歪んだ瞳
ゴールデンウィークが終わり、桜ヶ丘高校の日常が戻ってきた。
五月の半ば、夕暮れ時の校庭はオレンジ色の陽光に染まり、新緑の木々が柔らかな風に揺れている。
園芸部の活動を終えたリリィ・フロストことリリウムは、制服の鞄を肩にかけ、校門に向かって歩いていた。
銀色の髪が夕陽に輝き、紫の瞳は静かに前を見つめる。彼女の足取りは、入学当初のぎこちなさを少しずつ脱し、穏やかなリズムを刻んでいる。
セレナとの時間、園芸部の花々、クラスメイトの笑顔が、彼女の心に小さな居場所を作りつつあった。
だが、リリィの背後、遠くの木陰に潜む一つの影があった。校門から数百メートル離れた街路樹の裏に立つ女、リズ。
三〇代半ば、黒いコートに身を包み、短く切り揃えた赤みがかった髪が夕風に揺れる。
彼女の瞳は、鋭く、しかしどこか狂気を帯びてリリィを捉えている。
リズの手には小さな双眼鏡。
彼女はリリィの姿を一瞬たりとも逃さず、じっと見つめていた。
「リリウム…やっと、見つけた。」
リズの声は低く、ほとんど呟きに近い。
だが、その声には異様な熱がこもっていた。
彼女の唇は、微笑とも憎悪ともつかぬ歪んだ表情を浮かべ、リリィの後ろ姿を追い続ける。
リリィが校門をくぐり、街の喧騒に消えていくまで、彼女の視線は離れなかった。
――ー
リズは、秘密結社「クロノスの使徒」の一員だった。
この結社は、魔物との五〇年にわたる戦争が終結した後も、ハンターと呼ばれる超人兵士たちを「人類の脅威」として敵視する集団だ。
戦争中、ハンターは魔物を倒す英雄として讃えられたが、その超人的な力と冷酷な戦いぶりは、一部の人々に恐怖と猜疑心を植え付けた。
クロノスの使徒は、ハンターを監視し、場合によっては排除することを目的に暗躍していた。
だが、リズにとって、リリウムは他のハンターとは異なる、特別な存在だった。
彼女の心の中では、リリウムへの感情は憎悪を超え、狂気的な愛情と執着に歪んでいた。
リズがリリウムと初めて出会ったのは、戦争の終盤、七年前の戦場だった。
その日、リズは民間ボランティアとして前線近くの補給基地にいた。
医療物資を運ぶ役割だったが、魔物の襲撃により基地は混乱に陥った。
逃げ惑う人々の中で、少女が一人、静かにマークスマンライフルを構えていた。
銀色の髪、紫の瞳、感情のない表情。
リリウムだ。彼女は一瞬の隙もなく、遠距離から魔物を次々に仕留めた。
その動きは、まるで機械のように正確で、冷酷だった。だが、リズの目には、その姿が神聖なまでに美しく映った。
「なんて…完璧な存在なの。」
リズは戦場の血と硝煙の中で、リリウムに心を奪われた。
彼女の力、孤独、感情を押し殺した瞳。
全てが、リズの心に深く刻まれた。だが、それは憧れからやがて歪んだ愛情へと変わっていった。
リリウムをただ遠くから見つめるだけでは満足できず、彼女を「自分のもの」にしたいという欲望が芽生えた。
生きて捕まえ、時間をかけてその完璧さを壊し、彼女の心を支配したい。
そんな狂気的な願望が、リズの胸を支配していた。
戦争が終結し、リリウムが姿を消した後も、リズの執着は消えなかった。
彼女はクロノスの使徒に身を投じ、ハンターの情報を集める役割を担った。表向きは結社の理念に忠実なメンバーとして振る舞いながら、内心ではリリウムの行方を追うことだけが目的だった。五年間、彼女はリリウムの足跡を追い続けた。
そして、ついに今年、桜ヶ丘高校に「リリィ・フロスト」という名前の少女が現れたという情報が入った。
「リリウム…やっと、見つけた。」
リズは双眼鏡を下ろし、唇に歪んだ笑みを浮かべた。クロノスの使徒には、リリィがハンターである確証はない。だが、リズには確信があった。あの銀色の髪、紫の瞳、独特の雰囲気。彼女はリリウムだと確信していた。そして、その確信は、彼女の狂気をさらに燃え上がらせた。
――ー
リリィはいつものようにアパートへの道を歩いていた。夕暮れの街は、家族連れや学生たちで賑わい、コンビニの明かりやカフェの看板が温かく光る。
リリィの鞄には、園芸部の活動で使った小さなハサミと、セレナからもらったカスミソウの切り花が入っている。
彼女の心は、セレナとの時間や花の香りで、少しずつ穏やかになっていた。
だが、リリィは気づいていなかった。遠くの路地から、彼女を追う一対の瞳を。
リズはリリィの後を、一定の距離を保ちながら尾行していた。
彼女のコートのポケットには、小型の発信機と暗号化された通信装置。
クロノスの使徒の指令は、「リリィ・フロスト」の行動を監視し、ハンターである証拠を掴むことだった。
だが、リズの目的はそれだけではない。
彼女はリリウムを「捕まえる」瞬間を夢見て、心の中で計画を練っていた。
「リリウム…あんな平凡な生活、似合わないよ。君は戦場で輝いていた。あの冷たい瞳、完璧な射撃…私には、全部見えた。」
リズの呟きは、誰にも聞こえない。
彼女の頭には、戦場でのリリウムの姿が鮮明に焼きついている。
あの無感情な少女を、彼女の手で「壊す」こと。
それが、リズの歪んだ愛情の結末だった。
だが、同時に、彼女はリリウムをただ傷つけるだけでは満足できないとも感じていた。
リリウムの心を、魂を、完全に自分のものにしたい。
そのために、彼女は時間をかけるつもりだった。
リリィがアパートの入り口にたどり着き、鍵を開ける。
リズは遠くからその姿を見届け、スマホに短いメッセージを打ち込んだ。
「対象、帰宅。引き続き監視継続。」
クロノスの使徒への報告は、彼女の表の役割だ。
だが、彼女の心は、別の計画で燃えていた。
――ー
その夜、リズは街外れの古い倉庫にいた。クロノスの使徒の秘密の拠点の一つだ。
薄暗い部屋には、武器や監視装置が並び、壁にはハンターに関する資料が貼られている。
リズは一枚の写真を手に取り、じっと見つめた。
それは、戦争中のリリウムの姿を遠くから撮影したもの。銀色の髪、ライフルを構える姿。
リズの指が、写真の表面をそっと撫でる。
「リリウム…君は私のものになる。ゆっくり、じっくり、君の心を解きほぐして…壊してあげる。」
彼女の声は、愛情と狂気が混じり合い、倉庫の暗闇に溶けていく。
リズはクロノスの使徒の任務を利用し、リリウムに近づく機会を窺っていた。
学校への潜入、園芸部の監視、あるいはリリウムの周囲の人間を利用すること。
セレナ・フローレンスという少女が、リリウムに近い存在だと知ったリズは、彼女を「利用する」ことも視野に入れていた。
――ー
一方、リリィはアパートの部屋で、ベッドに横になりながらカスミソウの切り花を眺めていた。
セレナの笑顔、園芸部での時間、ゴールデンウィークの思い出。それらが、彼女の心を温かくする。
だが、どこかで、背筋に冷たいものを感じていた。
戦場で培った直感が、誰かの視線を捉えていたのかもしれない。
だが、彼女はそれを意識に上げることはなかった。
「セレナさん…明日も、園芸部、楽しみです。」
リリィは呟き、目を閉じた。
スズランの鉢が、月明かりに照らされて静かに揺れる。
彼女の心は、セレナとの時間に守られ、過去の傷を少しずつ癒していた。
だが、その背後で、歪んだ瞳が彼女を追い続ける。
リズの執着は、リリィの平和な日常に、静かに忍び寄っていた。
――ー