その男について何も知らない
その男の腹を割ると、溶岩のような胃袋がその姿を見せ、それを左手で掬う。力を籠める。指が肉壁に沈むと同時に、その男の口から空気が漏れる、気がする。生命の気配を肌に感じながら、胃袋を握り潰す。汁が滲む。穴は開かない。拳の体積だけ肉が上下にずれ、指の力を抜くと肉の復元力を持ってそれを押し戻してくる。それを繰り返す。その男が誰だかわからなくなるまで。血は流れない。遅れて立ち昇る湯気が額にあたり、自身の呼吸を取り戻す。臓器が吐く息と自身の呼吸がぶつかり、死臭を孕む。
赤、赤、黒、茶、赤、黒
点滅する色と臭気の間からその男の顔を覗く。その男の視線を受ける。
理想、退屈、不満、嫉妬、軽蔑、希望
その男の点滅する思想を自身の眼で受け取る。次第に胃袋を握る左手の動きが緩慢になってくる。その男の顔がどろりと溶け出し、幾つかの思想を放った目玉は自ら眼孔を飛び出し、潮風を辿って海へと向かう。
意識が定かである時間帯、その男は大抵、電車に乗っている。鉄の車輪に運ばれ、どこからどこへ向かうのかは定かではない。その目的も解らない。その男自身、自分自身について何も知らない。誰もその男に声をかけない。その男自身、声を発さない。ひたすらに小さなゞ窓を眺め、それを人差指と親指でそっと摘まみ、掌に握り締めて、そしてそれすらいつの間にか忘れている。鉄の車輪が線路の繋ぎ目に接する度に目的地から遠ざかっていく。多くの人が降りるとある駅にてその男の足も動く。その男は歩く、足並みが揃う、しかしその自覚はない。とある駅を基点に集約され、また拡散していく、意識があるうちは。
その男は巣籠りをする。消耗する意識の中で、冷たい水と温かい食料に手が届く巣を手に入れる。巣は同じような男たちで溢れるが、水や食料が足りなくなることはない。それはいつも同じ場所に置かれており、その男は意識がなくともそこに辿り着けるようになっている。巣でその男は水を飲む。黒い、泡沫を含む水を傾けながら、自らの臓器より幾分か淡い色をした、しかし姿形は酷似した食料を、ことん、ことんと音を鳴らしながら胃袋に落とす。胃袋に収まった食料はその瞬間から肉壁となり、その色を強くし、自らの臓器の形を覚える。その男の巣は大きなゞ窓を持つ。暗い巣の中で光を持つのはその窓だけで、その男は意識を失いながらそれを見つめる。窓にはその男の全てが映るが、その男はそれを知らない。その男は、窓に映るものは自分以外の全てであると考えている。つまり、世界だと。しかし、世界もそれを知らない。その窓を通して、その男は世界を見ているつもりでいて、世界もその男に見られているつもりでいる。
部屋に光がこもる。その男の上着を想起する。柄は横縞に相違ない。白色と、青色か桃色の横縞の上着。それを捲り、腹を割るのだ。青白い腹を。腹の下には血管が散る。それは紫色で、細長く、その男の腹に蛇行した縦の道路を作る。何時もその道を伝って、溶岩のような胃袋に辿り着く。
何度か寄り道をしたことがある。その場合、行きつく先は概ね肝臓や大腸、左肺あたりで、心臓と膵臓は未だ見たことがない。肝臓や大腸、左肺に行きついたとしても、同じ動作を諦めない。それを左手で掬い、力を籠める、それを何度も繰り返す。臓器は壊れない。力を入れると一時的にはその形を変えるが、彼らが考える彼らの望ましい姿を維持しようとする意志をもって復元される。それを握る。何度も、その男が誰だかわからなくなるまでそれを握り潰す。
その男については、何も知らない。
その男にしか、何もわからない。