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『可愛いお花はいりませんか』

 花も華もない人生だった。貴族の末裔の一人っ子、恋することも許されず、ただただ勉強ばかりしていた。


「いいかクラウス、お前に必要なのは帝王学だ、それだけだ。いずれは衰えた我が血筋を盛り立てて、立派な貴族に戻すこと、それがお前の生きがいだ!」


 生きがいさえも実の父親に押しつけられ、反抗も出来ないおとなしすぎる少年だった。クラウスは日陰の花のように、ただただひっそり昼間からカーテンを閉めた部屋で、ランプの灯で勉強していた。


 そうして二十歳になり、もうじき彼は妻を迎える。もちろん親の定めた相手だ、写真でしか顔も知らない。


 ……だいぶ身分の高い相手で、顔は良いものの性格には難があり、『こんなはねっかえりでは』と見合いは全て断られ……。


 大穴狙いでクラウスの父が話を持ち込み、クラウスの写真を見たお相手が「この方のお顔なら」と見た目で全てを決めたのだという。


 ああ、もう良いさ、何でもいい。どのみち僕の人生じゃない、この体も心も自由にはなりゃしないんだ……そう想ってクラウスは何も意見を言わなかったが、そこで母親が口をはさんだ。


「ねえ、あなた……いくらなんでもあんまりクラウスが気の毒ですわ。結婚まではあと半年、せめてその半年のあいだだけ、街の図書館にでも出かけていけるようにしては……」


 母はクラウスを愛していたが、『街の図書館まで』が思いやりの限界だった。父はあまりにも屋敷で権力を握っていたので、大げさに言えば逆らうと命までが危ういのだ。


 母の言葉に父は渋い顔をしたが、クラウスの外出を認めてくれた。半年後に結婚すれば妻の言うなり、せめてつかのまの自由を与えて……そういう理由ではたぶんない。父はついこのあいだ浮気が発覚したばかり、さすがに母の訴えを怒り散らせはしなかったのだ。


 ともかくも、クラウスは半年の自由を手に入れた。おそらく人生最初で最後の幸せな時を、彼は過ごした。毎日一人でお忍びで、街の図書館に通いつめた。


 そうして、三か月が過ぎた。自分のバッグに本を詰め込み、本の重みによろめきながらの帰り道、クラウスはふっと道ばたに足をとめた。歳のころは十四くらい、幼い少女がかごを抱えて歌っている。


「お花はいりませんか。可愛いお花はいりませんか。クローバーの白い花、カタバミの黄色いお花はいりませんか……」


 少しかすれた綺麗な声が、しんしん胸に沁みとおる。青白い肌の貴族の末裔、やせた青年は足をとめたまま、動くことが出来なかった。


 本当は、三か月前から気づいていた。不器用に編まれた藤づるのかご、中に入った花はどう見てもそこらの野原から抜いたもの、少女の白い細い腕には模様のように赤黒いアザ……。


「……お花、何があるんだっけ?」

 ついそう口にしてしまい、自分で自分に驚いた。こんな時に声をかける勇気が、このぼくにまだあっただなんて……!


 クラウスも驚いたが、少女はもっともっと驚いた顔をして、花かごを胸もとに引き寄せた。


「――買っていただけるのですか? こんなお花を?」

「……こんなお花? そんな、自分でも売れないと思っている花を、きみはいったい、どうしてこんな道ばたで……?」


 思わずそう訊くと、少女の大きな萌黄の瞳が、じわじわと濡れて潤んでくる。あわてるクラウスに己の手で涙を拭い、少女はぽつぽつ打ち明けた。


「……わたし、ミモザっていいます。わたしの家は貧しくて……このあいだ、両親とも若くして死んでしまったんです」

「……どうして?」

「小雨の降る日に庭の畑で作業していて、ふと二人とも風邪をひいて、それがどんどん悪化して……無理ばかりして働きづくめで、体が弱っていたのでしょう……」

「……今は、どうやって暮らしているの……?」

「見ての通り、お花を売って……今わたしの家には、家主ご夫婦がお住まいで……わたしは居候の身で、こうして道でお花を売ってご恩返しを……」


 言いながら抱き寄せる花かごには、やっぱり野の花ばかりがたくさん。庭の畑にはまともな花も咲いているだろう、なのにかごには見当たらない。どう見たって売れない花を、こんな街なかの道で売らせて……、


 そうしてミモザの白い腕に、唐草模様アラベスクのようなアザの赤さが、何より彼女の不幸を示して。


「――買おう。その花、みんな買い取ろう」


 初めて自分の意志で、こんなにはっきり物を言った。ミモザは大きく萌黄の瞳を見開いて、それからぽろぽろ涙をこぼし、かごからごっそり野の花をすくい、大事そうに手渡した。


 花の下で、手と手が触れた。あたたかい手だった。クラウスはぬくみを感じた手で、金貨をそっと少女に渡す。


 空のかごを持ちながら、片手でぶんぶん手をふるミモザに手をふり返し、クラウスはだいぶ歩いた後で、路地裏のすみに花を捨てた。


 ……父に知られたら、何が起こるか。分かっているから、花を捨てた。胸が痛んだ。捨てた後で重いバッグを持ち直し、あとは黙って歩き続けた。


 屋敷について、中に入る前、バッグを一度地面におろして己の指のにおいをかいだ。野の花のにおいが、泣きたくなるほどかすかに香った。


* * *


 クラウスは秘密を秘密のままに過ごした。父にも母にもばれなかった。そのままひと月が過ぎ、結婚はあと二か月後……クラウスの財布から、金貨が毎日一枚ずつ減ったところで、誰も気にはしなかった。


 出逢ってひと月、今日はミモザは珍しく、自分から花をさし出した。ラベンダーの花だった。


「……これは……」

「お代はいりません。いつもお花を買ってくれるお礼です……!」


 そう言うなりミモザはひらっと身をひるがえし、雑踏にまぎれてその姿は見えなくなった。


 花にうとい自分でも分かる、紫の香りのよいラベンダー。これは野原には咲いてはいない、きっと庭の畑から、決死の覚悟で採ってきたんだ……、


 ――ぼくのために。そう分かったから、捨てられなかった。どうしても、路地裏のすみには捨てられなかった。良い香りをさせてラベンダーを持ち帰り、こっそり部屋に入れるつもりで、やっぱり父に見つかった。


「この花は何だ」「どんな小娘から買った」……どれだけ激しく訊かれても、クラウスは何も言わなかった。言えばミモザは殺される。自分が死んでも言うまいと、きつくきつく口をつぐみ、青い目で父をにらんでいた。


 殴られても蹴られても、クラウスは決して名を明かさず、とうとうしまいに地下室へぽいと突っ込まれた。「言うまで出さん」と吐き捨てられ、がきりと鍵をかけられた。ほこりっぽい闇の中、クラウスはまだその手にラベンダーを握っていた。


 クラウスは、何も言わなかった。ただ暗闇でパンと水ばかり差し入れられて、まるきり罪人みたいに黒い壁を見つめて暮らして、やっぱりなんにも言わなかった。


 虚弱な青年の細い体は、きりきりと白いろうそくのようにやせてきた。やせても飢えても渇いても、彼はひと言もしゃべらなかった。ひと月経って、えかねて鍵穴から様子をうかがって母の方が悲鳴を上げた。


「ああ、あなた! いったい何をお考えなの、このままじゃあの子は死んでしまうわ! そうまでして、そうまでしてあなたは『上等な貴族』に戻りたいの!?」


 母は泣きながらわめきながら、父の胸ぐらをつかみ上げた。お前を殺して私も死ぬといわんばかりの剣幕に、父もさすがに面食らった。しぶしぶ地下室におりていき、重い扉をぎいいと開けて……、


 クラウスは、もう死んでいた。やせ衰えたその手には、茶色く枯れてくしゃくしゃになったラベンダーが握られていた。


* * *


 ――そうして、クラウスは本当に自由になった。解き放たれた魂は、夜の夜中の街の道ばたにひょろひょろ飛んで出ていった。


 いるわけがない、いるわけないけど、もう一度ミモザに逢いたかった。逢ってどうなるわけじゃないけど、もう一度顔を見たかった。


 ……ミモザは、ぽつんと夜の道ばたに立っていた。粗末なかごにはありったけの野の花と、ラベンダーが一本細くしてある。そうして白い両腕は今、どうしてか一つのアザもなかった。


『お花はいりませんか。可愛いお花はいりませんか。クローバーの白い花、カタバミの黄色いお花はいりませんか……』


 クラウスはそっと彼女に近づいて、青白く透き通る手を伸ばす。触れるわけもないけれど、もう一度、あのあたたかさに触れたくて。


 ――さわれた。うつろな目にクラウスを映し、はっと輝きを増す瞳から、向こうの景色が透けていた。


『……ああ、ミモザ、きみは……きみも……』

『……ええ。わたし、ラベンダーを無断でったって、家主ご夫婦にさんざん痛めつけられて……あの晩、死んで、それから毎晩……』


 毎晩、ここでお花を売って。つぶやく透ける瞳から、なお透き通る涙が伝う。クラウスは『僕も』とひと言ささやいて、後は黙って微笑んで、愛しいひとに手を伸ばし……冷たい手と手が、つながれた。


 二人は白く尾を引いて、夜の街を歩き出した。


『お花はいりませんか。可愛いお花はいりませんか。クローバーの白い花、カタバミの黄色いお花はいりませんか……』

『とっておきのラベンダー、それだけはお売り出来ません。それは二人の愛の証、ミモザとクラウスのたった一つの愛の証……』


 そういう声が、声ばかり、夜の街中にいんいん響くようになり、うわさを聞いたクラウスの父は「そんなことがあるものか」と勇んで夜中に出かけていき、何を見たのかひいひい言いながら屋敷に逃げ帰り、狂ったようにうわごとを言いつつ死んでいった。


 家主夫婦は『夜の売り声』のミモザの名から、しだいに悪事が知れ渡り、お上に重い罰を受け、死ぬまで牢屋で過ごしたという。


 クラウスの母は、自分の意志で屋敷を出て、今は町のかたすみで編み物をして、それを売って暮らしている。もう七十の老婆になったクラウスの母の楽しみは、夜中に聴こえる声だという。


 たまに『昔のおとぎ話』を耳にしたい物好きな旅人が訊ねていくと、老婆は首をふって応える。


「とんでもない、これがおとぎ話なもんですか! ほら、よく耳をすましてごらんなさい……私の息子のクラウスと、可愛い奥さんのミモザが、今夜もお花を売っていますよ……」


 そうして、聴こえる、確かに聴こえる。いんいんと響く花売りの声が、今でもこの星のどこかの国、どこかの街の道ばたで、仲良くお花を売っている……。

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