メートル #1
自称うだつの上がらぬ漫画描き、ありていに言えば単なるアマチュア漫画描きであるところの私キヨ(独身♀)と、雑誌連載持ちであり自他共に認める立派なプロ漫画家である紫(独身♀)が、行きつけの大衆居酒屋にて定例の酒宴を開くのはこれで何度目だろうか。
私がウェーイウェーイなどという意味不明な枕詞で乾杯を宣言すれば、彼女はハイお疲れと平凡に返してくる。
掲げられたビールジョッキにあふれる黄金の麦汁は逐次むごたらしく濾過され、ソルティードッグにつつましく添えられたレモンを指ごとしゃぶり尽くす。
メートルを上げよ、今はそうする他ないのだ。
対面に鎮座するクールビューティー黒髪メガネ娘こと紫は古い親友であり、お酒の場に限らず長い付き合いを続けている。
ファンタジー系の少年誌で連載を持ち、時代の流行に対する嗅覚鋭く、逆境や困難も泰然自若であしらう誇り高き女傑である。こんなの、いろんな意味で売れないわけがない。作者自身の人間的魅力こそ、得てして作品を面白くするものなのだ。
翻って私キヨ。外見こそ平凡だが発展途上の漫画描きであり、売れっ子の親友に水をあけられてはいるけれど、同人活動など精力的に展開し、いずれ紫と肩を並べるプロ作家になる才能を秘めている。最近はその秘才をあまりに秘め過ぎて古代遺跡の秘宝となりかけているが、むしろその方が高く売れるというものである。
いざ来たれトレジャー・ハンター。
周りの人々は私達の関係を見てどう思うだろう。
きっと私が紫に対して何らかのジェラシーや劣等感を抱いていると思うだろうがそれはない。
二人の肩書の隔たりを考えれば無理もない結論ではあるが、しかしそのような邪推は大いなる的外れであり、余計なお世話かつヤカマシイと言わざるを得ない。
私と紫は、ソウルメイトと呼んでも差し支えない親友である。
元より紫は対等な立場だからこそ私と付き合いを続けているのだし、卑屈な態度を見せたりしたら、きっと彼女は軽蔑の眼差しを送ってくるに違いない。あるいは場合によって、彼女の暴力的な一面を見る事になるかもしれない。
へらへらと媚びへつらう私を見るや激怒し、強烈なパンチをお見舞いする事だろう。そんな時も彼女は商売道具である右の利き手は使わず、左こぶしで私をノックアウトするのだ。紫はそれくらい男らしい大人の女であり、尊敬に値するプロである。
だから私は遠慮などしない、大事な親友にスキャンダラスな暴力事件など起こさせてはならない。どこまでも対等に、ライバルとして相応しくあらねばならないのだ。
なんだったら紫に対してちょっとしたアドバイスを与える事も躊躇しない。これは私が調子乗ってるという訳では断じて無く、プロであれど自分の作品を客観視するためには、世辞やおだてを廃したオピニオンというものが必要不可欠だからだ。
……と思うからだ。
たとえ今日の酒席が紫のおごりであろうとも、私の経済的な理由から紫のポケットマネーに負担を強いていようとも、親友に遠慮などしてはならない。我々は女だらけの漫画道を(なんと華の無い道だろう)切磋琢磨して進まなければならないのだから。
私は緒戦から、彼女の作品に対して批評をくり出すと決めた。
メートルを上げた私は無敵だ。
「あんたの連載の先月号、今までで一番凡庸だったぞ!」
「……ここの払い割り勘にしてほしいのか貴様」
紫は笑顔で酒を飲みほしたが、声は笑っていないので少し怖かった。
貴様て。
私は怯まず、ビシッと指摘する。
「ファンの生の意見は聞いとけってー、オチがゆるゆるだったよ」
「あーすんませんね、今月との2話で片付けるつもりだったんよ。あと人に箸を向けるな」
そう言って紫は、グラスに残った酒をクッと飲み干す。
痛いところを突くと思わせながら、さりげなく『ファン』という単語を混ぜることによって作家の良心を刺激したせいか、紫はそれ以上の反論を見せることは無かった。
あるいは私の意見など想定の範囲内であって、さも我こそストーリラインの穴を見つけたりと上から目線で指摘した私こそ、紫の掌の上で踊らされている滑稽なニワトリ野郎なのかもしれないが。
さすが紫、一筋縄では太刀打ちできない。さすゆか。
ここで店員が、勝利の焼き鳥盛り合わせを運んできた。
勝負はまだまだこれからである。更にメートルを上げるべく、追加の酒を注文して仕切り直しとするべし。
「そう言うおめーはどうなんよ? 今日の即売会は」
横目で酒を選びながら、紫の反撃が始まった。
即売会とは、言うまでもなく同人誌即売会の事を指す。
そこでは誰もが描きたいものを描き、読みたいものが読める。プロもアマも関係なく、純粋な創作意欲によって作品を頒布する場である。
雑誌投稿や持ち込みといえばプロ作家に近づくための第一歩だが、自ら手作りで仕上げた冊子でスカウトを待つのも有効な手段である。そして何より大事なのは、読み手を実感出来る事。
投稿や持ち込みでボツになった作品はそのまま消え去るしかなく、そこには原稿と共に虚しさと寂しさが積み重なり私を圧し潰していく。苦労して描いた漫画であろうと、採用されなければ何の意味も無い事は当然わかっているけれど、そうした虚無への一方通行は心を病みかねないほど辛いものなのだ。
たとえ人数は少なくとも、受け取ってくれる人が居るが故に、即売会は救いの場と言えよう。
――とくに私のような者にとっては。
「……まーいつも通り」
はぐらかしている様だが事実だ。
「創作同人て売れんの?」
「金になったらアンタにたからんわ」
嫌な流れになったなと思いつつ、焼き鳥を串からほぐしてゆく。
好物のつくねを、たあんと食らうがいい、紫よ。
新たな酒を受け取り、グビリと流し込んでから、テーブルに叩きつけられたグラスの底をゴング代わりに、私はまくし立てた。
「てゆーか売れる売れないじゃねーんだよ、統計じゃ6割赤字。プロと違って、もっとピュアな世界なんだから。編集者にあれこれ指図されたり、順位を気にしたりしないで描ける場なんだよ」
「あれこれ指図されたことあんの?」紫はつくねを口に放り込みながら言った。
「……ないけどっ。とにかく売り上げじゃねーのよ、紫もいつか分かる日が来るから。読み手と対面で交流出来る素晴らしさとか、たとえ稚拙でも作品を発表出来る喜びとか、誰であっても等しく参加する権利を与えられているとか、そういう良さがあんのよ」
今更、漫画描きならある意味常識とも言えるような事を力説するのは紫に同人経験が無いからである。彼女は持ち込み一本でプロ作家の座を勝ち取った剛の者なのだ。
紫は私の知らない扉を開き、私の知らない世界で生きているのだ。
「面白そうだな、私も出てみよっかな」
「来 ん な。お前が出したら売れるに決まってるだろーがっ」
「売上じゃないんじゃないのか……」
残りのプライドを打ち砕きに来るのはやめて頂きたい。
「そんで、持ち込みの方は? 出版社」
ついにその話題が来たか、私は不敵な笑みで余裕をアピールすると上半身を折り曲げるようにして、テーブルに豪快な頭突きを叩き込んだ。
「もはや落ち込むこともないわ……」
志を持つ男子が死ぬときは、前のめりが是非是非オススメであると何かで読んだことがある、司馬遼太郎だっただろうか。
残念ながら私は女だし、坂本龍馬でもないのだが。幕末攘夷の志士が私の野心と剣術の冴えを知ればおそらく幹部待遇でスカウトしに来るに違いない。そんな時も紫は一足飛びで新選組の幹部となり私を成敗しに来るはずだ、私も負けじと、いざ天誅とばかりに迫る官軍を切って切って切りまくり……また、妄想が飛躍してしまった。
昔からこうである。
他人と話をしていても、一人で考え事をしていても、知らぬ間に思考が脱線して他の事を考えてしまう。これが一般人ならただの厄介な人でしかないのだけれど、しかし表現者としてなら一概に悪いことばかりとは言えないはずなのだ。
余人には思いつかないようなキャラクターを生み出し、誰も考え付かないトリックで読者をあっと言わせる。平凡な思考回路では、そのように優れたアイデアを作り出すのは難しいだろう。
だから自分には適性がある、表現者の道こそ自分に合っているのだと、そう思っていた。思っていたのだけれど。
「まぁー縁もあるからなぁ……そーいやネーム原作として採用されたとか言ってたじゃんこないだ、アレどーなったん?」
成果の出ぬ私を憐れんで話題を選んでくれたのかもしれないが、そっちも駄目だったのよ紫。ていうか自分から言わないんだから、そりゃ駄目でしょうよ。そこら辺はその明晰な頭脳で察して頂きたい。
ネームとは、いわゆる漫画のラフ案である。
地道な作画作業で完成を目指すのは漫画家の仕事だが、ネーム原作者は前段階の大まかなストーリーや画面構成を担当し、作品はいわゆる分業体制で完成させることになる。
我々にとって本職の漫画家といえば、とかくアイドル的存在であり憧れの対象として認識するものなのだが、それに比べネーム原作者は少し地味な存在と感じられるかもしれない。
しかし、そのようなミーハー的な考えを排し、逆に考えれば絵しか取り柄のない漫画家よりも、全体的な構成を司るネーム原作者の方が表現者としての器は大きいのではないだろうか。
最近はネーム原作を対象にした作品大賞も数多く開かれており、プロ作家への道の一つとして考えるのもいいかもしれない。いいかもしれないのだが。
「知らん間に無しになってた」
「うわ」
私はまだテーブルにキスしたまま、顔を上げることができない。
採用された程度で自慢げに報告してたもんだから、この結果は地味に恥的ダメージが大きかった。
漫画業界では口約束ほど無意味なものはない。いいやたとえ契約を交わしたとしても、交渉段階から此方に不利な条件を飲まされるだけであって、結局この閉塞した状況から抜け出す為には良い作品を描き、編集者を魅了するしか方法はないのだろう。
そもそも現役プロの紫だって、積み重ねてきたキャリアを考えれば、ボツの数など私を軽く上回るに違いないのだ。
この程度で、尻に帆をかけるわけにはいかないのだ。
「あんたの漫画は、匂ってくるモンがあって好きだけどね……私は」
グラスの縁にまぶされた塩を弄びながら紫は言う。
私を元気付けようとしてくれているのかしら。なんつって。
私も紫もアルコールに強く、どれだけメートルを上げても酔いつぶれる事はないのだが、今日の彼女の一言は腹に重く突き刺さり、どろりと溶けていきそうな気分になる。どうせなら何時もの様に、ふざけるなバカたれと一喝してくれた方がどれだけ楽だっただろう。
もしかしたら自分には才能などこれっぽっちも在りはしなくて、勘違いに勘違いを重ねた、勘違いのミルフィーユで腹を満たして満足しているだけなんじゃないだろうか。そう思うと、後戻りできない断崖絶壁へと続く道を、そうと知りながら歩いている気がするので、普段はなるべく考えないようにしている。
どんな時でも考えないようにしている。
「……誰からも褒められなきゃ、さっさと見切りつけられたさ」
視界の隅で、グラスに映る私は水滴にまみれ歪んでいた。
「ゴチんなりゃーース! あザーす!」
「お会計¥※※※※になりまーす」
「ごちンなりゃあザあース!」
「領収書、会議費で」
「あザまああああああああアアああぁ!」
「うるせぇ!」
私は会計する紫の隣で、水飲み鳥人形の如く高速お辞儀を繰り返した。親友だからといって礼を欠いてはならない。いつの日かきっと、今日の恩に報いる日がやってくるだろう。
私がプロ作家になれば報恩になるのだろうか?デビューしたら?
……ちょっとそれでは私が紫の弟子みたいじゃないだろうか。
いいやすでにプロとアマという歴然とした差が付いているのだから、そのような心配は周回遅れというものか。
だとしたら、何をすれば、彼女への恩返しとなるだろう。
考えながら頭を振ったので、少し目が回った。
会計を済ませた紫の後ろに付いて歩く。
地下に備えられた居酒屋というものは、地上世界と違った雰囲気に満ちている。
酔っぱらいの喧騒は閉鎖空間に反響し、体の中で酒と騒音が交じり合い、気分は自然と高揚していく。他の客とすれ違いながら、狭い階段の道半ばで出口を見上げてみれば、小さく切り取られた夜空と紫が重なる。冷たい外気に向かって導かれるようで頼もしくもあり、自分が情けないようでもあり。そんなどうでもいい事を、彼女の尻を見ながら思った。
明るく照らされた街路樹に沿って駅前まで歩く。火照った体の熱は空気中に拡散し、たった今まで大胆不敵に飲み食いしていた事を忘れそうになる。
今夜はこれでお開きだが、これから酒を楽しむ人々もいるのだろう。私達とは違う人達、関係のない人達をかき分けながら、メートルの上がった紫が突如シャドーボクシングを始めた。
「漫画の仕事は待ってたって来やしねーのよ。プッシュプッシュ、倍プッシュなんだよ! お前は押しが足らん、内弁慶のくせに」
デスクワークをこなす人種らしく、腰の入っていない手先だけのアッパーだったが、その手はすでに夢を掴んだ手なのだと思うと力強く感じた。私にもいつかそんな拳を放てる日が来るのだろうか。
『諦めるには早すぎる、諦めるには遅すぎる』と歌った歌手が居たような気がしたけれど、私の人生は明らかに後者であった。
私の望みや期待はいつも先走り、無限の地平を目指して走り出すのだが、後悔や真実は必ず後から追いかけてきた。
しかし望みは捨てるまい。無駄に蓄積した日々と原稿は私の上に積みあがり、出会ってきた憎き編集者や紫も纏めて折り重ね、重重無尽の漬物石となりて私を美味しくする筈なのだ。
……いや、待った。塩で揉まれた記憶がないぞ。
これでは美味しく、なるわけない。
弱音を吐くには、今しかない。
「もうそんな馬力出んわ、潮時だよ」
「……そっか。まぁ漫画だけが人生じゃないさ」
優しい紫はあっけなく、終幕宣言に同意してくれたので――
――私のパンチが火を噴いた。
「辞めんなって言えや! 辞めんなって言えやああああああああ!!」
信号の前で立ち止まった紫の右腕に、私の鋭い左アッパーが炸裂する。
皮膚と脂肪の薄い箇所、骨までダメージが浸透する最適なポイント目掛けて放たれた私の拳は確かに彼女へ届いた。
「絵描きの腕殴るな殺すぞ!!」
マジ切れである。
怒号の殺人宣告を皮切りとして、彼女も反撃とばかりにショルダーバッグをゆるゆる振り回し、スカート姿も厭わずローキックを繰り出した。
上下段合わせ寸分の隙も見せぬその戦型は、鎖鎌の達人・宍戸梅軒もかくやという様相で私を威圧したが、こちらも幕末の剣豪として一歩も引くわけにはいかない。
ここで第二ラウンドをおっぱじめるとしようか。
「こ の や ろ !」
「とうっ」
信号待ちをしているサラリーマンが、怪訝な表情で我々を見つめている。
メートルを上げた私達は、無敵に違いない。