88話 女子たちは企てる
エンフィールド男爵領に来てから体の調子が良い。
朝目覚めた瞬間から今まで感じていた体の倦怠感はなく、食事がするすると喉を通る。
ただエンフィールド男爵領までの旅路は最悪だった。
馬車の振動で体が浮き上がる度に肉の薄い尻は痛み、座りっぱなしで曲がった節々が悲鳴を上げる。
イルミナージェ第一王女を説得して視察団に同行したことを、何度後悔しかけたことか。
あくまでしかけただけであって、ドロシーの服飾への情熱は決して冷めなかったが。
ドロシーが倒れるときは、精神的にではなく物理的に体が保たなくなった時だけである。
そしてエンフィールド男爵領に付いた時点では、その体力は限りなくゼロに近かった。
あと一日馬車に揺られていたら本当に力尽きていたかもしれない。
疲労困憊だったため夕食も摂れず、シキが振舞ってくれた紅茶だけ胃に流し込んでその日はすぐに寝た。
これは体調回復に時間がかかるかと思われたが、翌朝には体調が驚くほど回復していて、朝食もいつも以上に食べられた。
「私って田舎暮らしが向いているのかしら。空気が新鮮だったり、料理に使う食材が新鮮だったり、健康には良さそうだものね。でも以前お父様の親戚の田舎へ療養に行ったときは、ここまであからさまに体調が良くはならなかったわね。キャロラインはどう思う?」
ドロシーは自身が連れてきた唯一の侍女へ問いかける。
名前を呼ばれたキャロラインは、ドロシーの顔色を見ながら考え込む。
「実は体調が良いのではなくて、精霊様の衣装をスケッチできる喜びで興奮状態になっているだけ、とかではないですよね? 妙に顔色も良いですし。突然血管が破裂したり心臓が止まったりしないですよね? お嬢様」
「しないわよ……多分。今言われるまで精霊様のことは意識していなかったし。そうよ! 今日から精霊様の衣装をじっくり観察できるのよ! はあはあ」
「しまった、余計なことを言ってしまった。お嬢様、どうどう」
こうしてドロシーのエンフィールド男爵領での生活は始まった。
精霊の主であるシキが忙しいため、ドロシーが精霊であるオルティエの衣装をじっくり観察できる時間は多くはない。
なのでオルティエに会えない時間は自分の天幕でスケッチした衣装の清書、及び貴族向け衣装への落とし込んだ図案の作成に明け暮れた。
オルティエの衣装はそのまま再現しただけでも貴族の社交界で通用する。
いや、通用するどころかあの衣装を着て夜会に出ようものなら、その瞬間から王国のファッションリーダーになれる。
しかしフリルもレースも精密過ぎて忠実に再現しようと思うと、膨大な作業量になってしまう。
あの美しいデザインを再現できる財力を持つのは王族か公爵家くらいだ。
オルティエの衣装を社交界で流行らせるなら、デザインの簡略化は急務である。
ドロシーはイルミナージェ第一王女に気に入られる程に服飾デザインのセンスに優れていて、オルティエの衣装の手直しも順調に進んだ。
だが順調に進んでいるのは自身の才能だけではないとドロシーは感じていた。
オルティエの衣装の完成度が既に高いのだ。
例えばシキと同じ精霊使いのリーゼロッテが使役する風精霊シルファがいる。
シルファも風精霊にふさわしい可愛らしいドレス姿で、ドロシーの創作意欲が刺激された。
しかしそのドレスを貴族向けに手直しするには、オルティエ以上の修正が必要になる。
何故なら二の腕の付け袖が空中に浮いていたり、飾り紐が重力に逆らって上を向いていたりと、人間用の衣装では再現できない部分があるからだ。
その一方でオルティエの衣装にはそういう部分がほぼない。
まるで人間用の衣装を精霊に着せているかのようだ。
そもそもオルティエは何を司る精霊で、なぜ何種類も衣装を持っているのかと、ツッコミどころは満載だ。
もちろんそれを指摘してシキとオルティエの機嫌を損ねさせるような過ちは犯さない。
これからも増えるであろう新しい衣装を見せてもらえなくなったら、ドロシーは悶死する自信があった。
エンフィールド男爵領に滞在してもうすぐ一週間になる。
昨日、四つ目の衣装お披露目に伴い徹夜でデザインの清書を仕上げたドロシーは、清々しい気分で朝を迎えていた。
「おはようございます。ドロシー様、キャロライン様。朝食を持ってきました」
「おはようございます」
「マリナ、おはよう。毎日食事を持ってきてくれてありがとう」
ドロシーが滞在している視察団の天幕に、エンフィールド男爵領の住人であるマリナが籠を抱えてやってくる。
シキがドロシーの健康面を考慮して、食事は視察団の持ち込んだ食料だけではなく、男爵領で採れた新鮮な野菜を提供してくれていた。
おかげ様で徹夜してもこの通り元気だ。
残念ながら徹夜しないという発想には至らないのだが。
マリナがキャロラインとテーブルの上に籠に入れて持ってきた朝食を並べていると、画架に立て掛けてある絵が目に入った。
「あっ、これは」
「さっき完成したの。精霊オルティエ様の衣装をアレンジした侍女服よ」
「ふわぁ、可愛い……」
「そうでしょう、そうでしょう」
手を止めて侍女服の絵に見とれるマリナにドロシーが満足げに頷く。
ドロシーのところへ食事を持っていく度に様々な衣装の絵が見られるので、マリナはすっかりそれらの虜になっている。
田舎の村娘と言って差し支えないマリナにとって、ドロシーの描く衣装はどれも輝いて見えた。
「侍女服ってことは、私も着れるかもしれないのかな」
「あら、マリナは侍女になりたいの?」
「えっと、今はお母さんがやってるんだけど、そのうち私がシキ……様の屋敷のお掃除とかをするようになるの」
「そうなのね。ならマリナの分の侍女服も作ってあげないと」
「ほんと!? やったぁ! ドロシー様大好き!」
完全に配膳を忘れてマリナがドロシーに抱きつく。
その様子をキャロラインが手を動かしながら微笑ましそうに見ている。
「でも侍女でいいの? シキ様のお嫁さんになればこっちの白いドレスも着れるわよ」
「えー、無理だよお。シキはお貴族様で私は平民だし」
などと言いつつも頬を赤らめているマリナは、ドロシーが見せる絵から目が離せない。
妹がいたらこんな感じなのだろうかと思いながら、ドロシーはこの愛くるしい生き物の頭を撫でた。
「ドロシー様ならシキ様のお嫁さんになれるんじゃない?」
「うーん、私は一回断られてるからなぁ」
「えっ、そうなの?」
「それにこんな骨ばったお嫁さんはシキ様も嫌でしょう。白ドレスや春ドレスは胸周りが足りなくて着れないし、私も頑張って侍女服かな」
「え~ドロシー様美人なんだからドレスもきっと似合うよ」
「あら、お世辞でも嬉しいわ。ありがとう」
「いえいえ、マリナの言う通り、ドロシー様はこちらに来てから日に日に健康的に美しくなられていますよ」
「そうなの?」
キャロラインにそう言われてもドロシーはピンとこなかった。
自分の頬を触ると、確かに前よりはふっくらしているがそれだけだ。
「いずれにせよもっと肉を付けないと駄目ね。それなら思い切って私とマリナ、二人でシキ様の妾を目指してみる? この先かなり出世すると思うから、正妻は無理でも妾なら可能性があるかも」
「めかけでもドレスは着れるの? ならシキ様のめかけになる!」
「ドロシー様、いたいけな少女に何を吹き込んでいるのですか。あと私を仲間はずれにしないでください。混ぜてください」
「よーし、なら三人で乗り込もうー」
「「おーーーー!」」
『マスター、どうしました? 心拍数が上がりましたが』
『わからない……わからないが、急に動悸が』