少女は朝を見ず
【壱】
五限目。
未来を語る明るい声をかき消すまいと、雨は控えめに降っていた。ほんの少しの眠気と肌寒さが心地よい。
芦梛めぐるは手元の進路希望調査票を裏返し、上からペンケースで押さえつけた。
「今はつらい時期だと思いますが、乗り越えればきっと――」
教壇に立つその大学生は、この学校の卒業生だという。
外の天気と対照的なその顔は、さぞかし普通の人生を送ってきたに違いない。親のマリオネット、自我も個性も無いつまらない人間。野望も無いし、突出した才能も無い。
――そうやって勝手に他人の人生を決めつけて納得しないと、自分が惨めで仕方なくなる。
小さい頃からやっていたから、という理由でめぐるは女子バスケットボール部に入部した。しかし三年生になっても、ただ人数の埋め合わせになっている。将来の仕事にするには、いささか悩んでしまう。
なりたいものと出来ることは違う。
かと言って、他に何かが出来るというわけでもないが。
「芦梛さん、肘つかない」
いつの間にか、担任がそばに立っていた。
こうしてあからさまに粗探しをしてくるから嫌いだ。
19時35分。
燐明学園前駅、弐番ホーム。
「きのうの見た?恋ハレ」
「見た見た!あたしさ、もう完全に当て馬派だわ」
「またぁ?いっつもそうじゃん」
今シーズンの月9ドラマ『恋は晴れ間のように』、略して”恋ハレ”。証券会社のオフィスが舞台のラブコメで、無名の新人女優がヒロインに抜擢され話題を呼んでいる。
「めぐるは?どっち派?」
話を振られ、更新されないSNSの画面から顔を上げた。
めぐるの少し前に立ち、こちらを振り返る二人は同じバスケ部のメンバーである。基本的にいつもこの三人でいることが多く、交友関係がさほど広くはないめぐるにとっては貴重な存在だ。
しかし、同時に気まずさも感じていた。
二人だけでいるほうが楽しいだろうに。
そんなめぐるの思いはつゆ知らず、二人は話を続ける。
「めぐるはヒロイン派でしょ、いっつもそうじゃん」
「ほんとヒロイン好きよね、アンタ」
「いや、今回は社長秘書派」
「え、あのメガネの?女の趣味変わった?」
「綺麗でしょ、秘書役のひと」
「でもなんかキツそうじゃん」
「いいよ、それでも」
めぐるの好みって分かんねえ、と二人は笑いながら先発の電車に乗り込んでいった。大きく手を振るその姿に、控えめに手を振り返す。
車両が見えなくなってから、小さくため息をついた。そこそこ会話は弾んでいるのに、妙に疲れる。
めぐるが乗る予定の次の電車が来るも、今日も満員で座れそうにない。前髪の左側に留めてある黒のヘアクリップを留めなおした。
(帰ったらめちゃくちゃ寝よ…)
アナウンスに混じって、両耳につけたイヤホンからアヴェマリアが響く。この女性のソプラノが一体何を言っているのかわからないが、めぐるはそこが好きだった。
所変わって、京都。
京都市というのは、古都の雰囲気をどことなく残しつつも発展した場所であった。新幹線も停まり、一時間もあれば特急でなくとも大阪の中心まで迫ることができる。市バスの路線は碁盤の目をした古来の道に張り巡らされ、高層と呼べるのか曖昧ではあるがビルなんかも立ち並んでいたりする。
その一角、オフィスビルの一階にあるコーヒーショップが併設されている本屋。
「まさか、本を読みながらコーヒーが飲める時代になっているとはね」
クールブラウンのおさげを鬱陶しそうに振り払いながら女が言った。大人数でも囲めるほど大きなテーブルの端に座り、観光雑誌の特集ページを眺めている。
「思えば、ここ数年は百鬼夜行の交通整理でしか来てませんでしたね」
テーブルをはさんだ反対側、長髪の男が薄く笑う。色の濃い丸グラスで目元を隠しているが、もともと笑い顔のようでさほど表情に変化はない。
女は手元の雑誌を見せようと、テーブルの中心へ寄せた。
「ねえ、これアンタ載ってるわよ」
「これは…奈良の僕ですね」
「そういや私、奈良のお前しか見たことないな」
男の横、長い金髪をひとつにまとめた頭が会話に混ざった。雑誌を覗きながらアイスカフェラテをストローで混ぜるるたび、氷のぶつかる音がする。
「なんですか。せっかく京都を堪能できるというのに、現世の僕を見る会になってしまっていいんですか?スイーツとか食べて恋バナとかしましょうよ」
不服そうに男が言うので、他の二人は呆れた顔をした。
「コイツすぐ女子会したがるよな。べつにいいじゃん、他のお前も見に行こうよ」
「そうよ、たまにはアンタの話もしなさいよ」
男は、表紙に「仏像特集」と書かれたその雑誌を閉じて立ち上がった。
「僕は記憶力が良くないんです、覚えてませんよ」
19時07分、燐明学園前駅の改札前。
きのうより一層、強さを増した雨が地面を叩く。雨雲が犇めく空にさらされた場所に、或斧くるみは佇んでいた。何をするわけでもなく、同じく雨に打たれている案内板を見つめるだけ。二つにまとめている金髪はとっくにびしょ濡れだった。
「制服濡れてるけど、いいの?」
すぐそばの屋根のある場所から、心配げにこちらを見つめる彼女を手招いた。彼女は少し躊躇ったが、手に持っている傘を閉じたまま近づいてくる。
「めぐる、天国や地獄は人の心の中にあるそうよ」
「…へえ」
めぐるは微妙な顔をした。くるみはいつも、脈絡もなく話をはじめるのだ。
だが、これも惚れた弱みというやつだから仕方がない。めぐるの栗色のショートヘアを押し付けるように巻き付けている黒のリボンは、雨を吸い込みはじめていた。
「でもね、私は場所としても存在しているんじゃないかって思うの。だって誰も証明できていないじゃない?あるってことも、ないってこともね」
たしかに一理ある。めぐるはくるみを決して否定しない。或斧くるみという人物は、良く言えば高嶺の花で悪く言えば孤立している。だから、その唯一の理解者になることで存在証明をしたかったのかもしれない、と後に思った。
「不思議の国のアリスみたいに、鏡を通ったら行けないかしら」
「…死にたいってこと?」
違うわよ、とくるみは無邪気に笑った。
「単純に興味があるってだけよ。天国へ行くには、死が必要なの?ある歴史上の人物は閻魔様のもとで働いていたっていうじゃない。たしか、庭の井戸からあの世と行き来してたとか」
二人して、濡れたまま改札を通る。交通系ICカードは、少し水に濡れたくらいでは機能は損なわれないそうだ。めぐるは、部活用に持ってきていた複数枚のタオルを取り出した。未使用のものが一枚だけあったので、くるみに渡す。
「明日、風邪引いちゃうかもね」
「なんで嬉しそうなの…。私は困るよ、だって明日は…」
改札とホームをつなぐ階段を登り切ると、弐番ホームにはとっくに電車が到着していた。あとは出発を待つだけのようで、二人は迷わず乗り込んだ。
が、先に乗っためぐるが足を止めた。
「くるみ、これ回送列車じゃない?」
「あら、どうりで人がいないと思ったわ。この時間は混んでいるはずなのに」
そう言いながらホームへ引き返すくるみを後から追った。
しかし、めぐるの足は車内の床から動かない。
振り返ったくるみが不審に思って声をかけるも、めぐるはこちらではないどこかを見つめている。その顔は見たこともないくらい引きつっていた。
「どうしたの、めぐる――」
腕を引っ張って連れ戻そうとくるみが手を伸ばした瞬間、後ろへ突き飛ばされた。ホームで電車を待つ人々が、一斉に視線を向ける。
「大丈夫ですか?」
尻もちをついたくるみに、サラリーマンが声をかけてきたが今はそれどころではなかった。くるみを突き飛ばした人物は振り返りもせず、回送と表示された車両へ乗り込んでいったのだ。
そして次の瞬間、その車両は忽然と姿を消していた。
くるみの足に立ち上がる力は無く、ただ呆然と車両のあった場所を見つめるだけで。腕に絡まったタオルから、柔軟剤の香りがほのかに鼻先を掠めた。
回送列車に乗ってしまった場合は、どうすればいいんだ?
ブラックアウトした視界のなかでめぐるは考えた。なぜか視覚だけ失っているようで、電車の動く音と揺れだけが感じ取れる。
「この列車は急行です――」
アナウンスがそう告げる。それと共に、視界に光がぼんやりと射した。視覚が戻っていくのを感じ、瞼を持ち上げると電車の中で座っていた。背負っていたリュックも、ちゃんと膝の上で抱えている。
(なんだ、急行だったの?でもどこかで引き返さないと…)
そう思って立ち上がると、めぐるは絶句した。
火の玉だ。
しかもかなり複数の。ホラー系のアニメでしかお目にかかれないような、テンプレート的な火の玉がふよふよと浮かんでいる。
嫌な汗が一筋、背中を伝う。
ふいに窓の外を見ると、流星群が暗闇を勢いよく流れていた。こんな場所など知らない、悪夢でも見ているのだろう。
「銀河鉄道の夜みたいだな」
声の聞こえるほうを見ると、正面の座席に青年が座っていた。ボックス席で斜向かいになっていたのに、どうして気付かなかったのだろうか。
「巫屋くん…?」
「なんだ、知ってたのか。俺のこと」
巫屋馨介は口元だけを緩く微笑ませた。
彼はめぐるのクラスメートで、学年トップの成績を常に維持している。そのあまりにも高レベルな頭脳で、校内クイズ大会において無双していたのが記憶に新しい。基本的にはローテンションだが社交的でもあるようで、なにかしらの実行委員や体育祭で応援団長なんかもやっていた。あまり関わったことはないが。
めぐるは座り直し、おそるおそる火の玉たちを指さした。
「変なこと聞くけど、巫屋くんはアレって見えてる?」
馨介は確認もせずに頷いた。
「えっアレだよ?ほんとに見えてる?」
「見えてるよ、火の玉の大群だろ」
深呼吸をひとつにして、めぐるは尋ねた。
「ええと…夢だよね?私の」
口から出た日本語はぐちゃぐちゃだ。とりあえず落ち着かなくては。混乱したままでは何も解決しない、と最近読んだ漫画で誰かが言っていた。
漆黒の髪に反して、色素の薄い馨介の瞳がメガネの奥で笑った気がした。
「夢ってさ、自分の経験したことで出来ているんだと。俺は芦梛さんの知っている人だし、きっとどこかで宮沢賢治も読んだことがあるんじゃないか」
「…?」
イマイチ要領の得ない回答に、めぐるは眉を寄せた。ああ、と何かに納得したようで馨介は言葉を続けた。
「じゃあ夢なんじゃない?って言ったんだ」
「…バカだコイツって思ったでしょ。アンタが並外れた天才なだけだからね」
悪態をつこうと思ったが、結果的に褒めた感じになってしまった。背もたれに体重を預け、めぐるはふと思い出した。
「そうだ、私、学校から帰りの電車に乗って…」
「乗って?」
馨介が独り言の続きを促すので、記憶をたどっていく。
「あ、女の子がいた」
「へえ?」
「プリンセスみたいな恰好の、あれ…?」
そこから記憶がぷつりと途切れている。じゃあ、眠った瞬間の出来事なのか?
…まさか。そのときめぐるは立っていたし、その少女も同じだ。
「うわっ」
列車がガタンと大きく揺れた。
考え込んでいたためにバランスを崩し、思わず声が漏れる。慌てて窓に手をついたが、喉がヒュッと鳴った。
「これ、やっぱおかしい…」
めぐるの手は血の気が引いて白くなり、震えている。怪しんだ馨介はその視線の先を追った。
線路の下。
つまり線路は宙に浮いているということになるが、青黒い大河が見えた。そこに浮かぶ屋形船やたくさんの灯篭が、小さくではあるが確認できる。
「どこ走ってるの、これ」
「まあ、俺たちがよく知っている世界ではないことは確かだな」
冷めた声で馨介が言った。めぐるは余計に恐怖を感じ、後ずさる窓から離れた。
火の玉、大河の遥か上を走る列車、不自然に途切れた記憶…。いや、いくらリアルな夢にしたってあまりにも感覚がありすぎる。頭が今までにないくらい混乱している。
「…異世界ってやつ?」
「かも」
「んな馬鹿な」
有り得ない、と言いかけてやめた。電車の進行方向がやけに明るく見える。
ああ、あれか。テーマパークにあるアトラクションを体験したときの記憶がフラッシュバックした。
めぐるの大きな瞳は、もうひとつも光を反射していない。
機械的なアナウンスが車内に響く。
「この電車は急行です。まもなく黄泉の国へ入ります」
「次は終点、冥府に停まります」
めぐると馨介は顔を見合わせた。
「メイフ?」
刹那、窓の奥がスモークに包まれた。それでも電車はスピードを緩めない。大きく揺れる車内で、肩を壁にぶつけためぐるは息を呑んだ。
「痛い…」
スモークが晴れ、打って変わった明るさに視界を奪われた。
続く。