愛を裏切ってはいけない
婚約を破棄されたご令嬢がかつての婚約者であった王太子の訃報を聞くお話。
「リネット・フロックハート! お前との婚約を破棄する!」
王立学園の卒業を祝うパーティーの途中で、突然この国の王太子がそう高らかに宣言した。
名指しされたフロックハート公爵令嬢リネットはゆっくりと振り返り、自分に対峙する王太子とその隣にいる留学生ナタリアを眺めやった。
そっと嘆息する。
「どうかお考え直しくださいませ、殿下。婚約の破棄につきましては両家を交えてお話したく存じますけれども、まさかそちらのナタリア様を新たなご婚約者に据えるおつもりですの?」
「わたしの可愛いナタリアに何か文句でもあるのか、血も涙もない女め!」
「ナタリア様を殿下のご婚約者になど、相応しくはございませんわ」
仮にも婚約者であるリネットの前でナタリアの肩を引き寄せながら、王太子がリネットを睨みつけた。
「何をいう! 心の冷たいお前と違って、ナタリアは慣れない環境のなかでも一生懸命に頑張っているのだぞ! お前なぞ所詮は政略で無理やりに結ばれただけの女だ、わたしは最初から愛してなどいなかったのだ!」
何を言っているのだろう、この殿下は、とリネットはそっと首を傾げたくなるのを堪えた。
この婚約は、別に政略で結ばれたものではない。子どもの頃に、王太子がどうしてもと大騒ぎするから王家から懇願されて結ばれた婚約だった。
四方を海に囲まれたこの島国は、小さいながら海洋資源に恵まれた豊かで穏やかな国だ。島国であるために周囲に大きな脅威はなく、豊かであるために食べるに困ることもない。
だから、互いの意志を無視した婚約を無理に結ぶ必要もない。貴賤結婚も、よほど相手の人格に問題がなければ大騒ぎされることは少ない。
とはいえ、さすがに王太子の伴侶ともなるとそれなりの品格を期待されるものだが――。
リネットは、王太子の隣に立つナタリアをじっと見つめた。
ナタリアは一瞬だけびくりとして、それでもリネットを見返した。その瞳には、静かな決意が宿っているように見える。
「フロックハート公爵令嬢は、殿下と政略によるご婚約を結ばれているとお聞き致しました。割り込むような形でもちろん大変に申し訳なくは思っておりますが、わたくしは殿下を愛してしまったのです。どうしてもどうしても、愛してしまったのです。そして殿下からも、わたくしの愛にお応えして頂きました。どうかお認め頂けませんでしょうか」
「そうですの……」
リネットは頷き、嘆息し、思案し、それからまたナタリアを見た。
「愛してしまったのですね」
「はい」
「お気持ちは変えられないのですね」
「はい」
「殿下と想いが通じ合っているのですね」
「はい」
「何があっても、殿下とともに在るというのですね」
「地獄までもともに参りますわ」
あぁ、これは。
もう、だめだ。
リネットはそう悟った。だから頷き、一歩だけ下がり、王太子とナタリアに美しいカーテシーを披露した。
最後の挨拶だった。
「殿下のご意向を承りましたわ」
***
リネットが故国を離れた婚姻先で、かつて婚約者だった王太子の訃報を聞いたのは、それから二年後のことだった。
「そう、ありがとう」
知らせを齎した子どもの頃からついてくれている侍女に、リネットはそう頷いた。リネットにも、侍女にも、大して驚いた様子はない。
むしろ、意外と長く保ったな、というのが正直な感想だった。
故国では病死と発表され、国民は少しばかり驚いたようだが、王宮は最初から想定内であるために大きな混乱にはならなかったようだ。
それなりの期間を経たのちに、秘密裏に本格的な王太子教育を進められていた第二王子が、次の王太子に奉じられるだろう。
「殺したのはナタリア様ね」
「さようでございます」
「死体は残ったのかしら」
「一部は食われたようですが、大部分は無事だそうですよ」
「それは何よりだわ、葬儀でお顔が見せられるもの」
必要なことだけを聞いて、リネットは憂うように窓の外に視線を向けた。
「ナタリア様もあんな男を愛したばかりに、お可哀想だこと」
リネットはそう呟いた。別に勝ち誇った様子はなく、ただリネットはナタリアを憐れんでいた。
なぜなら、ナタリアは――。
人魚国からの留学生であり、人魚国の王女殿下だったからだ。
この世界には様々な人型種族がいるが、人魚というのは人型種族の中で最も恋愛感情を重んじる生き物だ。人魚は愛のために生き、人魚は愛のために死ぬ。
純人以外の亜人というのは長寿であるために、寂しさを埋めるかのように基本的に番(亜人は伴侶を番と呼ぶことが多い)に愛を求める生き物だが、人魚はその中でも特に顕著だ。人魚は愛とともに生き、人魚は愛とともに死ぬ。
だから、そう。愛を裏切られた人魚が思いあまって相手を殺めてしまうということも、多くはないがたまに聞こえてくる悲劇なのだった。
ナタリアは王太子を愛しただろう。だから婚約を結んで、王太子に相応しくあろうと努力しただろう。
リネットは学園で大した関わりはなかったが、ナタリアが優秀であることは聞こえてきた。だから陸に上がった当初は物慣れなくとも、あっという間に王太子の婚約者として必要なマナーを身につけただろう。
そして、王太子は――。あの、簡単にリネットを裏切った、浮気性な男は。
きっと、飽きたのだ。
ナタリアは優秀だったはずだ。あっという間にマナーも、言語も、文化も、必要な教養を身につけただろう。二人が出会った当初の初々しさは消え、王太子の婚約者として相応しい女性に成長したはずだ。
そしてきっと王太子は、そんな優秀なナタリアを愛し続けることはできなかったのだ。
なぜなら、リネットもまたそうだったからだ。
リネットも幼い頃は王太子に愛されていた。けれどリネットが王太子の婚約者として必要な教養を身につければ身につけるほど、王太子はリネットから興味を失った。
そうして王太子は、次々に女性を乗り換えるようになったのだ。
リネットのかつての婚約者であった王太子は、身分と見た目は良かったけれど能力はほどほどで、性格はそこそこに悪く、何より女好きだった。
リネットという婚約者を持ちながら、リネットとの婚約を解消するでもなく、様々な女性と浮き名を流していた。
王太子は、身分だけは王国でほとんど最高位に近い場所にいた。けれど、能力はそれなりでしかなかった。だというのに、優秀なものを認めて重用する人格すら持てなかった。
そうして肥大した自尊心では、自分よりも優秀な人間、特に女性を厭うようになった。リネットに対するときと同じように、王太子の婚約者として相応しく成長した優秀なナタリアから、王太子は興味を失ったのだ。
違ったのは、ナタリアがリネットではない、ということ。ナタリアが、人魚であるということ。
ナタリアは無邪気に信じただろう。永遠の愛を信じただろう。真実の愛を信じただろう。たとえ病を得ようと、手足をもがれようと、地獄に落ちようと、決して尽きず裏切らない愛を信じただろう。なぜなら人魚であるナタリアにとって、愛とはそういうものだからだ。
ナタリアには理解ができなかっただろう。王太子があっさりとナタリアへの愛を失ったことを、あっさりとナタリアへの興味を失ったことを、あっさりとナタリアを裏切ったことを。
だから、殺したのだ。人魚が愛を裏切った相手を殺すことは、猫がネズミを狩るくらい自然なことだ。死体の大部分は食われずに残ったとのことだから、むしろ幸運な部類だろう。
どちらが良いも悪いもない、これはただそういう種族であるというだけの話なのだ。
「だから、言いましたのに。相応しくない、と」
人魚は美しい。なぜならそういう生き物だからだ。人魚は愛するものを海に誘い、深みへと引きずり込み、永遠を二人で揺蕩う。それこそが最も美しい愛の形だからだ。
人魚は美しい。人魚は可愛らしい。そして、無邪気で、獰猛で、残酷だ。
ナタリアは信じただろう。永遠の愛を信じただろう。真実の愛を信じただろう。
ナタリアにはきっと、愛を裏切った王太子が理解できなかった。だから、仕方ないから、殺して、愛を永遠にしたのだ。人魚にとって、愛は命が続く限り尽きることのないものだから。
人魚国の王女に殺された王太子は、故国にも人魚国にもただの病死であると知らされたはずだ。ナタリアが罪に問われることはない。
なぜなら人魚たちにとっては、自国の王女が他国の王太子を殺したことよりも、他国の王太子が自国の王女の愛を裏切ったことのほうがよほど大きな問題だからだ。
人魚たちにとって、ナタリアの行いにおかしなところは一つもない。互いの文化が違いすぎるために、どちらかが退かなければ、泥沼になってしまう。
海に囲まれた島国である故国は、人魚国との関係を絶対に悪化させられない。周囲が全て敵という絶望的な状況になってしまううえに、恐らく海産物がほとんど採れなくなってしまう。船の運航すら難しくなるだろう。
だから、ほどほどでしかない王太子は切り捨てられたのだ。浮気性の王太子が人魚であるナタリアとは合わないことなんて、誰もが判っていた。
王太子がいずれナタリアに殺されるであろうことは、最初から判り切ったことだったのだ。故国では、二年前から密やかにその心づもりでことが進んでいた。
王太子を殺したナタリアがどうなるかは判らない。秘密裏に人魚国に戻されるのか、理由をつけて故国で幽閉されるのか――。どちらにせよ、長くは生きられないだろう。人魚は愛とともに生き、人魚は愛とともに死ぬ。
きっと、飛びきりの美談に仕立て上げられるはずだ。ナタリアは病み衰える王太子を最期まで愛しぬき、果てに病死した王太子への愛に殉じたと——、きっと、飛びきり美しい恋物語として吟じられるだろう。
「異種族との恋物語なんて、大概は飛びきりのハッピーエンドか同じくらい飛びきりの悲劇かの両極端ですもの。浮気性の殿下ではヒーローにはなれませんわ」
美しいナタリア。可愛いナタリア。無邪気なナタリア。
彼女は人魚らしく無邪気で、人魚らしく残酷で獰猛だった。ナタリアは永遠の愛を信じただろう。真実の愛を信じただろう。そしてこれからも、何ひとつ、疑うことなく信じ続けるだろう。
「愛を裏切ってはいけませんのよ」
リネットの記憶にも、ナタリアの美しさは焼きついている。人魚は美しい。人間が人魚に惹かれるのは、もう本能のようなものだ。人魚とは、そうできている。
王太子の一部を胃の腑に収めて、満足げに薄い腹をさする美しいナタリアの姿を、リネットは見たこともないのに簡単に思い浮かべることができた。
「食い殺されても文句は言えませんわ」
これはわたしにしては珍しく王道の婚約破棄ざまぁ小説と言えるのでは? と自画自賛しております。王道! 王道、、? まあ婚約破棄をしたほうが酷い目に遭っているのでそれっぽいかなって。
最初はリネットと婚約破棄してナタリアと婚約を結んだあとに王太子が浮気をして王太子がナタリアに殺されて、王女の愛を裏切られた人魚国が大激怒して王国は干上がりましたとさ、ちゃんちゃん、、ってお話を考えていたのですが、お話の書き出しでうっかり「豊かで穏やかな国」にしてしまったのでもっと穏やかな方向で軟着陸させました。でも話の流れとしては最初に考えていたほうがわたしっぽかったかなーと思っております。まあたまには王道っぽいお話も書いてみましたってことで、ひとつ。
【追記20250301】
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