悪女なので魅了の魔法が使えます
「ああ……いい風」
馬車から降りた瞬間にドレスの裾をそよ風が揺らすのを感じて、私は目を細めた。
青々とした草原の向こうへ視線をやると、木立やちょっとした城のようなものが見える。
そんなのどかな光景を見つめながら、私は伸びをした。ずっと馬車に揺られっぱなしだったせいで体が強ばってしまったけれど、遊びに来て正解だったかもしれない。
けれど心が安まったのも束の間、私の周りに一緒に遊びに来ていた人たちがわらわらと集まってくる。
「サンドラ様、綺麗なお花が咲いていますよ!」
「花なんかより、あそこの小川を見に行かない?」
「何言ってるんですか! サンドラお姉様は私とチョウチョを捕まえるんです!」
あれよあれよという間に、静かだった野原は私を巡ってちょっとした争いが起きてしまった。
左右から腕を引っ張られ、木立まで誘導されながら、私は皆の様子を盗み見る。
何かに憑かれたような表情と、強迫観念すら感じる口調。どうしていつもこうなってしまうのだろう、と私は嘆息したくなってきた。
いや、原因なんて分かっている。皆、私の魔法の影響を受けているんだ。
****
この国では誰でも魔法を一つ持って生まれてくる。炎魔法とか、物体浮遊の魔法とか。
私の場合は、「自分をとても魅力的に見せることのできる魔法」だった。つまり、相手を魅了する能力だ。しかもその効果は絶大かつ、自分の意思とは無関係に発動してしまう。
そのせいで、私はこの力を完全に持て余していた。
「ああ……愛しのサンドラさん。野外で見るあなたも、とても美しいよ……」
情熱的な口調で、ある青年が囁く。王太子殿下だ。
「この気持ちを抑えることなんて、もうできない!」
殿下は空に向かって手を掲げる。同時に、木々に縁取られた晴天の空が花火に彩られた。しかも、ご丁寧にハートのマークとは……。
「私の愛を理解してくれたかい? 可愛いスイートポテトちゃん」
「は、はあ……」
陶然とする殿下に対し、私は何とも言えない返事しかできなかった。
だって、殿下がこんなにも熱心に口説いてくるのは、私の魅了魔法のせいだって分かっていたから。そうじゃなかったら、誰が私のことなんて気にするだろう。
私には取り柄と言えそうなものが何一つなかった。手先が器用なわけでも、歌が上手いわけでも、外国語が堪能なわけでもない。
見た目にしたって最悪だ。厚い一重瞼に小さな目、のっぺりとした鼻。肌は浅黒く、背は低くてぽっちゃりとしている。殿下は「美しい」と言ったけれど、生まれてこの方、私は自分が綺麗だなんて思ったことは一度もなかった。
でも、そんな凡庸な私を皆は女神様みたいに崇拝して、これでもかとばかりに持ち上げるんだ。
自分にはいいところなんか何一つないと思っている私が、そんなことをされる度に、いたたまれなくなってしまうとも知らずに。
それもこれも、皆この忌々しい魅了魔法のせいだ。この魔法のせいで、誰も本当の私を見てくれない。魔法というフィルターをかけた私にしか目が行かないんだ。
誰か一人くらい、素の自分に気付いてくれる人がいないかしら……。
ことあるごとにそんなことを考えてはみるけれど、それは到底叶いそうもない願いだというのは、私自身が一番よく分かっていた。
「そう言えば、もうすぐお昼時ね」
「いけない! サンドラさんがお腹を空かせてしまう! 木の実か何かを探してこないと!」
「まあ、抜け駆けは許しませんよ!」
私を置いてけぼりにした会話の後で、皆は蜘蛛の子を散らすように木々の中へと分け入っていった。
「まったく、もう……」
私の意見も聞かず、彼らが暴走するのはよくあることだった。本当に私のことを考えてくれているのなら、そんな行動は取らないと思うのだけれど……。やっぱり皆が私を好きなのは、魅了魔法のせいなんだろう。
「賑やかな連中だな」
ふと声がして視線を向ける。傍の木陰に人がいるのが見えた。
蜂蜜色の髪を無造作に後ろで束ねた青年だ。袖をまくったシャツからは、日焼けしてオリーブ色になった肌が覗いている。大きな目は褐色で、張り詰めた感じのする鋭い光を放っていた。
「あなた……」
こちらに敵意があるとも取れそうな雰囲気をまとっている青年に、私の目は釘付けとなる。こんな反応をされるのは生まれて初めてだ。
「……ベルナール?」
すぐ傍で声がして我に返る。目を見開いた王太子殿下が、いつの間にか横に立っていた。
謎の青年は殿下を見るなり固まってしまった。まるで、なくしたものが意外な場所から出てきたみたいな顔をしている。
「サンドラ様~、どちらにいらっしゃるの?」
散らばっていた皆も集合し始めた。青年はハッとしたように「サンドラ?」と呟く。
途端に彼が鋭い目を向けてきたものだから、私はドキリとしてしまった。
「君がサンドラなのか? 噂に聞いたことがある……。魅了の魔法で、皆を思いのままに操っているとか」
青年は値踏みするように、私を上から下まで見つめた。
「とんだ悪女だな。それに……ブサイクだ」
頭を殴られたような気がした。
私が悪女? 私がブサイク?
なんて……なんて素敵な言葉なんだろう!
けれど、感動のあまり涙が出そうになっていた私とは対照的に、皆は青年に向かって拳を振り上げた。
「サンドラ様に向かって失礼な!」
「お前、何様のつもりだ!?」
放っておいたら、殴り合いにでもなりかねない雰囲気だ。王太子殿下が慌てて、「行こう。ケンカは良くないよ」と皆を促す。
皆はブーブーと不満をこぼしながらそれに従ったけれど、私はどうにも青年と別れがたく感じてしまって、その場から動けない。殿下は焦れたように、「ほら、あなたも」と言った。
でも、私は動かなかった。まだこっちを睨んだままの青年にときめきを覚えながら、王太子殿下にコソッと尋ねる。
「殿下はあの方とお知り合いなのですか? 彼を名前で呼んでいましたよね? ベルナール、と」
「まあ……弟だからね」
「……弟?」
意外な言葉に私は驚かずにはいられない。けれど、すぐに思い出した。
国王陛下の末息子は体が弱く、離宮で暮らしている、と聞いたことがあったんだ。
まさか、彼がその「末息子」なのだろうか。
「……でもあの方、あまり病弱そうには見えませんよ」
私は青年を眺める。
よく日に焼けた肌と均整の取れた体付き。身長は平均くらいだけど背筋はしゃんと伸びていて、とても病気がちな人のようには思えない。
「それは……ちょっと事情があってね」
殿下はさらに声を低くして、仕方なさそうに説明を始めた。
「あの子はあまり父上からよく思われていないんだ。……別に嫌われてるわけじゃないけどね。ただ、持って生まれた力がちょっと特殊だったから……。あの子は、自分に向けられた魔法を無効化できるんだよ」
「魔法を無効化……?」
「だから父上は彼に対して、少し疑心暗鬼にならざるを得ないというか……。ほら、父上の魔法は『読心』だろう? 父上は、これまでずっと人の心を読むことで、相手の人となりを判断してきたんだ。でも、あの子にはそれができないから……。……サンドラさん? 聞いてるかい?」
いいえ、聞いていませんでした。
心の中で返事をする。
今私の頭の中は、先ほど知った衝撃の事実で埋め尽くされていた。あの方には魔法が効かない。どんな力も無効化されてしまう。
つまり、私の魅了魔法も……。
「ベルナール様!」
気付いた時には、私はベルナール様の元へと駆け寄っていた。ちょっと後ずさりされたのも構わずにその手を取り、こみ上げてくる笑みを抑えきれずに叫ぶ。
「どうか、私とお友だちになってください!」
この人は、ずっと私が欲しかったものを与えてくれる人。
だから絶対に逃してはならないと直感したのだ。
****
「ベルナール様~! クッキーを焼いてきましたよ~!」
あの運命の出会いの翌日。離宮に足を運んだ私は、中庭のベルナール様に声をかけた。
「何しに来たんだよ」
木の上から返事が返ってくる。どうやら日光浴の最中だったらしい。
「クッキーですよ! 一緒に食べましょう!」
私は持っていた小箱をベルナール様に見せる。彼は怪訝な顔になった。
「そんなことをするために、わざわざここへ? ……本当は何が目的だ? 兄上に僕を見張ってこいと言われたのか?」
ベルナール様は子鹿のようにしなやかな手足を自在に動かして、スルスルと木から下りてくる。その華麗な動きに惚れ惚れしつつ、私は「まさか」と首を振った。
「私の意思でここへ来ました。だって、お友だちのところへ遊びに行くのは普通でしょう?」
私は小箱の蓋を開けた。入っていたクッキーをベルナール様に勧める。
ベルナール様はどうしていいのか分からないようだったけど、恐る恐る腕を伸ばし、クッキーを一つ摘まんだ。そのまま一口で食べてしまう。
ザクザクという小気味よい音が響く。固唾を呑んで見守っていると、ベルナール様はため息を吐きながら腰を落とし、背後の木に体重を預けた。
「まずい」
ベルナール様は私を見上げる。
「君、料理は苦手なのか?」
「あまり得意ではないですね」
私もクッキーを食べてみる。そして、吹き出してしまった。
「本当ですね。まずいです」
私は微笑みながらベルナール様の隣に腰掛ける。彼は眩しそうな表情になっていた。
「……君は変わった人だな」
「そうかもしれませんね。……お嫌ですか?」
「嫌というか……。……僕がどんな人間なのか知らないのか?」
「知っていますよ。だから友だちになりたいと思ったんです」
私は箱に入ったクッキーを見つめる。
「このまずいクッキー、他の皆なら『美味しい!』って言って完食するに決まっています。私の魅了魔法がそうさせるんです。でも……あなたは違った」
私は声を弾ませる。
「素直な反応っていいものですね。あなたなら本当の私を見てくれる……。私のことを『悪女』と罵って、作ったクッキーを『まずい』と言ってくれる。私、ずっとそんな方に会ってみたかったんです」
「……罵倒されて喜ぶなんて、君はやっぱりおかしいな」
「罵倒じゃなくて真実ですよ。魔法で人の心を操るなんてよくないことだし、私のお料理の腕は壊滅的なんですから」
「それは……」
ベルナール様はわずかにうなだれた。
「あんなことを言って悪かった。羨ましかったんだ、君のことが。僕は父上から疎まれてこんなところにいるのに、君は皆に好かれていたから。でも、実際の君は悪い人なんかじゃなくて……」
そんな言葉が聞けるとは思っていなかったから、私は内心で驚いた。この方、案外素直なのかもしれない。
何だか彼のことがますます好ましく感じられて、私はベルナール様に柔らかな眼差しを送る。
初めて会った時に見せていた針のように鋭い眼光が消え失せたベルナール様は、柔和な感じのする青年に変わっていた。
「だからといって、逆にいいところもないんですけどね。私、大した取り柄もありませんので……」
辛そうな顔をするベルナール様を励ましたくて、私はつい自虐に走ってしまう。すると、ベルナール様は「そんなことない!」と声を荒げた。
「君は僕と友だちになってくれたじゃないか! 他の人なら見向きもしない僕と! それだけじゃ不満だって言うのなら、僕がサンドラのいいところを探してみせる!」
ベルナール様は立ち上がって私の手を取った。何が何だか分からないままに、離宮の中へと連れ込まれる。
辿り着いたのは娯楽室だった。大きな本棚や、盤上遊戯用の駒なんかが置いてある。
「料理は苦手でも、こういうことならできるんじゃないのか?」
ベルナール様は的当てゲームに使う小さな矢を手に取った。それを得点ボードに向けて投げる。矢は、まるで的に吸い込まれるように真ん中に命中した。
「わあ……!」
ベルナール様の神業に見とれつつも、私は「よし!」と気合いを入れた。
的当てゲームをするのは始めてだったけど、ベルナール様があんなに簡単そうにやってのけたんだから、きっと私にもできるはずだ。
しかし、これは大きな間違いだった。私の放った矢は明後日の方向へ飛んでいき、飾ってあった花瓶に突撃。棚から落ちた花瓶は大きな音を立てて割れてしまった。
「す、すみませんっ!」
あまりのことに私は血の気が引く思いだったが、ベルナール様はまるで気にせず、「別のにしよう」と本棚からスケッチブックを取り出した。
けれど、それも散々な結果に終わってしまった。すっかり忘れていたけど、私は絵心が全然なかったんだ。
それならばと、今度は詩の朗読や楽器の演奏にも挑戦してみたものの……。棒読みだったり、弾き方が分からなかったりでちっとも捗らなかった。
「すみません、すみません……」
もう何度目になるのか分からない謝罪をしながら、私は手にしたバスケットの中身を見て憂鬱になる。
離宮の庭に出てお花摘みをしていたんだけど、私が採ってきたのは全部毒草だったんだ。
「逆にすごいと思うけど」
ベルナール様は花を器用に編みながら何故か感心していた。
「君は本当に苦手なことが多いんだな」
返す言葉もない。日が暮れかけている空を見つめながら、私は無力感で体の力が抜けそうになっていた。
「やっぱり私、ダメですね。いいところなんかないんですよ……」
せっかく「サンドラの長所を探す!」と意気込んでくれたベルナール様には申し訳ないけれど、そう結論を出さざるを得ない。でもベルナール様は、「そうか?」と言った。
「確かに君は色々できないこともあるけど……。でも、魅了の魔法が使えるじゃないか。それはいいところだろ」
「そ、そうですか……?」
「当然だ。魅了の魔法はサンドラが持っている類い希な力。それを長所と言わないでどう表現するんだ」
私は立ち竦む。
そんなことを言われるとは思っていなかった。今までずっと疎ましく感じていたこの魔法を、「長所」と表現してくれるなんて……。
「それに……たとえ魅了魔法なんかなくても、サンドラはすごいよ。僕が保証する。だって、今日はすごく楽しかったから」
ベルナール様は私の手を取り、「よかった。ぴったりだ」と笑った。
さっきまで彼がいじっていた花の茎が輪っか状になって、私の小指にはまっている。花の指輪だ、と思った瞬間に頬が熱くなった。
「こんな気分になったのは久しぶり……いや、初めてかもしれない。友だちがいるっていいことだな。今日が終わって欲しくないと感じるくらいに……」
ベルナール様の寂しそうな顔に、私は離宮内部の様子を思い出さずにはいられない。広い廊下と小綺麗な部屋。そのどこにも人の気配はほとんどなかった。
はしゃぎ声を上げれば、それが壁に反響して辺りにこだまし、やがて自分の耳に返ってくる。そんな心細くなるようなことが、この離宮では始終起こっていたんだ。
ベルナール様が運動が得意で日に焼けているのは、そんな寂しい離宮に閉じこもっているのが嫌で、外に出て遊んでいたからじゃないかしら?
外出できない時は、室内で時間を潰していた。的当てゲームにお絵描きに楽器の演奏。今日私が彼に誘われてやったのは、どれも一人でできるものばかりだ。
ベルナール様はどの遊びもとても上手かったけど……。きっと、それは他にすることもなかったせいで同じ遊びを繰り返していたからなんだろう。
「また明日も来ますよ」
少し妄想をしすぎたかもしれない。けれど、それがいかにも本当のことのように思えた私は堪らなくなって、声を震わせた。
「明後日も、その次も、そのまた次も……。雨の日も雪の日も私はこの離宮へ来ます。だって私たち、友だちでしょう? 私は友だちを見捨てません」
「サンドラ……」
ベルナール様の褐色の瞳が潤む。私はまるで何かに引き寄せられるように、ベルナール様の元へ一歩近づいた。
彼も距離を詰めてくる。気が付いた時には、二人の唇は重なっていた。
「友だちって……こういうこともするのか……?」
ベルナール様の顔は夕日に負けないくらい赤かった。きっと私も同じようなものだろうと思いながら、「しないと思います……」と掠れた声を出す。
「でも……悪くないです」
「……そうだな」
私たちはイタズラっぽく笑う。中庭を渡るそよ風が、小指にはめられた指輪の花を優しく揺らしていた。
****
宣言通り、私は毎日離宮へ通った。
不器用な私では、やっぱりベルナール様が誘ってくれるどんな遊びも上手くはできなかったけど、そこで過ごす時間はとても楽しくて……。
まるで夢を見ているような気分だった。
けれど、あることがきっかけで、私はいきなり現実の世界に引き戻されることとなる。
「ああ、愛しいサンドラさん!」
今日も離宮へ行こうと屋敷から出た途端に、芝居がかったセリフに出迎えられた。門のところに王太子殿下が立っている。
「どうしてここに……?」
「長い間あなたの顔を見ていなかったからね。聞けば、弟のいる離宮に通い詰めだったとか! もしかして私は忘れられてしまった……? そう思うと、涙も川になってしまうほどだったよ。私が溺死してしまう前に、今日は一緒に過ごそう!」
殿下に腕を引かれ、私は止めてあった馬車へと引っ張り込まれてしまった。
「こ、困ります!」
殿下の強引さに困惑しながら、私は抗議する。
「私、ベルナール様と約束が……」
「心配いらないよ。あの子もちゃんとこれから行く場所にいるからね。何せ、今日は記念すべき日なのだから!」
「これから行く場所? それに記念すべき日というのは……?」
「おっと、それは秘密だよ! 言ってしまったらサプライズの意味がなくなってしまうからね、スイートポテトちゃん!」
殿下は上機嫌で言ってのける。一方の私は、何のことやらさっぱり分からずに呆然としているしかなかった。
それでも行き先だけはどうにか見当を付けようとして小窓から外を覗いてみれば、どうやら馬車は王宮へと向かっているらしい。
今日、お城で何かの催し物があるのかしら? でも、それならベルナール様も招待されているのは変な話だ。
だって彼は、お父様――国王陛下からあまりよく思われていないのだから。
疑問は解消されないまま、私の推測通り、馬車は王宮の敷地内で止まった。殿下は私を大広間へと連れて行く。
そこには大勢の貴族が集っていた。それに陛下までいらっしゃる。想像していたよりも大変なことが起きそうな予感に、私は警戒せずにはいられない。
ふと、人混みの中にベルナール様を見つけた。慣れない場所にいるせいか、ひどく居心地が悪そうだ。
本当に来ていたんだ、と思うと同時に、異国で同じ国出身の人と出会った時のような安心感を覚えて、私は彼のところへ駆け寄ろうとした。
けれど、王太子殿下にそれを遮られる。背中を押されて広間の中央に連れて行かれた。周りにいた貴族たちが、示し合わせたように私たちから距離を取る。
「サンドラさん……」
一体何が始まるのかしらと思っていると、殿下が跪き、情熱的な目で私を見つめた。
「私と結婚してください」
……え?
「おめでとうございます!」
「遂に結ばれるのですね!」
「なんと素晴らしい!」
石のように固まる私とは対照的に、周囲は大盛り上がりだ。国王陛下まで満足そうに深く頷いている。天井からは横断幕が降ってきて、そこには「祝! ご結婚!」と大々的に書かれていた。
「けっ……こん……?」
小さく呟いてみたけれど、何も理解できなかった。結婚? 誰と誰が?
「あの……殿下?」
周囲の人々に向けて、「皆、ありがとう!」と感極まった様子で手を振っていた殿下に話しかける。彼は頬をバラ色に染めながら「どうしたんだい?」と言った。
「これは……何なのでしょう……? 結婚……?」
「もちろん、プロポーズさ!」
殿下は舞うような手つきで私の腰に手を回す。
「今日は記念すべき日! なにせ、愛し合う者同士が結ばれるんだからね!」
殿下は私の頬に手を添えて、唇にキスしようとしてきた。
「ひぃっ」
私は鳥肌を立てながら、夢中で抵抗する。何とか殿下の腕から逃れて、這うようにしてベルナール様のところへ向かった。
「サ、サンドラ……」
ベルナール様は唇を震わせている。青い顔で私と殿下を交互に見つめていた。
「愛し合う者同士って……。き、君は兄上と……そういう関係……だったのか……?」
「違います!」
とてつもない誤解をされてしまい、私はベルナール様の肩を揺さぶった。
「全部寝耳に水です! 殿下!」
私は王太子殿下に詰め寄った。
「こんなの困ります! だって私、ベルナール様のことが……!」
「サンドラさん、そんなことよりこれを」
私の話をまるで聞かず、殿下は懐から小さな箱を取り出た。入っていたのは光り輝く婚約指輪だ。
殿下はそれを私の薬指にはめる。その最中に私の小指に目を留めて、「おやおや」と肩を竦めた。
「いけないよ。君が指につけていいのは、私からの贈り物だけなんだから」
殿下は花の指輪を取って、床に捨ててしまった。
それを見た瞬間に、私の胸は刺されたように痛む。
ベルナール様からもらった指輪は、物の腐敗を遅らせる力を持つ人に頼んで魔法をかけてもらったので、贈られた時のままの姿をしていた。
幸福な時間の象徴。大好きな人の真心の証。
そんな大切なものが、いとも容易く投げ捨てられてしまった。とてもじゃないけど、受け入れられるような話ではない。
「サンドラさん、愛しているよ」
王太子殿下が恍惚として微笑んだ。それに呼応するように、周囲は歓声を浴びせる。
私は確信した。私の幸せは、この人たちの傍にはないのだということを。……いいえ。再認識した、と言うべきかしら。
だとするならば、今私が取るべき行動は一つだけだ。
「……嫌です」
私は薬指から婚約指輪を引っこ抜き、殿下に突き返す。
「私、あなたとは結婚したくありません」
私は深呼吸する。思い出していたのは、かつてベルナール様に言われた言葉だ。
――魅了の魔法はサンドラが持っている類い希な力。それを長所と言わないでどう表現するんだ。
そう、魅了魔法が使えるのは私の長所だ。大事な人が教えてくれた私の取り柄。
その真価を発揮するのは、今をおいて他にはない。
「もう一度言います。私はあなたと結婚したくありません」
私は殿下を上目遣いで睨みながら、ゆっくりと大広間の端まで追い詰めた。そして、手のひらを壁につけて彼の逃げ道を奪う。
「私の好きな人は他にいるんです」
これまで意識して魔法を使ったことがないなんて信じられないほど、体の内側を流れる魔力をハッキリと感じた。私はそれを躊躇うことなく自らの外側へ向ける。
私の迫力に、誰も何も言えなくなってしまう。先ほどまであんなにうるさかった大広間は、水を打ったように静かになっていた。
そんな中で私の声は、まるで天に届くように堂々と辺りに響いていた。
「お分かりですね、殿下。私はあなたの妻にはなれないんですよ」
私は殿下の顎の下を軽く撫でながら口角を上げる。すると、彼は今にも昇天してしまいそうな表情で、口をだらしなく開けながらコクコクと頷いた。
次に、私は周囲を見回して言い放つ。
「皆さんも分かりましたか? 私は王太子殿下の結婚相手ではないということを」
私の魅了魔法にすっかり当てられてしまった人々から、反対の声が上がるはずもない。皆トロンとした目付きでこちらを見つめていた。
私は捨てられてしまった花の指輪を拾う。
「私が好きなのは、ベルナール様だけですから」
私は指輪をベルナール様に渡す。
事の成り行きを唖然としながら見ていたベルナール様は、苦笑いした。
「『君は悪女じゃない』って言葉、訂正する方がいいか? こんな方法で皆をねじ伏せてしまうなんて……」
それを聞いた私は勝ち気に笑う。何だかとっても気分が良かった。
「あなたが言ったんですよ。『他人を魔法で魅了してしまえるところも含めて私の長所だ』と。それとも、悪女の私はお嫌いですか?」
「……そう思うには、君のことを好きになりすぎてしまったよ」
ベルナール様が私の指に指輪をはめてくれる。ただし、今度は小指じゃなくて薬指だった。
とは言っても、サイズが合わなくて途中までしか入らなかったんだけど。
「……直さないといけないな」
「すぐに取りかかってくれますか?」
「もちろん」
ベルナール様の微笑みに胸が高鳴る。周囲から割れんばかりの拍手が聞こえてきた。
「おめでとうございます、サンドラ様、ベルナール様!」
「お幸せに!」
誰も彼もが私たちを祝福していた。ベルナール様をよく思っていなかった国王陛下は感激の涙を流し、フラれてしまった王太子殿下は小躍りしている。
それは、どこか作り物のようにも見える奇妙な光景だった。
けれど、もう私はそんなことは気にしない。私はベルナール様と寄り添って大広間を出た。
行き先はもちろんあの離宮だ。手始めに指輪を直してもらおう。それで、その後は……。
限りなく広がっていく楽しい想像。胸の内が希望で満ちていく感覚に、私はいつの間にか笑みを漏らしていた。