3 日だまりと月明かり
入学から一ヶ月。
新緑の五月、学院のサロンは、今日も柔らかな喧騒に包まれていた。
けれど、その空間には目に見えない、しかし明確な「温度差」が存在していた。
「ヴィオラ様、昨日の歴史の講義についてですが……この解釈でよろしいでしょうか?」
「ええ。ですが、第三章の判例も合わせて引用した方が、より説得力が増すわ」
「なるほど……! さすがヴィオラ様です!」
窓際の一等地。私が座るテーブルの周りには、常に数人の生徒がいる。
けれど、彼らは一定の距離を決して踏み越えてこない。
私に向けられるのは、憧れ、畏敬、そして緊張。
彼らは「ヴィオラ・アルセイン公爵令嬢」という完璧な偶像に教えを請いに来ているのであって、私自身と談笑しに来ているわけではないのだ。
私は優雅に紅茶を啜り、完璧な微笑みを崩さない。
これが私の望んだ「高潔さ」だと自分に言い聞かせて。
その時、サロンの中央からドッと楽しげな笑い声が弾けた。
その輪の中心にいるのは、アナスタシア・ヴァレンティアだ。
彼女の周りには、男女の区別なく多くの生徒が集まっている。
令嬢たちは彼女のドレスを褒め、男子生徒たちは彼女のとりとめのない話に顔をほころばせている。
「アナスタシア様、このクッキー焼いてきたんです! 食べてください!」
「僕の家の領地の果物も食べてみてくださいよ!」
「まぁ、嬉しい! ありがとう、みんなで食べましょう?」
アナスタシアが花が綻ぶように笑うと、周りの空気までふわっと明るくなる。
彼女には、人を惹きつける引力があった。
特別な才知があるわけではない。けれど、彼女がそこにいるだけで、誰もが安心して心を開き、笑顔になる。それはまるで、春の陽だまりのような暖かさだった。
(……不思議な方)
私は手元のカップを見つめた。
私の周りは、いつも静謐で、知的で、そして少しだけ冷たい。
もし私が、「クッキーを焼いてきたの」なんて言ったらどうなるだろう?
きっと、「ヴィオラ様が厨房になど!」と驚かれ、恐縮されてしまうに違いない。
「ヴィオラ様?」
友人のマリアが心配そうに私を覗き込む。
その視線の先にあるアナスタシアの集団に気づき、彼女はふんと鼻を鳴らした。
「あちらは相変わらず騒々しいですわね。誰にでも愛想を振りまいて……公爵令嬢としての矜持がないのかしら」
「……そうね」
私は相槌を打ったが、胸の奥にはチクリとした棘が刺さっていた。
矜持。高潔さ。完璧さ。
私が鎧のように身に纏っているそれらが、私を孤独にしているのではないか。
あんな風に、無防備に笑い合うことができたら、どんなに——。
その時、アナスタシアと目が合った。
彼女は取り巻きの男子生徒越しに私を見つけ、パァッと表情を輝かせた。
「あ、ヴィオラ様!」
彼女は躊躇なくこちらへ手を振った。
公爵令嬢らしくない、けれどとても親しみのある仕草で。
「ヴィオラ様もご一緒にいかがですか? 美味しいお菓子がたくさんあるの!」
屈託のない誘い。
一瞬、私の心が揺れた。あそこに行けば、私もあの陽だまりに入れるのだろうか。
けれど。
「ご遠慮いたしますわ、アナスタシア様」
私の口から出たのは、冷ややかな拒絶の言葉だった。
「私は次の講義の予習がありますので。……皆様と違って、暇ではありませんの」
サロンの空気が凍りつく。
アナスタシアが悲しげに眉を下げ、周りの生徒たちが「なんだよ、あの態度」「やっぱり高嶺の花は違うな」とひそひそと囁くのが聞こえた。
やってしまった。
本当は、ただ「ありがとう」と言いたかっただけなのに。
素直になれないプライドが、私をまた高い塔の上へと閉じ込めていく。
愛されるアナスタシアと、尊敬されるヴィオラ。
「すごい」と言われることと、「好き」と言われることの決定的な違い。
私は一人、教科書の文字を目で追いながら、冷めきった紅茶を飲み干した。
その味は、涙が出るほど苦かった。




