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悪夢と花の慰め

5月に入り、桜ヶ丘高校のキャンパスは新緑に彩られていた。ゴールデンウィークを目前に控え、生徒たちの間にはどこか浮足立った空気が漂っている。

教室の窓から見える木々の緑は鮮やかで、春の風は柔らかく頬を撫でる。

そんな穏やかな日々の中、リリィ・フロストことリリウムは、しかし、心の奥に重い影を抱えていた。


---


夜、アパートの小さな部屋。

リリィはベッドの上で目を覚ました。額には冷や汗、心臓は激しく鼓動を打つ。彼女の紫の瞳は、暗闇の中で怯えたように揺れている。

悪夢だった。戦場での記憶。硝煙の匂い、魔物の咆哮、倒した敵の血に濡れた地面。


そして、戦友の亡魂が彼女を責める声。


「なぜ、お前だけ生き残った?」


夢の中で、リリィはマークスマンライフルを握り、冷たいスコープ越しに敵を捉えていた。 

だが、その標的は魔物ではなく、かつて共に戦った仲間たちの顔だった。彼女が引き金を引くたび、彼らの声が響く。


「お前が殺した」「お前が生きているから、俺たちは死んだ」


リリィは叫び声を上げようとしたが、声は出ず、ただ銃を握る手が震えた。


「…っ!」


リリィはベッドから跳ね起き、荒い息をついた。部屋は静かで、月明かりがカーテンの隙間から差し込むだけ。

枕元のスズランの鉢が、静かに揺れている。セレナからもらったその花は、いつもなら彼女の心を落ち着かせてくれた。だが、今夜は違う。

悪夢の残響が、彼女の胸を締め付ける。


「私は…生きてる。」


リリィは呟き、膝を抱えた。

戦場では、生き残ることが全てだった。だが、平和な世界で、彼女の「生きる」ことは、過去の罪を背負うことでもあった。

ハンターとして育てられた彼女は、感情を押し殺し、任務を遂行することだけを学んだ。

だが、今、その感情が堰を切ったように溢れ出し、彼女を苦しめる。


---


翌朝、登校するリリィの足取りは重かった。

桜ヶ丘高校の正門をくぐる頃には、いつもなら聞こえる生徒たちの笑い声が、遠くのノイズにしか感じられない。

彼女の銀色の髪は、いつもより少し乱れ、紫の瞳には暗い影が宿っていた。


「リリィ、おはよー! ねえ、ゴールデンウィーク何する? なんか予定ある?」


ミオの明るい声が響く。

彼女はいつものようにリリィの肩を叩き、ニヤニヤしながら話しかけてきた。

だが、リリィの反応は鈍い。


「おはよう…予定は、ないです。」


小さな声で答えるリリィに、ミオは首を傾げた。


「ん? なんか元気ないね? 寝不足? それとも、忍者が夜中に任務してたとか?」


ミオの冗談に、いつもならリリィは慌てて否定する。

だが、今日はただ小さく首を振るだけ。ミオの笑顔が少し曇る。


「…マジでどうした? なんか、顔色悪いよ?」


「大丈夫、です。少し…疲れただけ。」


リリィは無理に笑顔を作ろうとしたが、ぎこちない表情にしかならなかった。

ミオは心配そうにリリィを見つめ、さらにつっこもうとしたが、その時、別の声が割り込んだ。


「リリィさん、おはよう。…本当に、大丈夫?」


セレナ・フローレンスだった。彼女の金色の髪は朝陽に輝き、穏やかな瞳がリリィをじっと見つめる。

セレナの声には、ミオの明るさとは異なる、静かな心配が込められていた。

リリィはセレナの視線に耐えられず、目をそらした。


「はい…大丈夫、です。」


その言葉に、セレナは眉を寄せた。彼女はリリィの隣に立ち、そっと手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。

リリィの閉じた表情に、セレナは何かを感じ取ったようだった。


「うん…でも、もし何かあったら、話してね。私、いつでも聞くよ。」


セレナの優しい声に、リリィの胸が締め付けられる。

彼女は小さく頷き、教室へと急いだ。セレナとミオは顔を見合わせ、心配そうな表情を浮かべた。


---


授業中、リリィの心は晴れなかった。数学の公式も、英語の文章も、彼女の頭を素通りしていく。窓の外の新緑が、戦場の荒野と重なる瞬間があった。

彼女の指は、無意識に机の上でライフルを握る動きをなぞる。過去の記憶が、彼女を現実に引き戻さない。


昼休み、ミオが弁当を広げながらリリィを誘ったが、リリィは「食欲がない」と断り、教室の隅で一人本を読んでいるふりをした。

セレナはそんなリリィを遠くから見つめ、そっとため息をついた。


---


放課後、園芸部の温室。リリィはいつものようにセレナと一緒に花の世話をするためにやってきた。

温室のガラス扉を開けると、甘い花の香りが彼女を包む。

スズラン、ヒナギク、ラベンダー。

色とりどりの花々が、彼女の心を少しだけ軽くする。だが、今日の彼女には、それでも足りなかった。


「リリィさん、今日はこのカスミソウに水やってみる? 小さくて可愛いけど、意外と強いんだよ。」


セレナがジョウロを手に、微笑みながらリリィに話しかける。

リリィは小さく頷き、ジョウロを受け取ったが、その手はわずかに震えていた。セレナはそんなリリィの手を見つめ、静かに口を開いた。


「リリィさん…やっぱり、なんか元気ないよね。朝から、ずっとそんな感じで…何かあった?」


セレナの声は、いつものように優しく、しかしどこか真剣だった。リリィはジョウロを握りしめ、視線をカスミソウの小さな花に落とした。彼女の胸の中で、言葉が詰まる。

過去を話すことは、ユナから固く禁じられていた。ハンターとしての過去は、誰も知ってはいけない。だが、セレナの穏やかな瞳を見ていると、彼女の心は揺れ動く。


「…夢を、見たんです。」


リリィの声は小さく、ほとんど呟きに近かった。セレナは水やりを止め、リリィの隣にそっと腰を下ろした。温室の木製ベンチに並んで座る二人。セレナは黙ってリリィを見つめ、彼女が話しやすいように静かに待った。


「昔…辛いことが、たくさんあった場所で。そこに、戻った夢でした。怖くて…目が覚めても、消えなくて。」


リリィは言葉を選びながら、過去をぼかして話した。戦場の記憶、血と硝煙、亡魂の声。

それらを口にすることはできない。

だが、彼女の声には、抑えきれない苦しみが滲んでいた。

セレナはそんなリリィの声を、ただ静かに聞いていた。


「…そっか。リリィさん、辛い夢を見ちゃったんだね。」


セレナの声は、まるで子守唄のように優しかった。彼女はリリィの手をそっと握り、温もりを伝えた。

リリィは一瞬驚いたが、セレナの手の温かさに、なぜか涙がこみ上げそうになるのを抑えた。


「私もね、昔、嫌な夢を見たことがあったよ。家族のこととか、プレッシャーとか…目が覚めても、胸が重くて、全部自分のせいみたいに感じちゃって。」


セレナの言葉に、リリィは目を上げた。セレナの瞳には、いつもの穏やかさの中に、微かな痛みが宿っている。

リリィは、セレナにもそんな一面があることに驚いた。いつも明るく、完璧に見えるセレナが、こんな思いを抱えていたなんて。


「でもね、リリィさん。花を育ててると、だんだん心が軽くなるの。不思議だけど、花って、ただそこに咲いてるだけで、なんか…癒してくれるんだ。」


セレナはそう言って、目の前のカスミソウを指さした。


「このカスミソウの花言葉、知ってる? 『感謝』と『幸福』。小さくて目立たないけど、どんな花とも調和して、ブーケをきれいに見せてくれるの。リリィさん、なんかカスミソウみたいだなって思う。静かだけど、そばにいると、なんだか安心する。」


セレナの言葉に、リリィの胸が締め付けられる。安心する。

戦場では、誰も彼女にそんな言葉をかけてくれなかった。彼女の存在は、ただ任務を遂行するためのものだった。

だが、セレナの優しい声と、彼女に向けられた温かな笑顔は、悪夢の影を少しずつ薄れさせる。


「リリィさん、辛いことがあったなら、話さなくてもいいよ。でも、こうやって一緒に花の世話してる時間、嫌いじゃないでしょ?」


セレナの笑顔に、リリィは小さく頷いた。

彼女の胸の奥で、凍りついていた何かが、ゆっくりと溶けていく気がした。


「…嫌いじゃ、ないです。セレナさんと、こうやってるの…好きです。」


リリィの小さな声に、セレナの顔がパッと明るくなる。


「よかった! じゃあ、これからも一緒に花の世話しようね。リリィさんがそばにいると、私もなんだか安心するよ。」


セレナの言葉に、リリィは目を瞬かせた。

彼女の頬が、ほのかに熱くなる。

戦場では、誰も彼女を必要とはしなかった。だが、ここで、セレナのそばで、彼女は初めて「必要とされる」感覚を味わった。


「ね、リリィさん。このスズラン、覚えてるよね? 花言葉は『純粋』。リリィさんの心、なんだかスズランみたいだなって思う。どんな辛いことがあっても、きっときれいな花を咲かせるよ。」


セレナがスズランの鉢を指さし、微笑む。リリィはスズランの白い花を見つめ、セレナの言葉を反芻する。


純粋。


戦場で汚れた自分の手が、そんな言葉に値するのか、彼女にはわからない。だが、セレナの笑顔を見ていると、信じてもいいのかもしれないと思えた。


「ありがとう…セレナさん。」


リリィの声は小さかったが、そこには初めての温かさが宿っていた。

セレナはリリィの手をぎゅっと握り、にっこり笑った。


「ううん、私の方こそ、ありがとう。リリィさんが園芸部に来てくれて、ほんと嬉しいよ。」


二人はしばらく、温室の中で花に囲まれ、静かに時を過ごした。

リリィの心に残る悪夢の影は、セレナの声と花の香りに、少しずつ溶けていくようだった。


---


その夜、リリィはアパートの部屋で、スズランの鉢を眺めながらベッドに横になった。

悪夢の記憶はまだ胸の奥に残っている。

だが、セレナの優しい声と、温室での時間が、彼女の心に小さな光を灯していた。


「純粋…か。」


リリィは呟き、スズランの白い花に触れた。セレナの笑顔が、彼女の心に浮かぶ。この平和な世界で、セレナと一緒にいられるなら、過去の傷も、いつか癒えるのかもしれない。

リリィは目を閉じ、初めて穏やかな眠りについた。


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