忍び寄る罠
五月の終わり、桜ヶ丘高校のキャンパスは夏の気配に包まれていた。木々の緑は一層濃くなり、昼間の陽光は肌をじりじりと焼くほどだった。
放課後の園芸部では、リリィ・フロストことリリウムが、いつものようにセレナ・フローレンスと花の世話をしていた。
温室の中は、湿気と花の香りが混ざり合い、穏やかな時間が流れている。
リリィの銀色の髪は汗で少し額に張り付き、紫の瞳はスズランの白い花に注がれていた。
「リリィさん、最近スズラン、ほんと元気だよね。私たちの世話、ちゃんと伝わってるんだ。」
セレナがジョウロを手に、にっこり笑う。
彼女の金色の髪は、温室のガラス越しに差し込む夕陽に輝き、リリィの心を温かくした。
園芸部での時間は、リリィにとって戦場では知らなかった安らぎの場だった。セレナの優しい声、花の香り、土の感触。それらが、彼女の過去の傷を少しずつ癒していた。
「はい…セレナさんと、一緒だと、花も、喜んでる気がします。」
リリィの小さな声に、セレナがくすっと笑う。
彼女はリリィの隣にしゃがみ、カスミソウの鉢をそっと撫でた。
「ふふ、リリィさんって、ほんと真剣だよね。花言葉みたいに、純粋で…なんか、癒されるな。」
セレナの言葉に、リリィの頬がほのかに赤くなる。
彼女は視線を落とし、ジョウロを握る手に力を込めた。戦場では、誰も彼女にこんな言葉をかけてくれなかった。
セレナの笑顔は、彼女にとって新しい世界の光だった。
部活が終わり、二人は温室を後にした。校庭を抜け、校門に向かう道で、セレナがリリィに振り返る。
「リリィさん、明日も部活来るよね? 新しいハーブの苗、植えようってアヤメ先輩が言ってたよ。」
「はい、来ます。楽しみ…です。」
リリィのぎこちなさの中に、微かな笑みが混じる。セレナはそれを見て、満足そうに頷いた。
「うん、じゃあまた明日! 気をつけて帰ってね!」
セレナは手を振って、反対方向の道へ歩いていく。
リリィは彼女の後ろ姿を見送り、胸に温かな気持ちを抱えたまま、アパートへの道を歩き始めた。夕暮れの街は、家族連れや学生たちの賑わいで活気づいている。
リリィの鞄には、セレナからもらったカスミソウの切り花が入っており、彼女の心を軽くしていた。
――ー
しかし、その穏やかな時間は、長くは続かなかった。リリィがいつもの帰り道、住宅街の静かな路地を歩いていると、突然、異変に気づいた。路地の角、街灯の下で、三〇代ほどの女性がふらりと倒れ込む姿が見えた。
彼女は黒いコートをまとい、赤みがかった短い髪が夕風に揺れている。
女性は地面に膝をつき、苦しげに胸を押さえていた。
リリィの足が一瞬止まる。
戦場で鍛えられた直感が、警報を鳴らす。
だが、彼女の心には、セレナの優しさや、園芸部での穏やかな時間が根付いていた。
人を助けること。
それも、「普通の高校生」として学ぶべきことではないのか。リリィは人見知りの自分を抑え、意を決して声をかけることにした。
「あ…あの、大丈夫、ですか?」
リリィの声は小さく、震えていた。
彼女はゆっくりと女性に近づき、しゃがんで顔を覗き込んだ。女性の顔は青白く、額には汗が浮かんでいる。
リリィの胸に、訓練で学んだ応急処置の知識がよぎる。だが、その瞬間、女性の目が突然開き、リリィをじっと見つめた。
赤みがかった瞳には、どこか異様な光が宿っていた。
「リリウム…やっと、会えた。」
女性の声は低く、まるで愛おしむような響きだった。リリィの心臓がドキリと高鳴る。
リリウム。
彼女の偽名「リリィ・フロスト」を知るはずのない人物が、なぜその名前を? 戦場での記憶がフラッシュバックし、彼女の体が反射的に後ずさろうとした。
だが、その瞬間、リリィの腹部に鋭い痛みが走った。
女性の手には、いつの間にか小さな注射器が握られている。
リリィの視界が揺れ、膝がガクンと崩れる。
彼女は必死に意識を保とうとしたが、薬の効果はあまりにも速かった。
戦場で鍛えた身体能力も、薬の前に抗えなかった。
「…っ、誰…?」
リリィのかすかな声が、路地の暗闇に消える。
女性、リズは、リリィが倒れる姿をじっと見つめ、唇に歪んだ笑みを浮かべた。
「大丈夫、リリウム。すぐに終わるよ…君は私のものになる。」
リズの声は、愛情と狂気が混じり合い、リリィの意識が闇に落ちる中、遠く響いた。
彼女の鞄が地面に落ち、カスミソウの切り花が散らばる。
夕暮れの街は静かで、誰もその異変に気づかなかった。
――ー
リズはリリィの小さな体を抱き上げ、路地の奥へと消えた。
彼女の手には、クロノスの使徒の通信装置。
彼女はリリィを確保したことを報告するつもりだったが、その前に、彼女自身の欲望を満たす計画を進めていた。
リリウムを捕まえ、時間をかけて「壊す」。その狂気的な願望が、彼女の心を支配していた。
――ー