細身の男は意外にも振り払えない。嬉しそうに目を細めている。寒気を催す笑顔だ。

「ロート様に乗るなんて……!」神速を誇るグリューンだが、今回は特に早かった。いつの間にか跳んできていたらしいグリューンの足が、アラートのこめかみに入った。「わたしだって、できないのに!」

 力なくうつ伏せに床に放られるアラート。蹴りによって切れたらしい、頭から血を流し始める。しばらく動かなかった。死んだと判断する寸前に腕に力を入れる。震えながらも起きあがろうとする頭をグリューンが踏んだ。俺はすぐに起き上がりエイブラハムに駆け寄る。入り口側の壁に寄りかかり座っていた。合流できただけよいというところか。

「父様、父様! おい、ふざけるな! まだ……」

「……父に、向かって、その口は……何だ」

 呼びかけに応じて頭を上げるエイブラハムに胸をなで下ろす。しかし、動作も声も力ない。マシューを確認する。あちら……否、あちらは、失神したらしい大槌男を揺さぶっている。黒ずくめは棒立ちのままだ。一人、足りない。

「グリューン!」

 とっさの呼びかけを彼女は理解した。その方向にパタを構え、あの大刀を受け止めた。

「アラート! 下がれ! おい、アラート!」

 クレハが必死に叫ぶ。その両手でグリューンを圧倒していたが、その隙をついたグリューンがあの大刀を弾いた。クレハの目が見開かれている。その先にはアラートしか映っていない。

「ロート、私の左手を見よ」我を失っているクレハから視線を離し、言われるがままにエイブラハムの左手を見る。総毛立った。「……この通り、使い物にならん」

 分かりやすく言えば、左手は潰されたのだろう。恐らくはあの大槌に。いつも紙を捌いていたそれは血塗れで、変形すらしていた。言葉を失う。エイブラハムは対照的に無事な右手を示し、話を続けた。

「マシューは、竜の能力として、不死に近い身体を持っている。切り刻もうが心臓を貫こうが首を飛ばそうが再生する。……その身体があったからこそ、やつは審判の崖から落とされて尚、生きていたのだろう」

「父様も昔、あそこで決闘したのですか」

 奥歯を噛み締める。悔しさのような悲しさがあった。エイブラハムは何か言いたげに目を細めた後、瞼を落として首を振った。

「今は、抑えて、私の話を聞け」ずっと否定しようとしてきた父性を俺はすんなりと受け入れてしまった。問いつめたい衝動を飲み込み、エイブラハムの目を見つめる。「厄介な能力、だが、私の爪でつけた傷は、如何なる術を以てしても……治らない。大きくなくとも、傷を付けたら、相手はやがては死に至る」

 エイブラハムは右手の爪を伸ばす。異様に伸びたそれを見て、悲しげに目を伏せた。おもむろに目を開き、重い口を開く。

「そしてこれは、マシューを相手取っても、変わらない……変わらなかった」

 遠い目でマシューを眺める。エイブラハムはゆっくりと俺に顔を向けた。俺は笑い声をこぼす。

「……その傷で、その身体で、マシューを、貴方が殺すと」

「お前と、グリューンでは……あいつは殺せない」

 エイブラハムの真っ直ぐな視線。俺は思わずたじろいだ。この雄竜は、俺たちを子竜としてなんて見ていない、世継ぎとしてしか見ていない。ひねくれた目で見ていたこの雄竜は、ひどく醜い悪竜だった。しかし俺は今、この雄竜を素直に判断する目を得たらしい。この雄竜はひどく純粋で真っ直ぐな目をする雄竜だった。

 俺は、なんて馬鹿だったんだろう。前方に放り出しているエイブラハムの両足をまたいでしゃがみ、その両肩を掴む。眼前に迫るエイブラハムは目を丸くしている。

「怪我人は下がっていてください」

「何を――――」

「失礼します、父様」白い首筋に噛みつく。弟たちや他竜よりも発達した牙が、父の首の皮を突き破る。小さな悲鳴を漏らし、身体を震わせた。「少しばかり、頂きます」

 病みつきになる至高の味が口の中に広がる。怪我人から更に血を抜くのは酷だが、この際仕方がない。まだ生温かい血液が喉を通り、体内に落ちていく。しばらく吸って牙を抜き、父に向き合った。

「俺は、血を吸った相手の能力を一時的に使うことが出来ます。お任せください」

 エイブラハムの前に左手を持ってきて、爪を伸ばして見せる。少しばかり目を見張ったが、さほど驚きはしなかった。立ち上がろうとした俺の肩を、エイブラハムは右手で止めた。

「覚えておけ、ロート」エイブラハムの目が細められる。不器用な頬の緩め方だった。しかし、これまでに見たことがないほど、優しく穏やかな笑みだった。「王座は、お前一人だけの、ものではない。あそこに腰掛けるのは、お前一人だろうが……この先支え合う、四人の兄妹も、あそこに腰掛けるのだと……兄妹全員で王座に腰掛けるのだと……そう、肝に銘じておけ……」

「……はい、父様…………」

「お前は顔となり盾となろうが、決して、一人ではない」

 エイブラハムの右手が肩から降りる。俺はゆっくりと立ち上がる。左側を……グリューンとクレハに顔を向ける。

 血の気が引いた。クレハは、目前に迫っていた。

「王子を斬られたくなければ、アラートを渡せ……!」

 左手から迫り来る大刀。避けてはエイブラハムの命に関わる。防ぐには不利な状況だ。死を、覚悟した。




「斬らせないから大丈夫だよ!」

 大刀が止まる。動かない大刀にクレハが驚愕する。その長い刀身には蛇が巻き付いていた。否、蛇ではない。翠の鱗、ヴェルデアスルの鞭だ。鞭の元を辿ると、大刀を止めるべく鞭をピンと張るヴェルデアスルがいた。

「紫電刀……!」

 大刀の元で静電気が鳴る。ヴェルデアスルに忠告しようとした途端。ヴェルデアスルの翠鱗の鞭が大刀の間近で絶たれた。クレハは、電流を流されながらも焦げもしない翠鱗を払って捨てる。襲い来る刃を受け止めた。

「さすがノワール、僕の従者」

 ノワールの大鎌が唸る。あのクレハの大刀を真っ向から押している。クレハが白い歯を見せた。ノワールは至って冷静だ。ヴェルデアスルの斜め後ろに構えているときと大差のない顔をしている。膠着状態の二人の横に突如現れたのはヴィオレット。クレハの脇腹に肘鉄を入れた。ノワールの大鎌を辛うじて流し、クレハはよろけた。

 クレハと睨み合う二人の従者。その後ろで金属音が鳴った。

「そこを退きなさい……!」

「あ、あの……ごめんね、ぼくたちも、失うわけにはいけないんだ」

 端正な顔立ちをひどく歪めて障害物を睨むアラート。敬愛する上司の元へ駆けつけるのを妨げたのはエイジだった。しかし、バルディッシュを出していない。アラートの青い刀を止めたのは小さな鉄扇だ。鉄扇が凍っていくのを見て、すぐさまにアラートの刀を弾く。その勢いで鉄扇を床に捨てた。空いた手にバルディッシュが出現する。

「順序というものがありましょう。私たちは王子を先に、最後に王竜を殺そうとした。ならばクレハ様よりも先に私をーー」

「アァッ?」エイジがバルディッシュで薙げ払う。アラートは青い刀で受け止めようとしたが、そのまま吹っ飛ばされた。口調も振る舞いも全く変わったエイジ。人格交代をしたようだ。バルディッシュを肩に背負い、アラートを見下ろして吠える。「貴様らのやり方なんざ知らねえよ!」

 俺は、ブラウに絶対に入ってくるなと言った。危険に晒したくなかったからだ。しかし、いつの間にか開け放たれていたドアから、彼らは入ってきてしまった。一気に優勢になった。が、しかし、誰一人として欠けずに、この場にいる敵すべてを掃討することが出来るのか……?

 呆然と立ち尽くす。すると、途端にノワールが叫んだ。

「伏せてください!」

 我に返る。ノワールがしゃがみヴェルデを抱いた。王座の方を見る。蔓が迫ってきていた。

「我求ム、敢然タル壁。耐エヨ!」

 聞き慣れた声。大気中の水の魔素が呼応する。それらは凝縮して固まる。空中に無数に出現した氷壁が蔓とぶつかる。一本として俺たちに触れ得るものはなかった。続けて声の主は叫ぶ。

「憎悪スル壁、穿テ!」

 呼びかけに応じ、氷壁が砕けた破片は落ちない。宙に浮いたまま一点を向いた。一斉に降り注ぐ。マシューが試みたのは正面突破だ。動きにくそうな服装だが中々速い。その服や、時に体を氷片が掠る。全てが床に落ちて霧散した頃、マシューは彼の目の前にいた。マシューは彼を見て目を丸くする。やがて彼の正体を理解したのか、歓喜に顔を輝かせる。

「お前が、かわいそうな、第二王子か……!」

 ブラウは毅然とマシューに向かった。守るかのように、その体の周囲には透明な氷竜がまとわりついている。ブラウは両腕を氷竜に突っ込んだ。再び出した両腕に付着しているのは砕氷。ではない。筒状の氷が両腕に装備されていた。ブラウは左腕の氷の筒をマシューに向ける。マシューも察したらしい。懐から紙を出して足元に貼り付けた。そこから石の壁が盛り上がる。

 ブラウの左腕の筒から、何かが射出された。勢いがあるらしく、ブラウ自身も反動を受けて後ろに下がりつつある。何度も撃ち込む内に石壁にもヒビが入り始めた。左腕の筒から何も出なくなると次は右腕だ。氷塊が石壁に撃ち込まれる。その間にもブラウは左腕を氷竜に突っ込んでいた。氷塊に耐えきれずついに壁が崩れた。飛び出そうとしたクレハがノワールに足止めを喰らっている。埃に紛れてブラウが左腕を出した。そこには形状の変わった、より細い筒が装着されている。ブラウは一気にマシューとの間合いを詰める。初めはマシューの腕ごと左肩が飛んだ。マシューの形相が一瞬で変わる。この野郎、とでも吠えようとしたのだろう。マシューが足を踏み出そうとした。その頭が飛んだ。脳を失った体は硬直。その体さえもブラウは撃ちに撃った。右腕を氷竜に突っ込む。

「私はかわいそうな第二王子などではありませんよ」

 左腕の筒をマシューの頭に向ける。俺は呆然とその光景を眺めていた。しかし、ふと奥に視線を移す。敵はまだいた。俺は跳んだ。ブラウに飛びかかって共に床に倒れ込む。近くで轟音が鳴った。

「……に、兄さん」

「その魔術、そんなすごかったんだな」元々自分がいた場所が陥没しているのを見たブラウが、目を丸くした。しかしお互いに生きている。俺はブラウを抱いている腕を離し立ち上がる。「でもやっぱりお前はまだまだだな、周りが見えていない」

「兄さんに言われたくない」

 剣を抜き王座の方向を見る。ブラウも立ち上がり、俺の隣に並んだ。立っていたのは大槌男。いつの間に大槌を拾ったのか、そもそもいつの間に意識を回復していたのか。あの大槌は柄と槌部分が鎖で繋がれており、遠距離攻撃も可能らしい。

「おいおい、いきなり乱入してきたと思ったらヒトの上司の首ぶっ飛ばして、無粋なまねしてくれるじゃねーの……」

 大槌男はマシューの生首を横切り上座から降りてくる。こちらの味方が増えたが、あちら側にも加勢を招いてしまった。マシューは息絶えたのだろうか。左右を見る。

 恐らくはあちら側で最も強いらしいクレハは、こちら側で最も強いノワールと次点のヴィオレットと睨み合っているし、その後ろにヴェルデアスルも控えている。驚異的な速さを誇るアラートには未熟なエイジが対峙しているが、ヴィオレットに引けはとらないグリューンも攻撃の機会を伺っている。スミュルナの姿は見えないが、彼女はここに入れるべきメンバーではない。大槌男は俺とブラウで対処しなければならないらしい。余裕はない。

 怜悧なブラウならばどうするか。アイコンタクトでもいい。隣に目をやると、その目は驚愕に見開かれていた。その視線の先を追う。

「なっ……!」

 大槌男の背後には、マシューがいた。やたらと白い素肌を晒し……衣類を何一つ身につけていない状態でだが、彼はこちらに背を向けてしゃがみ込んでいた。また何か床に書いているようだ。発動を止めることは出来なかった。が、起こったことと言えばマシューが服を着ただけだった。先ほどと寸分違わぬ衣服を纏ったマシューがくるりと踵を返す。

「そうだな、お前はまだ幸せな方かもしれねえな……籠の中の鳥はいつだって幸せな顔をしてる」マシューは先ほどと寸分違わぬ仕草で両手を広げ、ゆっくりと大槌男に並んだ。「繁栄の将来と平穏な現在を保証された籠から落とされた鳥の方がかわいそうだ」

「……貴方が、我々の叔父ですか」

 意地の悪い笑みを浮かべていたマシューも、そんなマシューを睨んでいた俺も、同時に目を見開いた。

「父様から一度きりお話をして頂いたことがあります。私と似たような状況に立った弟がいた、と。それで、これは仕返しのおつもりですか」

 淡々と話を続けるブラウ。俺は思わず、警戒すべき大槌男やマシューではなく、ブラウを見つめてしまった。

「復讐だよ」

 マシューが気に喰わない素振りで否定する。ブラウは鼻で笑った。

「審判の崖は、結局はこういうシステムだというわけですよ、叔父様、父様」ブラウは実に柔らかに微笑んだ。小首を傾げてマシューに笑いかける。「崖から落とされた弟は兄に報復し、崖から助け出された弟は兄に報恩する。仕打ちとその返報は同じようなものになるようです。父様、貴方が私に下した処分は、誤っていませんでした」

 ブラウが左腕の筒を大槌男に向けた。マシューが大槌男を押す。マシューの腹部に孔が空いた。しかし、目に見えてそれは塞がっていく。

「マシュー様! オレを庇う前に御身を大事にしてくださいよ!」

「うるせえフォズ! 俺が怪我するのより、お前らの怪我の方が大惨事になるだろうが!」

 大槌男はフォズと言うらしい。立ち上がるフォズに怒号を浴びせてからマシューはブラウを向く。

「そう考えるように教育されてるんだろう、第二王子。継承権を剥奪されたなら奪い返せばいい。兄王を守ることだけが正義か?」

「貴方にとっては兄王を殺すことが悲願なのでしょう、否定はしませんよ。私が貴方だったなら、同じ行動に出ていたでしょう」静かで穏やかなブラウの声。マシューは狂喜するみたいに歯を見せた。「ですが私の悲願は兄さんを守り、支えていくこと。貴方が私だったなら、同じ行動に出ていたでしょう」

 マシューが目を見開く。驚愕にではない。滲んだのは怒りだ。俺はブラウを肘で突く。はっと気づいた様子でこちらに顔を向けた。この冷静で頭の切れる弟でも、感情に操られることがあるのか。

「少しでいい。あいつの身動きを止めてくれ」

「分かった」

 俺の耳打ちにブラウが静かに頷く。

「俺がお前の場所にいたら、そうして兄王を守るって……?」マシューがひどく歪んだ笑みを浮かべる。俺たちを小馬鹿にするみたいに、両腕を広げた。「ああそうだな! 俺ならお前みたいに、善良で献身的な弟になりきってやるさ! 来るべき時に寝首を掻いて、絶望の底に突き落とすためにな!」

 フォズが床を蹴った。振りは遅い。しかし直撃すれば負傷箇所は使いものにならなくなるだろう。大槌がブラウの右腕の筒にぶつかる。

「どうだ、兄王よぉ! 弟はこう考えてるんだぜ! 弟を疑ったことはねえか! あるだろ! 怖いだろ! いつ裏切られるか! いつ殺されるか! ひたすら尽くすその振る舞いの裏に隠された闇に、怯えたこともあるんだろ!」

 いつの間にか氷竜に突っ込んでいたブラウの左腕。鋭利な氷の刃を纏ってフォズに向かった。フォズは大槌でブラウに勝った。ブラウが転ぶ。追い打ちをかけんとするフォズ。俺はその間に割り込む。

「兄さんは! 私を疑ったりはしない!!」

「俺の弟は! そんなことは考えない!!」

 近すぎて剣を振ることは出来ない。足に力を入れる。剣を両腕に持つ。マシューへの憤慨が込められる。フォズの腹めがけた。

 鈍い感触が腕に伝わる。刺さった。だとすれば、この男はあまりにも無謀だ。大槌が大きな音を立てて落ちる。吐血を頭から被った。人間ならば決定的なダメージを与えられたはずだ。

「ご安心ください、マシュー様、クレハ様」

 しかし、降ってきた声には力がこもっていた。驚いて剣を抜く。フォズを蹴って後退した。フォズの口の両端がゆっくりと裂けていく。目が細められる。似たような男を以前にも見た。腹部を貫かれて尚平然と笑顔を張り付けている男。

 ――――カヌエ。人間の身でありながら、ノワールと対等に立ち会った騎士。竜の魔力から抽出されたという薬を服用し、色素と寿命と正気を代償に竜にも並ぶ身体を得、忠義と愛情に死んだ男。

「フォズお前、まさかッ……!」

 マシューの驚嘆の声も届かない。フォズの笑顔が狂気に染まる。行動は速かった。長い腕が伸びてくる。防ぐ間もない。右手が俺の首を掴んだ。足が床から離れる。剣が落ちた。息が詰まる。

「動くなよォ? ……細い首だなァ、お前本当に男か?」

 フォズは首を傾げて嘲った。抵抗は徒労に終わる。立ち上がろうとしたブラウが膝を着いた姿勢のまま止まった。

「俺は、お前のオニーチャンの首を折れるぜ? 何が言いたいか――――」

「いやああぁぁぁぁぁぁ……!」

 耳をつんざく女の金切り声。王座の間に響きわたる。フォズが言葉を切った。俺の背後だ。何が起こっているか分からない。

「お父様! お父様! お父様っ!? お父様ぁっ!」

 錯乱している。泣き叫んでいるのはスミュルナだろう。スミュルナも来ていたのか。俺はたった今絶望の底に突き落とされた。マシューの狙いは王竜の殺害だ。そして同時に、俺たち子竜……特にスミュルナやアマリィジュの陵辱だろう。俺たちの面前での。

「ゲイル!」

「スミュルナ様ァァッ!」

 マシューとエイジの声が重なった。マシューはもう一人を動かしたのだろう、恐らくは、黒ずくめ。エイジの良い働きを期待するしかない。俺は何も出来ずに終わるのか。自分が情けなくなる。目頭が熱くなる。瞬間、俺は解放された。尻から床に落ちる。大量の空気を吸い込んでむせた。

「ガアアアァァァ……!」

 目の前に腕が落ちてきた。フォズのものだ。見るとフォズが二の腕の先端を押さえて崩れ落ちた。激痛に絶叫している。ということは、カヌエのように痛覚が麻痺する前なのか。呆然と眺めているのは俺もマシューも同じだった。眼前に剣が差し出されて我に返る。

「兄さん」剣には鮮血が滴っている。ブラウはこの剣でフォズの腕を切り落としたようだ。「大切な剣なんだから」

 しかし俺は剣を受け取らずに立ち上がる。兄さん?とブラウが不思議そうに尋ねてくる。

「……ゲイル……?」

 マシューは依然として、否、先ほどよりも深い絶望に顔を染めて立ち尽くしている。振り返る。両目に薄く涙を湛えたスミュルナがいた。そう、両目にだ。スミュルナが普段眼帯で隠している右目には、恐怖の能力が備わっている。目が合った相手を蝋と化す魔の眼。黒ずくめ……ゲイルと呼ばれた男は、スミュルナの前で、棒立ちで、白くなっていた。スミュルナが右目を発動したのだ。駆けつけたエイジがその頭をバルディッシュで砕いた。蝋と化した対象は溶かすことで回復するが、全身蝋化し、頭を砕かれては死亡は確定する。スミュルナはマシューの悲嘆には目もくれず、エイブラハムに駆け寄る。主が離れたのを見て、エイジは着火機でゲイルの蝋人形に火を着けた。

 マシューを睨む。フォズは未だにうずくまって呻いている。マシューは部下の腕の欠損、それより何より、自分の指示により、一瞬で部下の一人が失われたことに衝撃を受けているようだった。見張られた眼球が揺れている。


 今だ。




 右手の爪を伸ばす。一歩足を踏み出す。フォズの背中を踏んだ。それを蹴る。フォズは予想よりもへなった。跳びたい位置、バランスが崩れる。それでも構わない。一矢報えればそれで良い。少しの傷でも大怪我に繋がる。マシューの恐怖一色の顔。彼はもう動けなかった。大昔の戦慄が現在もその体を支配し続けていた。深い傷は付けられない。それでも。頭部を狙って、右手を振った。

「アアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァ!!」

 俺はマシューのすぐ足元の床に転がった。すぐに立ち上がる。マシューは顔の右半分を押さえて半狂乱だった。その指の間から血が滲み出てきている。

「止まらない! 止まらない! 止まらない! 止まらない!」マシューは顔を振った。左目が涙をうっすらと浮かべながら揺れている。「アラート! 俺を! 燃やせ! 燃やしてくれ! 血が止まらない! 傷が塞がらない!」

「落ち着いてくださいマシュー様! その程度の傷では死にません!」

「死ぬ! 俺を殺すのはエイブラハムだ! エイブラハムにしか俺は殺せない! 俺は! 俺は!」

 アラートがグリューンの妨害を切り抜けようとしている間にマシューがぴたりと止まる。俺の顔を凝視して左目を丸くする。

「お前……何で、その爪を……? ロート・チャロアイト……? 遺伝か? それは遺伝するものなのか……? 何で、お前が、その爪をっ……!」

 体を震わせながら俺に一歩、一歩と近づいてくるマシュー。その狂気にたじろぐ。俺は反発する磁石のように一歩、一歩と後ずさる。そのマシューが一瞬で消えた。王座の近くに着地するアラートがマシューを立たせている。アラートが連れ去ったようだ。マシューの懐をまさぐっている。俺たちがマシューに見とれている間に、クレハがフォズを肩に抱え上げていた。アラートはマシューの懐からまさぐり出した折り畳まれた紙を開き床に貼り付けた。紙には魔法陣が描かれていたようだ。風の魔素が集結し始める。

「瞬間移動の古代魔術です! 撤退されますよ!」

 ブラウが叫び右腕の筒をフォズを抱えるクレハに向ける。気付いたクレハはフォズを姫のように抱いた。しかしブラウが狙ったのはフォズでも背でもない。足元を撃った。クレハが崩れ落ちる。フォズは落としていない。左の足首付近に氷柱が刺さっている。それでも右足だけで立ち上がろうとした。出すぎて負傷した自分を助けるために殺されようとしている上司。歯を喰い縛るクレハを見て、フォズは懇願する。

「やめてください……! こんな老いぼれ捨てて、あんたが逃げた方がずっと、」

「五歳しか違わない! お前を捨てる理由はない!」

 怒鳴るクレハ。錯乱した様子で駆け出そうとするマシュー。苦渋の顔で片手でマシューを制するアラート。ヴィオレットとノワールが同時にクレハに跳ぶ。刹那、魔法陣から何かが射出された。クレハに向かったヴィオレットとノワールが弾き返される。弾丸がクレハの横に降り立つ。

 少女だった。ショートの黒髪を揺らし、つぶらな藍色の目でノワールとヴィオレットを交互に見つめた。とても二人を退けたとは見えない細身で小柄な少女。しかし彼女が着ている丈の長い上着は紛れもなく、緑の軍服……人間の国の軍服だ。何より、手に持った小さめの直刀が大鎌に変化したのが証明だった。どういうわけか。彼女はノワールが振り回すのと大差ない大きさの鎌を、軽々と片手で持っている。

「ヒヅキ……!」

 クレハが少女に気付いて掠れる声で名を呼んだ。少女……ヒヅキは、クレハに体を向ける。小首を傾げて微笑んだ。

「撤退の魔法陣が起動したから、危ないのかなと思ってきちゃった」

 ヒヅキはクレハに体を向けている。ノワールなら背後をとれる。しかし彼は動かない。警戒しているのだ。そこまで、その小さな軍人に、脅威を感じているらしい。ヒヅキは俺たちの方にくるりと体を向けて、優雅にお辞儀をした。

「ちょっとの間だけでいいの、誰も入ってこれないような、砦がほしいな。フォズがいるけど、わたしとクレハの愛の巣みたいな!」

 ヒヅキは満面の笑顔で両手を広げた。くるりとその場で一回回って見せる。ヴィオレットとノワールが俺たちの元……下座に戻ってきた。その直後、上座と下座の間に強大な氷壁が出現した。

「あれが、魔術だと……?」

 ブラウが驚きに声を震わせる。ヒヅキは俺に顔を向けた。愛らしい顔をしているが、恐ろしく強い少女のようだ。彼女はやはり、小首を傾げてにっこり笑った。クレハの隣にしゃがみ、つららを抜いて治癒魔術を施している。氷壁は干渉を許さない。俺たちはただ、ヒヅキという少女と、フォズを抱えたクレハが魔法陣に逃げ込むのを見送るだけだった。氷壁が砕け散る。俺は床を蹴った。爪を伸ばす。マシューと目が合う。

「ロート・チャロアイト! お前の顔を覚えたぞ! 次に会うときは……お前を最初になぶり殺してやる!」

「させるかアァァァッ!」

 マシューめがけて跳び上がる。右手を振り上げる。届く。その瞬間に魔術が発動した。彼らは跡形もなく消えた。俺の爪は王座に傷跡を遺すだけだった。辺りを見回す。本当に消えている。誰もいない。ゆっくりと振り返る。魔術を解いたブラウが歩み寄ってきていた。手には俺の剣を持っている。

 皆が皆、大小様々の傷を負っている。しかし、倒れ伏している同胞は一人もいない。エイブラハムも泣きつくスミュルナの背を撫でている。右手を見下ろすと、爪は既に戻っていた。




「……逃がしてしまった」

「上出来だよ。雷を纏う者相手に一人も死者が出ていないんだから」

 ブラウが静かに微笑んで俺を見つめた。潰されたエイブラハムの左手。加えてあの重傷では、今後の政務に支障があるかもしれない。王座の間までに広げられていた凄惨な道。空っぽの服。何かがこみ上げてくる。

「父様が大怪我をした」

「でも生きてる」

「また国民を死なせた」

「だから兄さんはこれからみんなの命を背負ってこの国を守っていくんだ」

「ブラウ、俺は、」

 頬を水が伝った。右腕で拭う。言葉にならない。口を開いても嗚咽しか漏れなかった。

「兄さんは、僕の大好きな、自慢の兄さんだよ」

 何度も何度も聞かされた言葉。聞き慣れた言葉だ。だというのに、俺の心に溢れ出す様々の感情はその言葉で和らげられていった。涙を拭っていた右手を取ったブラウは、俺に剣を握らせる。

「サングレとの誓い。兄さんは何があっても前に進まなければいけない、でしょう」

 俺は握らされた剣を見つめる。今までに一回折れたことがあるが、修理をして使い続けているため柄は使い込まれている。俺の以前の持ち主も使い込んでいた。

 サングレ・バッカス。代々有力な軍人を排出してきた名門バッカスの末っ子。雌竜のくせに剣術が巧みで、青年部隊第四番隊の隊長を務めていた。俺の剣の師であり、初恋のヒトである。軍部との接触を禁じられていた王族のロートが頻繁に接触している雌竜という理由で反王政派に拉致され、ブラウの独断の突撃は見破られ、俺は一歩間に合わず、彼女は殺された。王位に対して覚悟の決まらない俺の背中を押したのは、紛れもなく彼女の死だ。俺は彼女の剣を修理に出して、これまでずっと使い続けてきた。

「そうだな、俺は、生まれてきた責任を果たさなければいけない。こんなところで腐ってる暇はないんだ、な」

 サングレの笑顔が浮かぶ。途端、足腰の力が抜けた。疲労かダメージか。立ち上がることが出来ない。ブラウが俺に背を向けてしゃがむ。

「おんぶしてあげるよ」

「生意気だな」

「たまには僕がしてみたいんだ」

 十年前の審判の崖の帰路は、泣きじゃくるブラウの涙で服の背面がぐしょぐしょになった。五年前の事件の帰路は、傷だらけのブラウの血でマントが血に染まった。どこかに遊びに行くと怪我をするのは決まってブラウだったから、いつだって俺がおぶって帰った。

 おかしくて、笑い声が漏れる。ブラウに全体重を預ける。ブラウは少しもよろけずに立ち上がった。

「成長したな」

「ばかにしないでよ」

「そういえばさっきの魔術、すごかったな。誕生日に見せてくれたやつだろう」

「便利でしょう。僕が創ったんだよ」

「でもやっぱりお前は俺の後ろで魔術を使ってる方がいいぞ。注意が足りないし、俺も安心だ」

「それ、どういうことなの」

 下座までブラウにおぶられていくと、ヴェルデアスルが俺を指さして大笑いした。グリューンが代わりにおぶりましょうか、と提案してきたが、ブラウが大丈夫です、と笑った。エイブラハムが俺を見て、無傷の右手を顎に当てて失笑した。そんなエイブラハムの視線を辿ってブラウの背の俺に気付いたスミュルナは微笑んだ。


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