海の話
「なんで海?」
慣れた様子で運転する男に問いかけると、「んー」と、不明瞭な返事が聞こえた。
直線が続き、運転にも余裕が出てくる。深夜一時ということもあり、車通りはまばらだった。外灯のオレンジだけが続いている。
「普通の人は海見に車出さないんだよ。深夜に」
『海を見よう』とだけ書かれた、説明不足の連絡を思い出す。翌日は暇なこともあり、理由もなくのってしまった。
そうかなあ、俺は出すけど。と、男は口の端をもぞもぞさせながら話す。
「でも、来たってことは、見たいってことでしょ」
そこで口下手な男は、表情を崩した。夜行性なのかなんなのか、この男からの誘いは深夜が多い。さすがに海は初めてだったが。
スピーカーからは、知らない曲が流れている。運転席の男と、少しだけ歳が離れていることを思い出した。
そんな無駄話も途切れ、無言の時間を過ごしていると、つい先日のことが頭をよぎった。
劇団が崩壊するのは、金か女か人間関係。
それを耳にした時には、ずいぶん小さなことで崩壊するものだとあきれていた。
だが実際に年齢性別、経験値、すべての違う集団をまとめるとなると、必ずズレは生まれてくる。
先日の一件もその一つだった。
周囲を乱す人間を、正論でただす。
しかし、その言葉がどんなに正しくとも、周りの人間を納得させられるかはまた別の話だった。
後悔はない。誰かが切り出さなくてはいけない話だった。全員が諦観していたら事態はなにも変わらない。
そして何より、安全圏にいるよりも自分から行動するほうが性に合っていた。
だから後悔はない。理解してくれる仲間もいたし、問題はなかった。
そこまで考えて、今ここに座っていることは、それに関係してるのかもしれないな、と思い、動揺した。
そんなにベタなことはあるかという焦りと、自分の、表に出していない気持ちを読まれたかもしれない不安から冷や汗をかく。
男は変わらずハンドルを握っている。
男からなにかを話そう、という様子は見えるのだがなかなか口は開かない。試しに自分が話しかけるとしばらく続いた。
「やっぱり、話しやすい」
男はゆっくりと瞬くと相好を崩した。
それは運転をしているからなのか、自分の話によるものなのか分からない。
男の相槌は心地よく、なにを話しても穏やかな反応が返ってくるので、のびのびと話すことができた。
料金所が見えると、スピードを落とす。ぼんやりと支払いを見ていると、右手の指輪に目が止まった。服装に気を使っているとは思えなかったので、彼女かも知れないな、と思った。
「タバコ吸っていい?」
「どうぞ」
促されたので遠慮なく灰皿を開ける。幾つか吸い殻がつまれていた。男は吸わないので、他の誰かのものだろう。家族の共用車らしいから、父親かもしれない。
窓を少し開け、煙を逃す。
どうして海なんだろうな、と思った。人を慰めようと思ったら、他にやりようはいくらでもあるのに。深夜に、なんで海?
バックミラーを見る。男のまなじりをさげて笑う目と、目があった。
「せっかく、同期になったんだからさ」
言葉は続かない。うまく伝えようと、考えているのが見て取れる。静かに待つ。
いい曲だと思った。なんの曲かは分からない。静かで落ち着いた、凪いだ海のような曲だ。忘れていなければ、降りた時にタイトルを聞こう。
俺は曖昧に返事した。
「なんで海?」
ひとしきりはしゃぎ終わったあと、車に乗り込みながら言われた。
同乗者全員で、海に日が沈むのを見終わってからのことだった。
助手席に乗り込む男は、免許証を取りたてで、自分が「ドライブに行こう」と、言うと二つ返事で承諾した。行き先は決めていないのに。
そこからなあなあでやってきて、急に聞かれても困ってしまう。
楽しかったからいいんだよ、と同乗者のいい加減な声が聞こえる。
助手席の男も特に答えは求めていないらしく、シートベルトを締めると携帯電話をいじっている。
運転席に乗り込むと、どうして海なのかを考えていた。
なんで海に来ようと思ったんだろう。新しい関係を始めるなら、他にやりようはいくらでもあるのに。
なにかを思い出しそうな気がしたが、少しむず痒い気がしたので、やめた。