だったら貴女の首をお斬り
長い階段を一弾飛ばしで駆け上がり、重い扉に手を掛ける。
秋の風が勢い良く頬を撫でていく。
一瞬だけ息が詰まり、落ち着いたところで深く吐き出した。
視線を走らせた先には、女の子なのに気怠そうに胡座をかいて、その上に数枚の紙を置いて眺める人。
こちらに気付くことなく、ただひたすらに紙を見下ろしている。
その瞳は相変わらず真っ黒なガラスのようだ。
「作、ちゃん」
空気を震わせて吐き出した言葉は、風に乗ってその人に届いたらしい。
上げられた視線は、やはり光のない黒で、真っ直ぐに私を見つめて瞬く。
薄い唇から吐き出された吐息に混ざり、本屋さんの、と聞こえてきた。
父の驚き方とは違い、見開かれる瞳も、眠そうで直ぐに元通りの大きさになる。
足の上に置いてある紙が、風に攫われそうになるのを手の平で押さえ込んでいた。
「ボクに、用事、かな」
バサバサと音を立てる紙を揃え、居住まいを正す母。
風に煽られる黒髪は、私とも父とも違う。
表情がない顔からは、特別な感情を読み取ることは出来ずに、ただ私の言葉を待っているようだ。
「卒業、するんですね」
長い前髪が揺らされ、チラチラと瞳を隠したり見せ付けたりしている。
するよ、風に混ざって響く透明度の高い声に、私の足は前へ出ていく。
冷たそうなコンクリートの上に座り込んだ母の前に立ち、ぼんやりとした目で私を見上げる母を見下ろした。
満足そうな顔をしていた父とは違い、無表情で頷く母は、学校に対する思い入れが少ないのだろうか。
少なかったなら、高校時代の制服を引っ張り出し、いい歳をして制服を着る、なんてことはない、はず。
私が見詰めるので、自然と母も私を見詰める。
「楽しくなかったんですか」
長い睫毛が母の顔に小さな影を落とす。
ゆらりと揺れた黒目は、何の感情を見せてくれない。
「楽しい、楽しくない、だと、半分ずつ、かなぁ。だって、その日、その時、その瞬間で、違う、でしょう?」
一つ一つの言葉を区切る母の言葉は、聞きにくいようで聞きやすい。
首を捻りながら、視線は空へ投げられる。
両手で持つ紙がバサバサと風に煽られ続け、今にも飛び立ってしまいそうだ。
「ボクは、学校、そのものが、苦手だったから」
揺れる紙を押さえ付け、そこに書かれているものを眺める母は、僅かに目を細めた。
白い肌は太陽の下にあっても、不健康に光を吸い込んでいる。
白さがより際立っている様子を見ながら、私は視線を左右上下に動かす。
父はひょいひょいと言葉を投げてくれ、沈黙は必要なものとして適度に挟むタイプ。
母は自分の気の向くままに口を開き閉じ、身内の枠に入れた人間以外に多くを語らないタイプ。
見れば見るほど、話せば話すほど、触れ合えば触れ合うほど、その違いが目に見えて分かる。
「でも、うん、良かったことも、あるんじゃないかな」
私が目線を忙しなく動かしている時に投げられた言葉に、目を見開いたが、母は無表情で私を見る。
それから、紙を持っていない方の手を伸ばし、スカートから覗く膝を引っ叩く。
乾いた良い音が屋上に響き、時折小刻みに震えていた膝が折れる。
膝から崩れ落ちる私を見て、母が満足そうに息を吐き「先から、生まれたての、子鹿みたい」と言った。
悪気のない真顔で、悪意の欠片もない言葉だったが、別に無理矢理座らせるような真似をする必要はなかっただろう。
コンクリートと膝がぶつかり合い、鈍い音を立て、中の骨に妙な振動を伝えている。
「家から、一番、近い、学校に、通いたい。そう、思うのは、自然、の、摂理、でしょう」
痛みに唇を引きつらせている私を正面から見つめながら、淡々と言い切った母。
癖の強い髪がふわふわと風に揺らされていて、可愛げがあるがその飄々とした様子は可愛くない。
高校なんて卒業資格だけ貰えるなら何でもいい、という内容を語る母は、やはり私の母だ。
どこでも好きな高校を選べと良い、途中で辞めたって良いんだと言い切った、私の母だ。
感慨深い何かのせいで目が細くなる。
「……崎代くん、に、会えたから」
「え?」
「……って、言ったら、嬉しい?」
本日初めての笑みは、小さなもので、口元を指先で触れながらのものだった。
僅かに細められた黒目には、目を見開く私が映り込んでいて、情けなくなる。
しかし、嬉しいか嬉しくないかで問われると、どうでもいいという気持ちが先行する。
眉を寄せる私を見て、そういう気持ちを感じ取ったのか、母が肩を竦めながら「悪くは、なかったけど」と、微妙な曖昧な言葉を落とす。
紙を両手に持ち直して立ち上がる母は、私に背を向けた。
そうしてフェンスまで寄っていき、グラウンドを見下ろしているようだ。
「君は、楽しい、かな」
くるりと体を回し、フェンスに背中を預けた母が、そう問い掛けた。
疑問符の付かない、抑揚のない声だが、確かに問い掛けである。
しかし、その問い掛けに答えられる答えを、私は持ち合わせていなかった。
私は中学生で、この高校に行きたい、と思えるようなことがないのだから。
楽しい、楽しくない、で収まるものではない。
「……どうなんですかね。楽しく、なりますかね」
顎を引き上げて頭を後ろに倒すようにして、不思議そうに目を瞬く母は、紙に視線を落とした後、言葉を舌の上から転がし出す。
「どうだろうね」あっけらかんとした、興味が無いとも取れる答えだった。
「でもきっと、両親が満足した場所だから、興味はありますよ」
ゆらり、向けた視線は屋上全体を見回し、最後に母をその目に映す。
薄い笑みを浮かべれば、一瞬だけ丸く見開かれた目が、前髪の隙間から良く見えた。
唇を引き上げ、僅かに目尻を下げるだけの笑みは、母と良く似ていると言われてきたが、どうなんだろうか。
「……御両親が、この学校、だった、の」
「はい。この学校で出会い、結婚しました」
それはまた、小さく風に乗って届けられた声には、確かな抑揚があり、感情が込められていた。
驚きと困惑、そんなことがあるのか、そう言いたげだが、貴女達のことだと伝えたら、どうなるのか。
結果は分からないが、試してみるつもりもない。
睫毛を揺らしながら、瞬きの回数を増やす母は、カサカサ音を立てて自己主張する紙を握る。
グラウンドの方から微かな声が聞こえて、母の体が僅かに揺れた。
その声はきっと、父か、それとも母の幼馴染みか。
「父と同じで良い母親になりますよ、きっと」
フェンスに背中を引っつけたまま、首だけでグラウンドを見た母に投げた言葉は、届いただろうか。
またしても足元に現れた真っ暗で真っ黒な穴は、私の体を吸い込んで行き、振り返った母の顔を見ることは叶わなかった。




