4 朝の出会い
アルセイン公爵家の朝は早い。
東の空が白む頃、私はすでに身支度を終えていた。
侍女の手によって一糸の乱れもなく結い上げられた銀髪。皺ひとつない制服。鏡に映る私は、今日も完璧な「公爵令嬢」だ。
「行って参ります、お父様、お母様」
家族への挨拶を済ませ、迎えの馬車に乗り込む。
扉が閉まった瞬間、私は鞄から分厚い書物を取り出した。
『王国立法史・中級編』。
馬車の揺れなど気にならない。通学のこのわずかな時間は、誰にも邪魔されずに研鑽を積める、私にとって大切なひとときだ。
(……あの背中は、まだ遠い)
ページをめくりながら、ふとルーファス殿下の涼しげな笑顔が脳裏をよぎる。
先日の小テスト。私はまたしても、彼にあと一歩及ばなかった。
その僅かな差を埋めるため、私は今日もペンを握る。
***
学院の正門前。
私が馬車を降りようとしたその時、偶然にも、王家の紋章を掲げた白亜の馬車が滑り込んできた。
本当に、ただの偶然。
けれど、同じタイミングで扉が開いた瞬間、私は運命めいたものを感じずにはいられなかった。
「——やあ、おはよう。ヴィオラ嬢」
馬車から降り立ったルーファス殿下が、眩しい朝陽を背負って爽やかに微笑んだ。
朝の光に透ける黒髪、燃えるような赤い瞳。
不意の遭遇だというのに、彼の立ち振る舞いは絵画のように完成されている。
「おはようございます、殿下。……ええ、本当に。驚きましたわ」
私は胸の高鳴りを悟られないよう、静かにカーテシー(淑女の礼)で応える。
私たちは自然と並び、教室へと続く並木道を歩き出した。
その瞬間、周囲の生徒たちから「キャーッ!」「今日も素敵だわ……!」と黄色い歓声が上がる。
殿下は、その声援の一つ一つに、軽く手を振って応えている。
「馬車の中でも本を広げていただろう? 遠目に見えたよ」
「……見られてしまいましたか。お恥ずかしい限りです」
「いや、感心していたんだ。ヴィオラ嬢は本当に勤勉だね。我が国の学生の鑑だよ」
殿下は優しい声でそう言ってくださった。
けれど、その口調はどこか、模範的な生徒を褒める教師のようでもあった。
私は教科書を抱きしめる手に少しだけ力を込め、彼を見上げた。
「……学校生活には慣れましたが、万年2位の座に甘んじているつもりはありませんの。次のテストこそは、殿下に追いついてみせます」
「はは、頼もしいな」
殿下は屈託なく笑った。そこに焦りや対抗心の色はない。
「みんな君くらい熱心だと、学院ももっと活気づくんだけどな。……楽しみにしてるよ、頑張ってくれ」
軽い。
私の「宣戦布告」を、彼はさらりと「応援」で返した。
まるで、子供のかけっこを見守るような余裕。
私は唇を噛んだ。まだ、彼の本気にすら触れられていない。
「そういえば、ヴィオラ嬢」
風がふわりと髪を揺らした時、殿下が話題を変えた。
「もうすぐ『春の舞踏会』だね。新入生にとっては初めての顔合わせの場だ。……君はもちろん、参加するのだろう?」
「ええ、もちろんですわ。公爵家の娘として、欠席する理由はありません」
春の舞踏会。
それは新入生の歓迎会であり、貴族社会へのデビュー戦。
「そうか、それはよかった」
殿下は安心したように頷いた。
「当日は大勢の来賓も来るし、正直、僕一人では挨拶回りが大変そうでね。君のような、礼儀作法が完璧な公爵令嬢がいてくれると、場が締まって助かるよ」
「……ええ、微力ながら」
場が締まる。助かる。
彼は私を「一人の女性」として誘っているのではなく、「有能な公爵令嬢」として、その場のクオリティを保証する駒の一つと見ている。
「期待しているよ。素晴らしい夜会にしよう」
殿下は私に、とびきりの「営業スマイル」を向けた。
その笑顔は、先ほどすれ違った女子生徒に向けたものと、何一つ、ミリ単位で変わらない完璧な笑顔だった。
「——はい、殿下」
私は淑女の仮面を貼り付け、微笑み返した。
二人並んで歩く背中。
周囲からは「お似合いの二人」に見えたかもしれない。
けれど、私は痛感していた。
この距離は、物理的な距離よりも遥かに遠い。
彼の瞳に、私という「個」を映させるためには——もっと、もっと完璧にならなくては。
私は焦燥感を胸に秘め、彼の隣を歩き続けた。




