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第2話:花の囁きと心の芽生え

 

 桜ヶ丘高校の放課後は、春の柔らかな陽光に包まれていた。校庭では運動部の生徒たちが汗を流し、校舎の窓からは音楽部の旋律が漏れ聞こえる。リリウム、いや、リリィ・フロストとして新たな生活を始めた少女は、緊張で硬くなった足取りで校舎裏の温室へと向かっていた。彼女の手には、入学式でもらった分厚いパンフレットが握られているが、ページは開かれていない。彼女の頭の中は、セレナ・フローレンスの笑顔でいっぱいだった。

 

「園芸部…見学、か。」 

 

 リリィは小さく呟き、深呼吸した。紺色のブレザーと赤いリボンの制服は、戦闘服とはあまりにも異なる感触で、彼女を落ち着かせるどころか逆に緊張させた。戦場では、マークスマンライフルを手に敵を正確に狙撃する任務が全てだった。だが、この「園芸部」という未知の場所には、何のマニュアルもない。ユナ司令官から与えられた任務、「普通の高校生として生きる」ことの一環として、セレナに誘われたこの見学に来たのだ。

 

「リリィさん、こっちよ!」 

 

 校舎裏の小道から、セレナの明るい声が響く。リリィが顔を上げると、金色の髪をゆるく編んだ少女が手を振っていた。セレナの笑顔は、入学式の壇上で見たときと同じく、まるで春の湖のように穏やかで温かい。リリィの胸が、なぜかドキリと高鳴る。

 

「遅れてごめんね、園芸部の先輩が水やりの準備してくれてるから、ちょうどいいタイミングよ。」 

 

 セレナはそう言って、リリィを温室のガラス扉へと導いた。リリィはセレナの後ろを歩きながら、彼女の軽やかな足取りや、風に揺れる髪に目を奪われた。戦場では、誰かの動きを観察するのは敵の行動を予測するためだった。だが、今、セレナの動きを見るのは、ただその自然な美しさに引き寄せられているからだった。

 

 温室の扉が開くと、ふわっと甘い花の香りがリリィを包んだ。彼女は思わず立ち止まり、その香りに目を細めた。戦場では、硝煙や血の匂いしか知らなかった。この柔らかく優しい香りは、彼女の心を不思議と軽くした。

 

「ここが園芸部の温室よ。ね、いい匂いでしょ?」 

 

 セレナが振り返り、にっこりと笑う。リリィは小さく頷き、温室の中を見渡した。ガラス張りの空間には、木製の棚に並んだ色とりどりの鉢植え、壁際に整然と置かれたガーデニング道具、そして奥で水やりをする先輩の姿。全てが、リリィにとって未知の世界だった。

 

「セレナ、遅いぞ。見学者連れてきたんだろ?」 

 

 奥からクールな声が響く。黒髪をポニーテールにした、鋭い目つきの少女が振り返った。園芸部の部長、アヤメだ。彼女はリリィを一瞥し、軽く眉を上げた。

 

「ふーん、新入生か…名前は?」 

 

「リ、リリィ・フロストです。よろしく…お願いします。」 

 

 リリィはぎこちなく頭を下げた。アヤメはリリィをじっと見つめ、どこか探るような視線を向けた。

 

「ふむ…なんか、普通じゃない雰囲気だな。まあ、いい。園芸部はのんびりしてるから、気楽に見ていけ。」 

 

 アヤメの言葉に、リリィは少しホッとした。だが、その鋭い視線に、なぜか背筋が冷える。まるで、彼女のハンターとしての過去を見透かされているような感覚だった。

 

「リリィさん、こっちおいで!」 

 

 セレナの声に、リリィはハッと我に返る。セレナは温室の奥にある小さな花壇を指さし、楽しげに話しかけてきた。

 

「これ、私のお気に入りのスズラン。見て、かわいいでしょ?」 

 

 セレナが指したのは、白い小さな鈴のような花が連なる植物だった。リリィはそっと近づき、スズランを眺めた。その繊細な姿に、彼女の心が不思議と落ち着く。

 

「スズラン…きれい、ですね。」 

 

 リリィの呟きに、セレナの顔がパッと明るくなった。

 

「でしょ! スズランの花言葉は『純粋』なの。なんだか、リリィさんに似てるなって思ったの。」 

 

 セレナの言葉に、リリィは目を瞬かせた。純粋。戦場で無数の魔物を仕留め、血にまみれた手を握り続けた自分に、そんな言葉が当てはまるはずがない。だが、セレナの優しい声と、彼女に向けられた穏やかな笑顔に、リリィの心は揺れた。

 

「リリィさん、ちょっとこっち来て。ほら、ほかの花も紹介するね。」 

 

 セレナはリリィの手をそっと引き、温室の棚に並ぶ花々を指さした。彼女の声は、まるで歌うように軽やかで、リリィはその響きに引き込まれるように耳を傾けた。

 

「これはヒナギク。花言葉は『無垢』と『希望』。ね、かわいいよね。白い花びらが、まるで小さな星みたいでしょ? それから、こっちはラベンダー。花言葉は『沈黙』と『期待』。この香り、落ち着くでしょ?」 

 

 セレナは一つ一つの花を丁寧に紹介し、その花言葉を説明していく。彼女の声は柔らかく、言葉の端々に温かさが滲む。リリィは、セレナの話に聞き入っている自分に気づいた。戦場では、司令官の指示や戦友の短い報告しか耳に入らなかった。だが、セレナの声は、まるで心の奥に染み込むように響く。彼女の話し方は、命令や緊張感とは無縁で、ただ純粋に花への愛を伝えている。

 

「セレナさん…花、好きなんですね。」 

 

 リリィの小さな声に、セレナは少し驚いたように振り返り、すぐに微笑んだ。

 

「うん、大好き! 花って、どんな環境でもちゃんと育つんだよ。強いし、きれいだし…なんだか、人の心に寄り添ってくれる気がするの。」 

 

 セレナの言葉に、リリィの胸が締め付けられる。強い。戦場では、確かに彼女は強かった。マークスマンライフルを手に、どんな遠距離の敵も正確に仕留めた。だが、その強さは、ただ戦うためのものだった。セレナが言う「強さ」は、もっと柔らかく、温かいもののように感じられた。

 

「リリィさんは、花のこと、知ってる?」 

 

 セレナの質問に、リリィは首を振った。彼女の頭に浮かぶのは、戦場で見た枯れた草や、隠れ場所として使った茂みばかりだ。花の名前や意味など、知る機会はなかった。

 

「…知りません。戦…その、昔、住んでたところには、花が少なかったので。」 

 

 リリィは言葉を濁した。戦場という言葉を飲み込み、偽の過去を口にする。セレナはそんなリリィの様子に気づかず、にっこりと笑った。

 

「そっか。じゃあ、これからいっぱい教えてあげるね! 花のこと、知ると楽しいよ。ほら、例えばこのカスミソウ。花言葉は『感謝』と『幸福』。小さくて目立たないけど、どんな花とも調和するの。リリィさんに、なんか似てるかも。」 

 

「私に…?」 

 

 リリィは目を丸くした。カスミソウの小さな白い花は、確かに繊細で、控えめだ。だが、セレナの言う「調和」という言葉が、リリィの心に響く。戦場では、彼女は常に孤独だった。一人でスコープを覗き、一人で引き金を引いた。仲間との連携はあったが、心を通わせることはなかった。セレナの笑顔を見ていると、なぜか「調和」という言葉が、彼女の心に温かな光を灯す。

 

 セレナはさらに花の説明を続けた。彼女の声は、まるで物語を語るように優しく、リリィはその響きにどんどん引き込まれていく。セレナが花に水をやりながら話す姿、彼女が花びらをそっと撫でる仕草、その全てがリリィの目に美しく映った。戦場では、どんな美しい景色も、ただの背景でしかなかった。だが、今、セレナの笑顔と花々に囲まれたこの温室は、リリィにとってまるで別世界のように感じられた。

 

「リリィさん、ちょっと試しに水やりしてみる?」 

 

 セレナがジョウロを差し出し、リリィに微笑んだ。リリィは一瞬たじろいだが、セレナの優しい表情に押され、ジョウロを受け取った。彼女の手は、ライフルを握る時には決して震えなかった。だが、今、ジョウロを持つ手はわずかに震えている。

 

「こうやって、土が湿るくらい、優しくね。」 

 

 セレナがリリィの手をそっと導き、ジョウロを傾ける。土に水が染み込む音が、静かな温室に響く。リリィは、その感触に目を奪われた。戦場では、水といえば飲料や装備の洗浄に使うものだった。だが、この水は、命を育むためのものだ。セレナの手の温かさと、花の香りに包まれ、リリィの心は不思議な安らぎに満たされていく。

 

「…不思議、です。こんな、柔らかいものが、生きてるなんて。」 

 

 リリィの呟きに、セレナはくすっと笑った。

 

「うん、植物って、強いんだよ。見た目は繊細でも、ちゃんと根を張って、どんな環境でも生きていくの。リリィさんも、なんかそんな感じがする。」 

 

 セレナの言葉に、リリィの胸が締め付けられる。彼女の過去は、戦場での冷酷な記憶でいっぱいだ。だが、セレナの優しい声と、彼女に向けられた穏やかな笑顔は、その記憶を少しだけ遠ざける。リリィは、セレナの表情を見つめながら、自分がその笑顔に安らぎを感じていることに気づいた。戦場では、どんな危機的状況でも心は静かだった。だが、今、セレナのそばにいるだけで、彼女の心は温かく、穏やかに揺れている。

 

「セレナさん…どうして、私を誘ったんですか?」 

 

 リリィの突然の質問に、セレナは少し驚いたように目を瞬かせた。だが、すぐに柔らかな笑顔に戻り、答えた。

 

「んー、なんとなく、かな。リリィさん、入学式でちょっと緊張してるみたいだったけど、なんか…放っておけない感じがしたの。花の世話って、静かで落ち着くから、リリィさんに合いそうだなって思ったんだ。」 

 

 セレナの言葉に、リリィの頬がほのかに熱くなる。放っておけない。誰かにそんな風に思われたことなど、彼女の人生では初めてだった。ユナでさえ、彼女を戦士として育て、任務を与える存在だった。だが、セレナの言葉は、ただリリィという人間を見てくれているように感じられた。

 

「リリィさん、園芸部、試しに入ってみない? 私、毎日ここに来るから、一緒に花の世話できるよ。花のこと、もっと知ったら、絶対楽しいよ。」 

 

 セレナの誘いに、リリィの心が揺れた。園芸部に入る。それは、セレナと一緒に過ごす時間がもっと増えるということだ。彼女の優しい声、穏やかな笑顔、花の香りに包まれたこの温室。それらが、リリィの心に小さな希望を灯す。戦場では、未来を考える余裕などなかった。だが、今、セレナのそばでなら、未来が少しだけ楽しみになる気がした。

 

「…はい、入ります。」 

 

 リリィの小さな声に、セレナの顔がパッと明るくなった。

 

「やった! じゃあ、明日から一緒に始めよう! リリィさん、絶対園芸部楽しめるよ!」 

 

 セレナの笑顔に、リリィは思わず視線をそらした。頬が、ますます熱くなる。彼女は、セレナのそばにいられること、そして花の世話を通じてこの温かな時間を共有できることに、心から安堵していた。戦場で育った彼女にとって、花を育てることは未知の行為だった。だが、セレナと一緒なら、きっと好きになれる。そう確信した瞬間だった。

 

 ――ー

 

 その夜、リリィはユナから借りたアパートの部屋で、ベッドに横になりながら今日のことを振り返っていた。温室の花の香り、セレナの優しい声、彼女の笑顔。全てが、彼女にとって新鮮で、温かかった。

 

「園芸部…セレナさんと、一緒に。」 

 

 リリィは呟き、枕元に置いたスズランの小さな鉢を眺めた。セレナが「見学のお土産」として渡してくれたものだ。白い花は、月明かりに照らされて静かに揺れている。

 

「人間として生きる…か。」 

 

 ユナの言葉がよみがえる。リリィは目を閉じ、セレナの笑顔を思い出した。彼女の胸の奥で、初めての感情が芽生えていた。それは、戦場では決して感じることのなかった、未来への小さな希望だった。

 

 ――ー

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