第1話 隣のお姉さんが…
天気は快晴。GW中の暖かな日だ。
引越しの後片付けも大方終わった。
これからいよいよ一人暮らしだと思うと、何となく気持ちが軽くなる。
ベランダに出て大きく伸びをしていると
「きゃああああ~~~っつ!誰か、誰か助けてぇ~~~!」
俺の平穏をブチ破る女性の悲鳴が間近から響いた。
俺はベランダの塀越しに隣を覗き込む。
するとそこには隣の部屋の住人が大きく身を乗り出し、ベランダの塀に腰を引っ掛けて足をバタバタさせている。
今にも落っこちそうだ。
ここは五階だ。
落ちたらケガ程度では済まない。
「待ってて、いま行きます!」
俺はそう叫ぶと、隣のベランダとの敷居をブチ破った。
このマンションはベランダが隣室と繋がっているが、非常時の避難用に仕切りは簡単に破れるようになっている。
「あああ~~っつ!」
女性はさらに悲鳴を上げた。
身体はヤジロベエのように、腰部を中心にベランダの内と外でユラユラと揺れている。
「動かないで!いま引っ張り上げますから!」
俺は女性の腰に飛びついた。
ズルッ
女性の上半身が、さらにベランダの外側に傾いた。
女性はホットパンツを履いていた。そのホットパンツがズレる。
俺は女性の真白なヒップに、顔を埋める形になってしまった。
「きゃあああーーーっつ!」
「暴れないで!大丈夫です!コッチで押えてますから!」
俺は女性のヒップに顔を埋めながら叫んだ。
俺は上体を女性の下半身に押し付け、彼女の身体を固定する。
ゆっくりと両腕を彼女の腹の上側、つまりバストの下あたりに回した。
よし、安定した。この体勢なら持ち上げられる。
そのまま後方に投げ飛ばすように、思いっきり女性を引っ張り上げる。
力いっぱい引っ張ったせいか、勢い余って俺は女性を抱えたまま、反対側に倒れこんでしまった。
ゴチン、という固い音がして後頭部に衝撃を喰らう。
目の前がクラッとした。
その状態で十秒近くいたのだろうか?
「あ、あの、あの、大丈夫ですか?」
暗くなりかけた視界の向こうから、そんな声が聞える。
「あ、あ、はい、俺は大丈夫です」
俺は何とかそう答えた。
だがまだ視界が暗い。
意識をハッキリさせようとする。
起き上がるため、無意識に何かを掴もうとしたらしい。
ぐにゅ
何か手の中で柔らかくも弾力のある感触が伝わる。
んっ、なんだこれは?
再び無意識に両手が動く。
ぐにゅぐにゅ
片手では収まらない丸いものが、俺の手の中で弾力を保ちつつ形を変えた。
「ひぁ」
小さな声が聞えた。
それと共に俺の視界もハッキリしてくる。
目の前には黒い艶やかな髪の毛がある後頭部。
そして鼻先に伝わるふんわりとしたいい匂い。
俺の腕の中には……暖かくも柔らかさを感じる女性の身体が…
「あのぉ、助けて貰って申し訳ないんですが……そろそろ離して貰えませんか?」
女性は少々言いにくそうに、そう伝えてきた。
ハッとなった俺は慌てて両手を離す。
女性は立ち上がりながら、尻の下近くまでずり落ちてしまったホットパンツを履き直す。
彼女は赤い顔をしながら俺の方に向き直ると、右手を差し出した。
「ありがとうございました。ところで、大丈夫ですか?」
そう言う彼女を姿を見た時、俺は天女が手を差し伸べてくれているように感じた。
「どうぞ、大したものはありませんけど」
女性はそう言って、入れたてのレモンティとマドレーヌを出してくれた。
「あ、いえいえ、どうぞお構いなく。十分ですから」
俺はそう言いつつ、ティカップに手を伸ばした。
先ほど俺は、ベランダから落ちそうになっていた女性を引っ張りあげた。
女性は「お礼をしたい」と言って、そのまま部屋に俺を招いてくれたのだ。
「危ない所を、本当にありがとうございました。私、けっこう抜けている所があって……」
彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
女性は色白で黒髪ロングの大人しそうな美人だ。
目は二重でパッチリしている。
鼻筋もきれいに通っていて、唇も健康そうな紅色だ。
メイクはしていない。
それなのに肌は透明感のある白さ、顔の形もスッキリと顎がとがっていて、まるでモデルみたいだ。
しかしキツい印象は全然受けない。
むしろお淑やかで清楚なイメージだ。
それなのに胸はかなり大きい。
なにせさっき思いがけず、この手で確認したから確実だ。
ヒップも足のラインも整っている。
そこらのグラビア・アイドルには負けないレベルのスタイルの持ち主だ。
「こちらこそ先ほどは失礼しました」
俺はさっきのラッキーエッチについて、二度目の謝罪を口にした。
「そんな、気にしないで下さい。わざとじゃない事は解ってますし、あのままだったら私は転落死していたかもしれないんですから」
「どうしてあんな事になったんです?」
「お布団を取り込む前に埃を叩こうとして。それで身体を乗り出して布団を掴んだら、バランスを崩しちゃったんです。ドジですよね、私って」
彼女は自分の頭をコツンと小さく叩いて、ペロッと舌を出した。
その仕草が美貌とはアンマッチな感じで、何とも可愛らしい。
……本当、美人なだけじゃなくて可愛らしい人だな。何歳くらいだろう?二十歳くらいかな?とすると女子大生か?……
俺は彼女の仕草を微笑ましく見ながら、そう思った。
「でも本当に良かったです。たまたま俺もベランダに出ている時で」
「そうですよね。ちなみにお隣の503号室はOLさんだったと思うんですが、親戚とかですか?」
「その方は四月中に引っ越されたようですよ。俺がGWから入居したんです」
「それで隣でガタガタ音がしていたんですね」
「すみません。うるさかったですか?」
「大丈夫です、私は気になりませんでしたよ。ちなみに一人暮らしですか?」
このマンションは1LDKタイプだ。家族で住むには少し手狭だ。
「はい、俺一人です」
「ご家族は?」
「親父が急に海外赴任が決まったんです。だけど俺は大学受験もあるんで日本に戻りました」
「お母様もお父様と一緒に、海外に行かれたんですか?」
「いや、母親は俺が小学生の時に家を出て行きましたから」
俺としては別に普通に話したつもりだが、彼女は少しだけ目を丸くして口を手で押える。
「ごめんなさい。変な事を無遠慮に聞いちゃって」
「別に気にしてないです。俺からしても、もう昔の事なんで」
すると彼女は優しい笑顔でこう言った。
「私も一人暮らしなんです。あなたは命の恩人だし、こうして出会ったのも何かの縁だと思います。もし解らない事や何か困った事があったら、遠慮なく言って下さいね。私で出来る事なら力になりますから。恩返しも兼ねて」
俺はそんな彼女の笑顔に引き込まれる気がした。
「ありがとうございます。そう言えばまだ引越しの挨拶もしていませんでした。俺は稲村司と言います。よろしくお願い致します」
「そんなに改まらなくても大丈夫ですよ。こちらこそよろしくお願いします。あ、そう言えばこのマンションのゴミ出しには気を付けて下さいね。二階の方ですごくゴミ出しにうるさい人がいて……」
彼女は簡単にこのマンションでの注意点や、近所の美味しいお店について話してくれた。
俺はそんな彼女を見て
「こんなキレイで可愛くて、しかも優しそうな人が隣人なんてラッキーだなぁ」と思っていた。
彼女の部屋には小一時間ほどお邪魔しただろうか。
俺は元のようにベランダを通って自分の部屋に戻った。
……あれ、ところでお隣さんの名前はなんて言うんだろう?聞き忘れたな……
わざわざ名前を聞きに行くのも何だし、俺は玄関を出て彼女の部屋・504号室の表札を確認してみた。
……名前、出してないのか……
表札は空欄だった。
もっとも最近は家を特定されるのを嫌って、表札を出していない部屋も多い。
……まぁいいや、また今度会った時にでも聞いてみよう……
それが俺と彼女との、初めての出会いだった。